第4話  苦鬼駅の呪縛

 野火病院を出た翌日の夜勤前、石山剛は決意していた。このままではいけない。打撲の診断書しかなくても、とりあえず出勤し、せめて人事担当者に相談する機会を得なければ。

​ 午後9時。石山は、自宅から少し離れた**「苦鬼くき駅」**のロータリーに立っていた。彼の工場「フレッシュ・デリ」へ向かう最終の社員送迎バスは、この駅前のバス停から出る。

​ バス停にはすでに、まばらに同僚らしき作業着姿の人間が立っている。その中に、金田の姿はない。彼は自分の車で来ることも多かった。石山は、心臓の鼓動を抑えつけながら、一歩一歩、バス停へ近づいた。

​ 残り、あと10メートル。

 ​彼は、ふと視界の端に映ったものを捉えた。それは、バス停の背後に設置された飲料の自動販売機に、ぼんやりと反射した自分の姿だった。

​ 憔悴しきった顔。目の下の深い影。そして何よりも、彼の脳裏に焼き付いている金田の安全靴の影。

​「ドスッ」

​ 頭の中で、またあの鈍い音が響いた。バス停にいる同僚たちが、全員、彼の背後に立っている金田に見えた。彼らは石山を待ち構え、サボりの罰を与えるために集まっているのだと。

​ 体が、動かない。

​ あと数メートルなのに、足がコンクリートに縫い付けられたかのように固まった。

​「…無理だ」

​ 彼は、喉の奥から絞り出すような小さな声で呟き、踵を返した。バス停とは反対方向、駅の改札口へと逃げ込んだ。

​ 石山は、目的もなく改札を通り抜け、誰もいない上りホームのベンチに座り込んだ。時刻は午後9時15分。工場行きのバスは間もなく出発するだろう。 彼はこの瞬間、金田の支配から一時的に逃れた。しかし、その代償として、彼は会社という社会的な場所から完全に切り離されたのだ。

​ ホームには、夜の帳が降り、冷たい風が吹き抜ける。電車が来る気配はない。

​ 石山はポケットからスマートフォンを取り出した。画面には、何十件もの着信履歴。金田、人事、そして母親から。それら全てを無視し、彼はアプリのフォルダを開いた。

​ たどり着いたのは、パズルゲームのアイコン。『ぷよぷよ』。

​ 彼は、意味もなくそのアプリを立ち上げた。赤、青、緑のカラフルな「ぷよ」が、画面の上から降ってくる。石山は指を動かし、同じ色のぷよを四つつなげて、連鎖を組んでいった。

​ 一つ、二つ、三つ……「いっかい!」

​ 連鎖が続き、ぷよが弾ける。「にれんさ!」

​ さらに連鎖。「さんれんさ!」

​ 彼の集中は、ただこの小さな画面に向けられていた。連鎖が成功すると、頭の中の金田の声や、安全靴の幻影が、一瞬だけ消え去るような気がした。

​ このゲームには、明確なルールと、公正な結果がある。手を抜けばすぐにゲームオーバーになるが、努力すれば連鎖は必ず成功する。そこには、金田のような理不尽な暴力も、朝倉先生のような冷たい拒絶もない。

​ 石山は、工場の作業では決して得られなかった確かな達成感を、虚ろなホームのベンチで、小さな画面の中で必死に求めた。

​ 気がつけば、30分が経っていた。

​ 画面に**「GAME OVER」**の文字が大きく表示される。彼はまたアプリを立ち上げ直す。

​ そしてまた、ぷよぷよが降ってくる。

​ 工場の夜勤が始まる午後10時を過ぎても、石山はホームに座り続けていた。彼は、今、この駅で時間を潰すという行為こそが、彼が金田という現実から逃れるための、唯一の安全地帯だった。

​ 彼の工場での作業は、夜明けまで続く。石山の**「ぷよぷよ」**も、バッテリーが尽きるまで、あるいは彼自身が疲労で動けなくなるまで、終わらない連鎖を続けるだろう。

​ その夜、石山は、現実の時間から完全に降りてしまった。そして、彼の存在が工場から消えたことで、工場側も動き出すことになる。

​ この後の展開として、会社からの連絡や、ぷよぷよの「GAME OVER」の後に彼がどうするか、ということが考えられます。

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