第8章 約束 (1)

 夜風が少し冷たい。自転車のハンドルを握る手に、その冷たさが心地よく沁みてくる。いつもよりゆっくりと、ブレーキをかけながら坂道を下った。


 街灯が並ぶ通りに出ると、もう人影もまばらだ。家までは、ほんの五分。

 玄関の明かりはついているが、いつもの“待ち構えている気配”はない。

 (……そうだ。今日は外泊許可、取ってたんだった)


「今夜は友達と打ち上げだから」と言っておいた。だから、姉ももう心配してないだろう。

 ……そういえばお姉ちゃん。彼氏とかいるのかな。


 大学生にもなって、彼氏がいないなんてこと……ある?いや、別に詮索したいわけじゃないけど。なんか、気になる。

 だって、あんなに毎日ぼくの帰りを待ってるなんて。あれは――なんだったんだろう。


 今日はいないのは、バイトか。それとも……。ま、どっちでもいいけど。

 玄関で靴を脱ぎ、部屋に入る。制服のまま椅子に腰を下ろして、ひと息。時計を見ると、もう夜の七時を回っていた。

 

「……シャワーでも浴びよう」

 湯気の立つ浴室に入ると、途端に体がふわっと軽くなる。肩のこりも、舞台の音の残響も、ぜんぶ湯の中に溶けていくようだった。


 タオルで髪を拭きながら、思う。

 ――ほんと、疲れた。でも、今日は……悪くない一日だった。だけど、気になることも。……..オーケストラ部の年間予算が3千万円。


 なんだろう、この違和感。……いやな予感。胸騒ぎ。大沢はどうしてあんなにムキになったんだろう。……ああ、でも。眠い。


 ソファーに横になったまま、いつの間にか眠っていたらしい。ぼんやりした頭の奥で、低くブブッと震える音が響いた。


 テーブルの上に置いたスマホが、微かに光っている。画面を見ると――唯さんからのメッセージ。

「お待たせ! 今から学校出ます」


 時刻は、夜の八時を少し回っていた。

「……もうそんな時間か」

 

 思わず天井を見上げる。うとうとしている間に、夜が一段と深まっていた。これなら後夜祭、出てもよかったかな――そんな後悔が一瞬、頭をかすめる。


 でも、すぐに首を振る。いいや。今は、唯さんと会うことの方がずっと大事だ。

 慌ててベッド脇に置いてあったバッグを開け、普段着の着替え一式と新しいシャツとパンツをしまい込む。「……新品、っと」タグを外しながら、思わずニヤニヤ。


 何があるか分からない――だから、備えておかないと。


 そう、万が一のために。


 ……ふふふ。


 鏡に映る自分の顔が、にやけている。我ながらキモい。


 シャツの襟を正して、チノパンを履き、玄関のドアを開けた。夜風がひやりと頬を撫でる。


 唯さんはまだ坂を降りてこないだろう。ぼくは、下からゆっくり歩いて登っていくことにした。


 街灯の光がアスファルトの上で揺れている。後夜祭を終えた生徒たちが、三々五々、笑い声を上げながら帰っていく。ぼくは、その流れと逆方向に歩いている。

(なんか……妙な感じだな)


 まるで時間だけが、ぼくのまわりだけ逆回転しているみたいだ。月が雲に隠れるたびに、すれ違う人の顔が一瞬で闇に溶ける。それがまた、奇妙に静かだった。

 やがて――坂の上の方で、月が雲間から顔を出す。青白い光が、校門前を照らした。


 その光の中に、ひとつの影。人影がこちらに気づき、手を振ってくる。

 唯さんだ。

 

「つばさー! お待たせ!」


 背中にバイオリンケースを背負い、小走りに坂を降りてくる。髪が月光を受けて、ほのかに艶を帯びて光って見えた。


「いえ。ちょっと休めて、ちょうど良かったです」


 唯さんは小さく息をつくと、頬に掛かる黒髪を白い指でそっとかき上げる。その微笑みに月光が差す。……息を呑んでしまう。


 「……じゃ、行こっか」


 そう言って、ぼくの手を取った。――おっと、いきなりですか。心の準備が……。

 けれど、その手はあたたかく、柔らかかった。気づけば、指と指が絡んでいる。並んで歩くと、手のひらの温度がそのまま伝わってくる。


 坂道を、ふたりで下っていく。街灯が1つずつ過ぎていくたびに、影が重なり合う。


 なんだかもう、『お疲れさま』とか『演奏、すごかった』とか、そんな言葉は違う気がして――それでも。


「今日は、感動したよ。泣いた」


 それだけは、伝えたくて。

 唯さんが、はっとしたように立ち止まる。月明かりに照らされた横顔が、ほんの一瞬だけ揺れた。


 そして、ゆっくりとぼくの目を見た。やがて、目を細めて――。

「……ありがと」


 短く、静かにそう言った。

 それだけで、風の音も、遠くのざわめきも、全部消えていくようだった。

 

 坂の下のバス停。街灯の光が黄色く滲み、アスファルトの上にふたり分の影を落としている。

 風が少し冷たくなってきた。けれど、繋いだ手の温かさがその冷たさを忘れさせてくれる。


 ふたり並んで、バスを待つ。指先から伝わる鼓動が、かすかに重なっているのがわかる。ただそれだけで、胸の奥が満たされていく。

 本当は、話したいことがたくさんある。聞きたいことも。今日一日のことも、これまでのことも、そして――これからのことも。


 でも、不思議と今はそのどれも言葉にしたくなかった。話してしまえば、壊れてしまいそうな気がしたから。


(今夜のうちに……きっと、その時は来るんだろうな)


 そんな予感だけが、胸のどこかで静かに息づいていた。唯さんも、同じことを考えているのかもしれない。指がときおり、ほんの少しだけ動いてぼくの手を軽く撫でる。


 ぼくも、返すように指をすこし動かす。すると、また唯さんの方から“ちょん”と優しい反応が返ってくる。


 ――たったそれだけのやりとりが、どうしようもなく嬉しい。

 言葉なんていらない。この指先の小さな会話だけで、十分に通じ合っている気がした。


(恋人同士って、きっとこういう感じなんだろうな)


 初めて、そんな感情を心の底から実感する。ほんの少し触れただけで、世界が柔らかく見える。そんな時間が、自分にも訪れるなんて――。


 ……それを垣間見られただけでこの人に出会った意味があったと思う。

 その想いと一緒に、胸の奥にわずかな寂しさが押し寄せてくる。潮のように静かに寄せては引き、また戻っていく。


 そのとき、ヘッドライトの光が坂の向こうからゆっくりと近づいてきた。駅前行きのバスだ。

 

 唯さんが軽くぼくの腕を引く。ふたり並んで乗り込むと、車内はほとんど空いていた。

 後ろの方――二人掛けの座席に腰を下ろす。バスが静かに動き出すと、窓の外の街の灯りが流れていく。


 寄り添うように座ったまま、誰も口を開かない。けれどその沈黙が、なぜかとても心地よかった。

 言葉よりも、呼吸のリズムで通じ合っている。そんな気がして、ぼくはそっと唯さんの手を握り直した。


 バスが静かに揺れるたび、唯さんの髪が肩の上でふわりと揺れる。窓の外を流れる街の灯りは、どこか遠い夢の中のようで――そんな光景に酔いながら、つい現実を忘れそうになっていた。


 けれど。ふと、現実的な疑問が頭をよぎる。

(あ、でも……)


 感傷に浸っている場合じゃない。聞いておかないといけないことがある。

「ところで……」

 勇気を出して口を開く。

「これから、どこに行くんですか?」


 ……いや、今さらだよね。バスに乗る前に聞くべきだった。とはいえ口に出した瞬間、少しだけ緊張が走る。


 唯さんは、ぼくの顔を見て――ふっと、いたずらっぽく微笑んだ。

「さあ。どこかしら」


 その声音が、どこか甘い。「……着いてからのお楽しみよ」


 えっ。いやいやいや。そんな“含み笑い”を浮かべられたら、想像が暴走するに決まってる。絶対わざとだ。

 車内の暖房のせいか、顔が少し熱い。唯さんはその横で、なに食わぬ顔で車窓の外を見ている。


 やがて、バスが駅前に停まる。唯さんが立ち上がりながら、「電車に乗るからね」と言った。

 ――電車。――着いてからのお楽しみ。


 ま、まさか……。


(ホテル……!?)


 頭の中で警報が鳴り響く。いや、ないないない!そんなお金のかかるところ、行くわけが――。それに唯さん、まだ制服だし。ぼくだって見た目、完全に高校生のガキ。フロントで止められる未来が容易に想像できる。


 じゃあ、いったいどこに?

 

 電車に揺られながら、唯さんが少し懐かしむように話し始めた。

「深雪とはね、小学校のとき同じバイオリン教室に通ってたの」


 へえ……やっぱり。

「なんかああ見えて、インドア派なのよ。家で漫画とかアニメとか見て。一緒にゲームばっかりしてた」


 あの活発な感じの深雪さんが……?想像がつかない。

 意外でしょ?というように笑っていた。その横顔が柔らかくて、どこか遠くを見ているようで。


 途中で、ぼくとさなえの関係の話にもなった。

「ねえ、さなえちゃんとは、どうなの?」


 ど、どうって……。思わず言葉に詰まる。

「う、うーん……その……小学校でも一緒で。高校でも一緒に生物部で、仲はいいんだかどうだか……」


 上手く説明できない。たぶん、言葉にすると、うしろめたくなるから。ほんの少しの罪悪感。唯さんと並んでいることへの。


 そんなことを考えているうちに――唯さんが立ち上がる気配。

「ここで降りるよ」

 引かれるまま、ホームに降りる。

 

 あれ、この駅って――。駅前ロータリーに出た瞬間、気づいた。

(……ここ、前にダブルデートのときに来たところだ)


 懐かしさが一瞬、胸をよぎる。そのとき、唯さんがぱっと笑顔になって、手を振りながら駆け出した。


「ちょ、唯さん!?」

 手を引かれてついていく。


 その先には、白い小型車。


 コンパクトなボディに、ピカピカに磨かれたボンネット。丸いライトにクロームメッキのグリルが光っている。

 小さいけど、高そうな車。運転席のドアが開き、そこから現れたのは――。

 アイボリー色のカーディガンを羽織った、スマートな大人の女性。柔らかい目元。


 どこか、唯さんに……似ている?

 いや、まさか。そんな――。


「お母さん! お待たせ!」


 ……え?

 えっ!?ええええええ⁉⁉⁉

 頭の中が真っ白になる。

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