第26話 俺をスキーに連れてって
海岸線での事故未遂以来、石山剛は車の運転をやめ、自宅アパートに完全に引きこもっていた。彼の右足と脇腹に残されたトラウマは、単なる神経の過敏さではなく、慢性的な腰部と股関節の痛みとなって石山を苦しめていた。特に冷え込む日や、長時間同じ姿勢でいると激痛が走った。
それは、金田に蹴りつけられた衝撃が、彼の身体のバランスと骨格に決定的な歪みをもたらした結果だった。
そんな彼の部屋に、唯一、過去の楽しさを思い出させるものが、壁に貼られたスキー場のポスターだった。石山にとってスキーは、工場の清掃業務で汚れた心を洗い流す、数少ない**「聖域」**だった。 彼は毎年、この季節になると雪山へ向かい、雪の冷たさとスピード感がもたらす解放感を求めていた。
だが、今年の冬は違った。
テレビのニュースでは、雪国のパウダースノーが報じられていたが、石山はその光景をただ虚ろな目で見つめるしかなかった。少し動くだけで腰に走る鋭い痛みが、彼にスキー板を履くことなど、永久に許さないと告げていた。
「スキー……」
彼は、ポスターに貼られた雄大な雪山を、二度と辿り着けない**「楽園」**のように感じた。
石山は、自分の体が、金田によって完全に破壊され、自由を奪われたことを思い知った。尿を漏らした屈辱、運転操作を誤った恐怖、そして今、唯一の生き甲斐だったスキーまでもが、あの日の安全靴の一撃によって奪われたのだ。
彼は、ベッドの上でうずくまりながら、金田の暴力の連鎖が、自分の身体を内側から食い尽くしている感覚に耐えていた。
(全部、金田のせいだ。金田のせいで、俺は何もできなくなった。汚ねぇコンベアを磨いてた頃の方が、まだ人間だった!)
彼の溜まりに溜まった怒り、屈辱、そして絶望は、物理的な行動を起こす力を失った体の中で、異様な復讐の妄想へと昇華されていった。
金田が通り魔に襲われ入院したという噂を、彼は以前、元同僚から聞いていた。石山は、その情報を脳内で増幅させた。
部屋の隅にある、プラスチックのゴミ箱。石山は、それを**「金田大介」**に見立てた。
彼は立ち上がり、腰の痛みを無視して、引き出しから取り出した一本のカッターナイフを握りしめた。そのカッターは、以前工場で段ボールを切るのに使っていたものだ。
石山は、薄暗い部屋の中で、ゴミ箱に向かってゆっくりと歩み寄った。
(金田。お前は俺の人生を壊した)
彼の妄想の中で、彼は今、病院のベッドで弱り切った金田の前に立っている。
「これが、俺の**『指導』**だ、金田さんよぉ……」
彼は、ゴミ箱(金田)に向かって、カッターナイフを何度も、何度も振り下ろした。
ザクッ!ザクッ!ザクッ!
ゴミ箱のプラスチックが裂け、醜い音を立てる。カッターの刃が、彼の溜め込んだ憎悪の数だけ、金田の肉体を突き刺していく。脇腹、胸、顔……彼は、金田が石山に与えた苦痛を、その何倍にもして返そうとした。
息を切らし、脂汗を流しながら、石山はカッターナイフを振り続けた。彼の顔は、怒りと狂気で歪み、目には涙が浮かんでいた。
妄想の中の金田は、抵抗することなく、ただ血を流して倒れていった。
石山が手を止めたとき、ゴミ箱は無数の傷でボロボロになっていた。部屋には、荒い息遣いと、冷たい雪の光だけが残った。
彼は、自分が肉体的な力を失った代わりに、精神的な暴力という、より破壊的な方法で復讐を遂げてしまったことを知った。
石山はカッターナイフを床に落とし、その場に座り込んだ。
唯一の居場所である自分の体を破壊された石山は、唯一の逃げ場である自分の心の中で、暴力の連鎖を完成させてしまったのだ。彼の心は、もはや雪のように清らかではなく、血と憎悪にまみれた、泥沼と化していた。
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