第7章 終幕 (2)
黒っぽいジャケットに赤と緑が入ったチェックのプリーツスカート。北山音大付属高の制服。
ひとりは日焼けした肌に金髪が映えるすらりとした女の子。もうひとりは、黒髪ショートで小柄。その小さな方は俯き加減で、ちらちらとこちらをうかがっている。
「……深雪さんと、琴音さん……」
「おーい。唯のかれしー!」
金髪の方――深雪さんが、元気いっぱいに手を振ってくる。周囲の生徒たちの視線が一斉に集まる。
「かっ、彼氏じゃないです!」
慌てて否定している間に、たたたっと目の前まで駆け寄ってきた。深雪さんは笑顔を浮かべ白い歯を見せている。その横で、琴音さんは小動物みたいにぴたりと彼女の影に隠れていた。
……そんな中。
「……誰よ」横から、じとりと視線を送ってくるさなえ。腕を組み、ガンを飛ばしてくる。
「あ、あの、こちら――」慌てて説明を始める。
「北山音大付属高の高橋深雪さんと、立川琴音さん。深雪さんは……その……沙織さんの妹さん、です」
「ああ、沙織さんの」さなえの目がわずかに和らぐ。そして、ぱっと表情を切り替えて笑顔に。
「生物部兼新聞部の黒川さなえです。お姉さんにはいつもお世話になってまーす」
深雪さんは手をひらひら振りながら、「いえいえ、こちらこそ〜」と軽く返す。
その後ろで琴音さんは、依然として影に隠れたまま。視線だけをちらりとこちらに向けて、ぼくと一瞬、目が合う。
小さな手が深雪さんの袖をぎゅっとつかんでいる。声を出そうとして、やめたような――そんな口元。
「ね、聴きに行くんでしょ?オケの発表。連れてってよ」
アオくんには目もくれず、深雪さんが腕に絡んでくる。やたらと自然な身のこなしで、まるで……唯さんみたいだと思ってしまった。
アオくんはするすると避難するように反対側の腕に移動する。ちろちろと舌を出しながら様子を伺っている。……気圧されているのか。恐るべし、深雪さん。
それに。カーディガン越しに……。確かに触れている。柔らかく、弾力がある。――思わず背筋がびくりと反応してしまう。
……結構ある……。唯さんより……。意識してはいけない。絶対に。なのに頭が勝手に比べてくる。
やばいやばい、このままだと――。さなえの影がゆらりと動くのが視界の隅に見えた。
「は、はいっ。行きましょう!案内します!」
反射的に声が裏返った。早くしないと、今にもさなえのキックが飛んできそうだ。逃げるように先を歩き出す。
すると、深雪さんがちらりと後ろを振り返りながら、「そっちの彼女も行くでしょ?」
さなえに向けて、気さくに笑いかける。……何度目だ、この展開。
「か、彼女じゃないです!」
さなえが声を張る。けれどその頬がわずかに赤いのを、深雪さんは見逃さなかった。
「ふーん……」目を細めて、ぼくとさなえを交互にじっと見る。からかいの色がにじんでいる。
「……ま、いいじゃん。一緒に行こうよ」
そう言って、くるっと踵を返す。金髪がふわりと揺れる。
そこに続くように――「私も、一緒にいいかな」
理子先輩が静かに言った。さりげない口調なのに、不思議と圧がある。
「ど、どうぞ、どうぞ。ぜひ」
むしろ入ってほしい。さなえと深雪さんの間に、クッションとして。切実な願いだった。
だが、現実は厳しいものだった。
「あ、あの……ちょっと、近いというか……」
深雪さんがぴたりとぼくの二の腕に密着している。カーディガンの柔らかな生地越しに、むにゅっとした感触が……。
顔が熱い。見られたくなくて、明後日の方を向いた。煩悩と戦う戦士、それが今のぼく。
「えー?いいじゃん。だって唯とも、さなえちゃんとも付き合ってないんでしょ?」
ぐっ。この人、わざとだ。絶対に楽しんでやってる。
そして――。
「付き合ってるとしても、わたしは変わらないけどね?」
耳元で囁かれたその言葉に、理性が危うく溶けるかと思った。
やめてください……ほんとに……。
おっと、あぶなくこのまま出るところだった。アオくんをガラスケースに戻して、と。
カオスな行列を引き連れて、講堂へと向かう廊下を歩いていく。
まだ開演まで一時間もあるというのに、講堂前の広い廊下は、すでに人の波で埋め尽くされていた。空調をも相殺するようにガラス越しの午後の日差しが、衣擦れや足音のざわめきとともに肌にまとわりつく。がやがやとした話し声の中には、期待の入り混じった高揚と、日常とは違うという空気が漂っていた。
第一部が想像通り、いやそれ以上に好評だったから、というのもあるのかもしれない。けれど――。
皆がここに集まっている理由は、ただひとつ。
この第二部の、目玉。それは――町田唯。彼女が、演奏者ではなく、“指揮者”として登場するという。
「ねえ、本当にあの子が指揮するの?」「プログラムにも名前載ってたよ、ちゃんと……」
さっきから断片的に聞こえてくるざわめきの端々に、確かに“町田唯”の名前が飛び交っている。それは憧れとも畏怖ともつかない響きで、まるで都市伝説を囁くようなトーンさえ帯びている。
制服を着た他校の生徒たち、保護者らしき大人たち、近所の小中学校の子供たち、そして――業界人とおぼしき名札を付け、身なりの整った数名の姿まで。
生徒会が出動し、必死に誘導をかけているが、それでも列は階段の踊り場まで続き、なおじわじわと延びている。一体、どこまでこの行列は伸びるのか。……全員、入れるのか?座席、足りるはずない。立ち見はもう覚悟しておいた方がよさそうだ。
ちらっ、と前の方に並ぶ小さな子供連れが目に入る。膝に抱かれた幼児が退屈そうに足をぶらぶらさせていて、その母親はスマホを握りしめたまま誰かに連絡を取っている様子だった。
「はえー……すごいね。……うちの演奏会より盛況かも」
深雪さんが呆れたように呟いた。その横で、琴音さんも口をぽかんと開けたまま、行列の波を目で追っている。
ふふん。どうだ。驚いたか。……これが、ぼくの――。
……はっ。思わず胸の奥に芽生えた言葉に、自分でびくりとする。――“ぼくの唯さん”って、今、言った?思った?
なにそれ。何を図々しいことを。おいおい、なに勝手に独占しようとしてるんだ、ぼく。
頭の中で、自分の声が全力でツッコミを入れてくる。でも――止まらない。口元が勝手に緩んでくる。
だって、今夜は……。……唯さんと、ふたりきりで……ふふ。ふふふ……。
「……キモっ」
ぴしゃりと刺さる声。さなえ。眉を寄せて、ジト目で。
「……表情に出てたよ。なんか知らないけど、やらしいこと考えてたでしょ」
うっ。視線を逸らして、なんでもないふうを装ってみたが……無理だった。顔が熱い。耳まで真っ赤になってる自覚がある。
気づけば、開演までは、あと三十分。
座席に座るのは、もう諦めた方がいい。舞台近く――客の出入りには使われていない、関係者用の扉の前。人混みの熱とざわめきの中で、腕章を直し、深呼吸をひとつ置いた。
「すみません、撮影の場所を確保したいので。座らなくても結構です、入れてもらえませんか?オケ部には撮影許可を取ってあります」
さなえ譲りの、少し強気な口調。腕章を見せカメラバッグを抱え、胸を張って言い切ると、生徒会から応援に来ているらしい眼鏡の男子がじっとぼくの顔を見つめた。
「……どうぞ。そちらのお連れさんも」
え?この子たちもいいの?これからその交渉もするつもりだったのに。
この人、堅物かと思ったら意外と気が利く。
「す、すみません、ありがとうございます」慌てて頭を下げる。「いいよ、行こう」と4人を引き連れて、薄暗い講堂の中へ。
舞台のすぐ下――照明の熱がわずかに届く距離。この辺りなら、レンズ越しに息づかいまで感じられる。
「ごめんね、お客さんなのに」恐縮して言うと、「いいよ。近くで見れるし」と深雪さんが白い歯を見せた。
その時――。琴音さんが、ふらりと舞台裏へ続く階段を登っていく。
「ちょっ……!」
自由すぎる客人。黒い制服の背中が扉を押し開け、裏方の世界に消えていく。
――いくらなんでも、まずい。咎められるに決まっている。
急いで追いかける。はしっ、と手首を掴む。軽い感触。細い。――こんな細くて、あのピアノの音。全く信じられない。いや、でも。さなえやちせと比べるとほんの少しだが手が大きく厚みがある。鍛えられた手。たしかに、違う。
おっと。いまはそれどころじゃない。そのまま舞台下へ引き戻す。琴音さんがじっと自分の手を見る――しっかりぼくに握られている。
「す、すみません……!」
ぱっと手を放して俯く。頬が熱い。耳まで熱い。一方の琴音さんはぽかんとぼくの顔を見上げて、首をかしげた。
「なにが?」
その無邪気な声に、後ろで深雪さんが肩を揺らしている。さなえはジト目で睨み、理子さんは――ほんの少し、頬を膨らませているように見えた。
光が落ちる舞台袖。遠くで、チューニングの音が響き始めていた。
客席は、もう超満員だった。立ち見客が溢れ、壁際に人の列が続いている。空調の風も追いつかない。熱気そのものが波のように押し寄せてくる。
そのざわめきの中心――ホール客席中央。白いカバーが掛けられた「来賓・関係者席」があった。
そこには理事長と思しき白髪の女性と、隣に座る異国の女性――端正な顔立ちの金髪、深い紺のドレス。たった二人だけが静かに腰を下ろしている。
その周囲の五席ほどが、ぽっかりと空いていた。校長、教頭、そして取り巻き連中が座るはずの席。
おいおい。お客さん優先じゃないのか。あんな特等席、空けておくのは勿体ないだろ。
そう思っていると、講堂の扉を開けて沙織さんが現れた。腕に幼い子を抱えた母親と、その後ろに続く数組の親子を導きながら。落ち着いた動きで、空いた関係者席へと案内していく。「こちらでどうぞ」
理事長も、来賓も微笑んでいた。ゆっくりと頷きながら、小さな子を慈しむように。『ゆっくり見ていらしてね』――そんな声が、聞こえた気がした。
……なんだ。理事長、まともな人なんだな。胸の奥でふっと息をつく。ほんの少し、救われた気がした。
やがて照明が落ちる。ざわめきが一瞬で消え、空気が引き締まる。
舞台の奥――闇の中で、かすかな物音。譜面台が立てられる音、靴底が木の床を踏む音。生徒たちが入ってきている。
だが、壇上は暗くてよく見えない。しかし、あれは制服ではない。どうやら一人ひとりがまるで別の衣装を着ているらしい。袖がきらりとわずかな光を反射する。女子の衣装は、どれもやけにボリューム感がある――まるで舞踏会のようだ。
観客席の前列で、息をのむ音がいくつも重なる。誰もが、照明が上がるその瞬間を、今か今かと待っていた。
空気が、ぴんと張り詰める。光が、もうすぐ落ちる――。
『ご来場ありがとうございます。まもなく開演いたします――ご来場の皆様にご案内いたします。お手持ちのスマートフォンは、マナーモードまたは電源をお切りください……』
放送部の女子生徒だろう。場内のスピーカーから、落ち着いた澄んだ声が響いた。息をひそめるように空気が沈み、ざわめきが期待に押されて徐々に収まっていく。
――そして。
客席側の照明がゆっくりと落ち、舞台の上がぱっと明るく照らし出された。
その一瞬のまぶしさに、思わず目を細める。まるで花が一斉に咲いたような光景だった。
舞台上には、色とりどりのドレスをまとった女子生徒たち。淡いクリーム、深紅、エメラルドグリーン、ロイヤルブルー――。それぞれの個性が布の揺らめきとして光を反射し、ステージ全体がひとつの巨大なキャンバスのようにきらめいている。中には黒のパンツにサスペンダーというスタイルの子もいる。自由ということか。男子はもう、カオスだった。パイロットスーツに、軍服っぽいの、はたまたマントまで。一体どこでそんな衣装を手に入れたんだ。もはや演奏よりコスプレ大会に見えなくもない。
そして中央。我らが(?)コン・マスオ――荒川先輩。ラテン紳士のような、胸元がやけに開いたボリュームシャツ。袖口を翻しながらチューニングを確認する姿は、もはや“演奏前”というより今まさに“パフォーマンス中”。鼻につくその気取り具合はもはや彼のお家芸。案の定、隣からさなえの冷たい視線が突き刺さる。深雪さんの笑い声。やめて差し上げて。
それでも、まだ。主役の姿はない。
全員が息を詰めている。観客も、演奏者も――あの人を待っている。
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