第3話 紅葉 / 反対 / 光

反対色の光と紅葉


神崎アカリにとって、秋は世界が最も鮮烈な色を放つ季節でありながら、同時に最も孤独で息苦しい季節でもあった。


その息苦しさの原因は、父、悟だ。父は、プラズマ物理学の権威であり、彼にとって世界は、厳密な数式と、揺るぎない自然法則、そして絶対的な真実の光によって構成されていた。「感情や芸術はノイズに過ぎない」というのが父の絶対的な真理であり、アカリが心惹かれるすべて—色彩、音、物語、そして写真—は、父の世界観と完全に反対の位置にあった。


アカリが通う高校の裏には、古い禅寺「永明院」がある。寺の裏山は、地元の隠れた紅葉の名所だ。例年、九月の終わりから十月にかけて、山の楓は太陽の光を浴びて、言葉では表現しがたいほどの赤や黄金色に染まる。アカリは、この色彩の爆発を愛し、古いフィルムカメラのファインダー越しに、その一瞬の美しさを永遠に閉じ込めることに熱中していた。紅葉の一枚一枚は、アカリにとって、父の厳しい科学の世界から逃れるための、秘密の逃避行だった。


「今日もまた、山か」


ある晩秋の夕食時。アカリがリュックからカメラを取り出すと、父はすぐさまそう声をかけた。彼の声には、常に査定するような冷たい響きがある。


「はい。永明院の紅葉が、今、一番きれいですから」


アカリは努めて平静を装って答えた。


「きれい、か。その『きれい』とは、どのような定量的な根拠に基づく定義だ?光の波長か?彩度か?それとも、脳内で放出されるセロトニンの量か?その曖昧な主観を、写真という手段で固定化することに、何の生産性がある?」


父の言葉は、いつも精密に調整された高周波パルスのようだった。彼の研究室で扱う荷電粒子のように、強烈なエネルギーを持ってアカリの心を貫く。


「生産性がないからこそ、価値があるんです。数式では表せない、心に響くものが」


「心。その非再現的で不確実なブラックボックスを、どうして人生の羅針盤にしようとする?世界は、真理の光によって動いている。その真理は、詩や絵画、写真などでは決して解明できない」


アカリは食いしばった。父のこの「芸術反対」の姿勢は、彼女が幼い頃から変わらない。それは単なる価値観の違いではなく、父自身の過去の深いトラウマに根ざしていることを、アカリは知っていた。


父がまだ若い頃、彼は高エネルギーの荷電粒子加速器を用いた新素材開発に熱中していた。それは、従来の物理学の枠を超えた、革新的な研究だったらしい。しかし、十年ほど前、父の研究室で重大な漏洩事故が発生した。化学物質や微量の放射性物質が外部に流出し、環境汚染を引き起こしたのだ。幸い、人命被害はなかったものの、父は研究責任者として莫大な賠償を背負い、研究者としてのキャリアを大きく反対の方向へと変えざるを得なかった。


母は言っていた。「あの事故以来、お父さんは『不確実なもの』や『人間の感性』を極端に恐れるようになったの。感情の揺れや、予測不能な美しさが、彼の世界を破壊すると信じている」


父はその後、より安全で予測可能な分野、つまり理論物理学へと転向した。彼の理論は緻密で完璧だが、どこか冷たく、人間性を欠いていた。アカリの写真への情熱は、父が目を背けた「不確実だが美しい世界」を、自分が代わりに守りたいという無意識の反発でもあった。


その夜、アカリは父の言葉に打ちのめされながらも、いつものように永明院の裏山へ向かった。


今回は、父の科学的真実とは反対の、夜の紅葉の姿を撮ることにした。フラッシュを使わず、三脚を立てて長時間露光する。暗闇に溶け込んだ楓の葉が、わずかな月の光や遠い街灯の光を微かに受け止め、フィルムの上で徐々に像を結んでいく。それは、肉眼では見えない、時間と光の合作だ。


山道を登り、最も鮮やかな赤を放つはずの楓の群生地にたどり着いたとき、アカリは立ち止まった。


他の楓が、まだ昼間の熱を残したような赤や橙色を放っているのに対し、一角だけ、異様な光景が広がっていた。


そこにあったのは、もはや「紅葉」ではなかった。葉は黒ずみ、まるで燃え尽きた炭のように光沢を失っている。遠くから見ると、その一角だけが闇に食い尽くされたような印象だ。近づいてみると、葉は異常に乾燥しており、触るとカサカサと音を立てて崩れ落ちる。強烈な赤の集団の中で、その黒ずんだ群生は、まるで誰かが引いた反対の黒い線のように見えた。


アカリは鳥肌が立った。これは自然の変色ではない。病気でも、枯れでもない。まるで、植物の生命そのものが否定されたような、異質な現象だった。


アカリは懐中電灯をつけ、黒い紅葉の根元を探った。土は湿っており、妙に粘り気がある。そして、微かに、かつて父の研究室で嗅いだことのある、金属が熱せられたような、そして腐食した薬品のような匂いが混ざり合っていた。


その黒ずんだ群生の足元、古びた石垣の影に、不自然な人工物が見えた。それは、苔むしたコンクリートの縁。使われなくなった古い井戸だ。


アカリは心臓が冷えるのを感じた。井戸の周囲には、錆びついた金属片と、分厚い石英ガラスの破片が散乱している。それらは、間違いなく父がかつて使っていた、高エネルギー実験の計測器や遮蔽板の一部だった。


(まさか、あの事故の廃棄物を……)


父は、事故後、すべての廃棄物を適切に処理したと公に発表していた。しかし、この裏山の井戸に、人目に触れないように処分していたのではないか?高エネルギーの荷電粒子実験の副産物には、強力な酸化剤や、重金属が含まれることが多い。それらが井戸水と土壌を汚染し、紅葉の遺伝子レベルの変異を引き起こしたのだと推測できた。


紅葉の美しさが、父の隠した「真実」と反対のベクトルで、その過ちを暴こうとしている。


アカリは震える手でカメラを構えた。彼女の芸術への情熱が、今、父の「科学的真実」を追求する唯一の武器へと変わった。


アカリは、この黒ずみを単なる「醜い汚染」として終わらせるつもりはなかった。父が最も信頼する「客観性」をもって、この真実を提示する必要があった。


アカリは、父の書斎から高性能な紫外線光源(ブラックライト)を失敬し、再び裏山へ向かった。彼女の頭の中では、写真化学と物理学の知識がフル回転していた。


葉が黒いのは、本来赤を発するアントシアニン色素が、汚染物質の影響で分解されるか、あるいは別の物質に変化し、すべての光を吸収するようになったからだろう。この「黒」は、光の「欠如」そのものだ。


アカリは、井戸の真上に三脚を立て、カメラを固定した。彼女は井戸の底に向けて、フラッシュをたき、シャッターを切った。


パシャリ。


モニターに映し出された写真を見て、アカリは息を飲んだ。


井戸の底に溜まった水面。その水は、微細な汚染物質の粒子を浮遊させており、水面に当たるフラッシュの強烈な光を乱反射・屈折させていた。


そして、水面に映る、逆さまの「黒い紅葉」の像。その像は、驚くほど鮮やかな青紫色に輝いていた。


「これだ……!」


アカリは理解した。写真の光の作用、特にデジタル処理における階調反対(ネガ/ポジ反転)のメカニズムと同じことが、この汚染された水面で自然に起きていたのだ。


黒い葉は、本来赤を放つはずだった部分。


井戸の水面は、その黒い「欠如」の部分に、周辺のわずかな光(主に青や緑の波長)を集中的に反射・屈折させた。


その結果、最も醜い「黒」の部分が、最も鮮烈で非現実的な「青紫」という、赤の反対色として写真に写し出されたのだ。


「最も強い闇が、最も強い光を放つ。まるで、父さんの理論が私に反対しているみたい」


アカリは、この写真が持つ意味を悟った。この光は、科学の失敗を隠蔽しようとした父の行為が、皮肉にも、自然の光の法則によって、最も芸術的な形で告発されていることを示していた。父が最も愛し、最も憎んだ科学の理屈(光の屈折と反射、化学的変異)が、アカリの愛する芸術の手段(写真の構図と色彩)を通じて、真実を暴いたのだ。


アカリは、プリントアウトした写真を、一枚だけリビングのテーブルに置いた。


その夜遅く、帰宅した父は、コーヒーを淹れようとリビングに入り、その写真を見た瞬間、硬直した。彼の瞳は、実験中に臨界点に達した荷電粒子のように、激しく揺れ動いていた。


父は、ゆっくりと写真に近づき、屈んでそれを手に取った。彼は、数式を解析する時のような、異常な集中力で写真を凝視した。


「この光沢、この青紫の色は……何が原因だ」父の声は、低く、喉の奥で詰まっていた。


アカリは、写真の反対側に立っていた。彼女は逃げずに、父の目をまっすぐに見つめた。


「父さんが荷電粒子の実験で使った、廃棄物です。永明院の裏山の井戸に捨てた残骸。その化学物質が土壌を汚染し、紅葉を黒く変異させた。そして、その『黒』が、水面の光の反射と屈折で、この『青紫』という反対色の光となって、真実を語りかけている」


父は、言葉を失った。彼の顔色は真っ青になり、彼の硬い理性の鎧に、深い亀裂が入った。


「全て…計算通りだったはずだ。漏洩はなかった。廃棄は完璧に行ったはずだった……」父は写真から目を離せない。


アカリは続けた。「いいえ、完璧ではなかった。科学では、自然の複雑性を完璧には制御できない。父さんは、自分の失敗を隠すために、この山を、この紅葉を、ただの『非科学的な場所』として否定した。でも、この写真は、私の光と、父さんの化学が、偶然にも交差した真実の記録です。父さんの科学的な知識と、私の感性的な視点。その二つが揃わなければ、この真実は、永遠に暗闇に隠されたままだった」


父は、写真を置いた。そして、深く、長い溜息をついた。その溜息は、過去十年の重みをすべて含んでいるようだった。


「その通りだ、アカリ。あの事故は、私の傲慢さから生まれた。私は、自分の理論が絶対だと信じ、少しの危険因子を無視した。私は、科学こそが世界を支配する唯一の光だと信じることで、自分の過ちを覆い隠そうとしたのだ」


父は顔を上げ、アカリの目を見た。その瞳は、これまで見たこともないほど、人間的で、弱々しい光を帯びていた。


「君の言う通りだ。私は、君の感情や、芸術の持つ力を、極端に反対し、恐れていた。それは、予測不能な『美』が、私の積み上げてきた『真実』を打ち壊すのが怖かったからだ。だが、君は、その『美』と『光』の技術で、私が目を背けた最も醜い真実を、最も鮮烈な光として、私に突きつけてくれた」


その瞬間、アカリと父の長年の対立は終わった。父は、自分の過ちを認め、アカリの持つ「感性の光」が、科学的な「理性の光」と同様に、世界を照らす真理であることを理解したのだ。


アカリにとって、紅葉はもはや、ただの秋の色彩ではない。それは、父の過去の失敗と、娘の現在の情熱が交差する、和解の象徴となった。父と娘は、互いの価値観を反対のものとして否定し合うのではなく、互いを補い合い、より広い世界の真実を見つけるための「光源」となったのだ。


アカリは、自分のカメラを手に取った。次にシャッターを切るとき、彼女の写真には、科学的な厳密さと、人間の深い感情、その両方の光が宿っていることを確信していた。

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