第4章 転機 (7)
「わぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!」
夕暮れの道に響く唯さんの叫び。視線が集まり、さすがに気まずさが胸を掠めたころ――。
「……はぁ」深いため息をついた。
「……気が済みましたか?」
そっと、肩に手を乗せた。
すると――がばっと飛び込んでくる身体。
「……悔しい。……悔しいよう……」震える声。「うううう」と、唸るような泣き声。
ぎゅっとしがみつくその腕の力に、もうなにも言えなくなる。
……こんな唯さん、初めて見た。いや、もしかしたら――これが本当の姿なのかもしれない。
そういえば、今朝だって寝坊して遅刻してきた。普段から授業は「つまらない」と言って、生物準備室に入り浸ってる。
町田唯は完璧超人?そんなものじゃない。彼女は、人間だ。
バイオリニストとしての才能は、確かに天才的だ。でも――あの時の演奏には、なにかが欠けていた。
その欠落を、あの天才ピアニスト立川琴音は、迷いなく見抜いた。彼女と同じ高さの目線で、真正面から見たからこそ。
虚飾を、仮面を、音だけで貫いてみせた。だからこそ――悔しいのだ。心の底から。
ずいぶん長い間、そうしていた。腕の中で、唯さんの呼吸が少しずつ落ち着いていくのを感じながら。
やがて、視界の端にあのふたりの人影。沙織さんと悟さんが通りかかった。
「あらあら、うふふ」とでも言いたげに目を細め、悟さんはというと、やや照れくさそうに「がんばれよ」と言わんばかりの視線を寄越してきた。
ぼくは小さく会釈で応える。それ以上、何も言わずに――今日の解散とした。
ふと見送った背中。あっちのふたりは肩と肩が自然に寄り添っていて、そこから漂う親密さがもう隠しようもなくぷんぷん匂いたっている。
……これから、食事にでも行くんだろう。
そう思ったとき、あの朝の悟さんの挙動不審っぷりが、妙に納得できてしまった。……今夜こそ、キメてやる。きっとそんな風に意気込んでいたのかもしれない。
唯さんは、ようやく呼吸が整っていた。その横顔を見て、胸の奥の張り詰めが少しずつほどけていく。
ふと、自分の腕に視線を落とすと、白地に黒文字の腕章がまだついたままだった。――あ、しまった。返し忘れてた。
「唯さん、すみません。ぼく、これを返し忘れていて……ちょっと行ってくるので、そこのベンチで待っててもらえますか?」
こくりと素直に頷く。「すぐ戻りますから!」
そう言い残し、ホールへ駆けだす。走りながら腕から外す、『写真撮影係』の腕章。演奏会は原則撮影禁止だが、沙織さんが特別に手配してくれたものだ。
ロビーはまだ煌々と明るく、後片付けをしている生徒たちの姿が見える。その中に、あの金色の髪――深雪さんの姿がすぐに目に入った。
「あの、すみません」声をかけると、ぱっと振り向き声を弾ませる。
「あ、唯の彼氏⁉」
「……えっと、彼氏じゃ……ないんですけど」ごもごもと言いながら、思わず顔が熱くなる。
腕章を差し出しながら、「これ、ありがとうございました」と頭を下げると、「写真、撮ってくれてたんだ。こんど見せてね。……あと、唯のこと、よろしくね」にこっと笑った。
その笑顔のまま、スマホを取り出して「はい」と先端を差し出してくる。連絡先の交換。一瞬戸惑いながらも、スマホをタップする。
――なんだ、この人。コミュ力が高すぎる……。
「ごめんね、あんなことになっちゃって。琴音も悪気はないの。こんど、一緒に遊ぼ?」そう言ってひらひら手を振り、片付け作業に戻っていった。
「じゃあねー」遠くからまた笑顔で手を振る。
その背中を見送りながら、自分の頬にじんわり広がる熱さに、ようやく気づいた。
唯さんのもとへ戻る足は自然と遅くなっていた。
胸の奥で、ひとつの疑問がぐるぐると回っていた。
――あれは、やっぱり、わからない。立川琴音の言った「手抜き」という言葉の意味が。
あのコンクールで聴いた並谷翔子としての演奏。完璧だった。技術も、構成も、表現も――誰がどう聴いても圧巻だった。
聴衆は総立ちで喝采を送っていた。隣で聴いていたちせでさえ、涙を流していた。……そう、あれは“感動の涙”だったはずだ。
――けど、本当に?
その記憶が、ふと違う角度から浮かび上がる。あのときのちせの横顔。あれは、単なる感動ではなく、何かを悟った人の表情だったのかも。
講堂で見た唯さんを思い出す。彼女が楽器を手に取る理由――それは『学園への復讐』。ただ、それだけ。
オーケストラの練習に参加している時の彼女。楽しそうな顔を、見たことがあっただろうか?
……ない。むしろ、あの冷えた目が印象に残っている。指揮者の指示を聞くたび、どこか面倒そうに、仕方なく音を合わせていた。譜面を見ることもなく完璧に演奏しながらも、どこか空虚だった。
圧倒的に上手い。だからこそ、つまらなかったのかもしれない。“教える側”の指揮者でさえ、彼女に対して出せる指示は限られていた。
――ほんとうに、退屈だったんだろうな。
もし、コンクールで聴かせたあの演奏すらもそうだったのだとしたら?
音楽――音を、楽しむと書く。けれど彼女にとって、あれは“楽しむもの”ではなかったのかもしれない。義務。使命。あるいは、戦い。
琴音さんは、それを聴き取ったのかもしれない。技術でも、情熱でもなく、音の中の“温度”を。
――考えすぎ、かな。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に残る違和感は、静かに息づいていた。
「おまたせしました。……帰りましょっか」
街灯がぽつぽつと灯りはじめた夕暮れの街角。ベンチの端で小さく肩をすぼめていた彼女に声をかける。
何も言わず、静かに立ち上がった。その影が長くアスファルトに伸びる。
「……ごめんね」ぽつりと、小さな声。
「何言ってるんですか。……おかしいのはあの人でしょ? 突然、あんなこと言うなんて」
そう言って、その手をそっと取った。その指先がかすかに冷たいので、ぎゅっと握り直す。
「行きましょう。……そうだ、ハンバーガー行きましょうよ。シェーキ、おごります!」
わざと軽い口調で言うと、少しだけ唇の端を動かした。ふたり並んで歩き出す。
だが、十歩ほど進んだところで、彼女の足が止まった。「……突然じゃないよ」
ぼくも立ち止まる。「突然じゃないのよ。……わたし、分かってたのに」
沈んだ声。街灯の下で、横顔が影に沈む。
自覚はあった。あの演奏が“全身全霊”ではなかったこと。琴音さんの言葉が、まるで鏡のようにそれを映し出していた。
「……あんな演奏。人前でしたなんて。……気づいたら、急に恥ずかしくなって……自分が許せないの」
言葉と一緒に、涙がひと粒、頬を伝う。その滴がアスファルトに落ちて、街灯の光に一瞬だけ光る。
そっと息を吸って、静かに言った。
「それでも、ぼくは感動しました」
唯さんの肩がびくりと揺れ、顔が上がる。
「ぼくは感動しました。……それじゃ、だめですか?」
瞳がぼくを見つめる。その奥に、もう言葉では抑えられない何かが溢れていた。
ぽろ、ぽろ、と涙がとめどなくこぼれ落ちていく。風がその髪をやさしく揺らし、街の明かりがその頬をやわらかく照らしていた。
ふうっと、唯さんが長く息を吐いた。その吐息が秋の冷たい空気に溶けて、白くかすむ。
「……でも、あの琴音って子の演奏聴いて、つばさ泣いてたわよね?」腰に手を当てて、わざとらしく言う。「……わたしの時は泣かなかったくせに」
ぷうっと頬を膨らませるその仕草が、さっきまでの涙の名残をかすかに残していて、それが妙に可愛らしくて、返す言葉に詰まる。
「え、……えっと。それは……やっぱりオーケストラと一緒だと、迫力が違って……」
自分でも苦しい言い訳だと分かっている。けれど、どうしても口から出てしまう。
そんなぼくを見て――ぷっと吹き出した。「……もう、いいよ」
笑いながら、ほんの少し肩の力を抜く。そして、夜風に髪をなびかせながら、静かに言葉を続けた。
「……そうね。あの子の言う通りなのよ。“何のために弾いてるのか”なんて、今まで誰にも言われたことなかったから……ちょっと、混乱しちゃって。……でも、分かったから」
彼女の視線が、ゆっくりと空へ向かう。街の明かりを滲ませながら広がる群青の空。そこに残るわずかな茜色が、瞳に映る。
そして、かすかな声で――。
「……ごめんね、翔」
その声は風に紛れ、夜の静けさの中へ溶けていった。
くるりとぼくに背を向けた。その肩越しに、群青色の空が広がっている。残照の残る空に、弱々しく、それでも確かに――星がひとつ、瞬いていた。
「……わたし、出るよ」
風に乗って届いたその声は、かすれて小さかったが、決意だけははっきりと宿っていた。
「……何に、出るんですか?」
思わず問いかけた声も、慎重になってしまう。
振り返らないまま――「何って。決まってるでしょ?……学園祭」
その言葉に、胸が跳ねる。
――『並谷翔子を学園祭のゲストに!』あの記事に。あの無謀とも思えた呼びかけに。
……唯さんが、応えてくれた。
やった……。やったぞ、さなえ!思わず拳を握りしめる。胸に熱いものがこみ上げてくる。
けれど、次の瞬間には現実の影が、すっと心を横切った。
――果たして、学園はそれを受け入れるだろうか。
ずっと名前を伏せ、正体を明かさず。コンクールの誘いを断り続けた、沈黙の“反逆者”。しかも、“並谷翔子”という偽名のままで。
賞賛と話題をさらったその名を、学園の公式行事にそのまま登場させるなど――。
……簡単にはいかない。
それでも今、唯さんは言ったのだ。この星の下で、この空の下で。自らの言葉で、決意だけを。
その背中を見つめながら、ひとつ、深く、静かに息を吸った。
「さ、帰ろ。そうと決まったら、練習しなくちゃ!」
そう言うなり、ぼくの手をすっと握り、軽く引き寄せた。その動きは迷いがなく、風のように軽やかで、指先だけはしっかりと温かい。
「……君のせいなんだからね?……責任、取ってくれるよね?」
じっと見つめる瞳。その奥にいたずらの光がチラリと宿って、唇の端が小さく上がる。思わず胸の奥で――ああ、やっぱりこうでなくちゃ、と思った。
ぼくを振り回して、惑わして、困らせる。そのくせ、最後には笑ってこちらを見つめてくる。そんな唯さんが、ぼくはたまらなく好きなんだ。
「はい……」
口から出たのは、間の抜けた返事だった。本当はもっと格好良く言いたかった。「ぼくに任せておけ!」とか、「ぼくについてこい!」とか。そんな言葉で、この手を引き返せればどんなにいいか。
立場はまるで逆だけど、それでも、この人の行く先にぼくはついていきたい。
どこまでも、いつまでも――隣に居たいと、心から思う。
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