第4章 転機 (1)
土曜日、午前10時。やや薄曇りの空。少し早足で駅前の広場に出る。普段は降り立つことのない場所。まぶしい陽光に広場のタイルが照り返し、空気までも白っぽく霞んで見える。
――もしかして、ここが唯先輩の最寄り駅なんだろうか。ふとそんな想像が胸をよぎる。家の場所なんて聞いたこともない。知りたいのに、踏み込めない領域。
視線をめぐらせると、すぐに見知った背中を見つけた。「あっ……」思わず小さく声が漏れる。佐藤先生。その隣に立つ女性は、すぐにわかった。『幻の美人秘書』と噂されていた高橋沙織さん。
――やっぱり、本物だ。
背筋がすっと伸びていて、黒のジャケットがよく映える。髪はまとめられ、わずかな仕草に大人の落ち着きがにじむ。年の頃は二十代後半か三十歳くらい。完成された大人の空気を纏っていた。
対照的に佐藤先生は……。同じくらいの年齢のはずなのに立ち居振る舞いに落ち着きがなく、なんだか貧相に見えてしまう。高価そうな毛並みの美しいアフガンハウンドの隣に、雑種の野良犬がちょこんと座っている――そんな比喩が頭に浮かんでしまう。
……唯先輩は、まだ来ていないみたいだ。胸の奥で、期待と緊張が入り混じる。
「おはようございます」思い切って、沙織さんのほうに声を掛ける。
――落ち着いた調子で。昨夜から何度も練習した通りに。
「……風間つばさです。今日は、よろしくお願いします」
口にした瞬間、少し早口になってしまったことに気づく。喉が乾き、舌が微妙にもつれる。……でも、悪くはなかったはずだ。これくらいなら、合格点。自分にそう言い聞かせながら、心臓の鼓動がやけに強く響くのを感じていた。
「おはよう、つばさくん。唯から聞いているわ」柔らかい微笑みとともに返ってきたその声は、まるで朝のニュース番組に登場する女子アナのように澄んでいて、言葉の一つひとつが胸の奥にすっと染み込んでくる。
これが理事長秘書のオーラなのか。
一瞬鼻先をかすめる、甘くて清潔な香り。柔らかくほんのりした香水の気配が混じっている。やばい、顔が熱くなる。頬の奥からじわじわと赤みが広がっていくのが自分でもわかる。
「唯から聞いているわ」のあたりで、沙織さんがふっと口角を上げた。ほんのわずかな仕草なのに、胸の奥がざわめく。……どんなふうに聞いているんだろう。どこまで話しているんだろう。考えれば考えるほど、心臓の鼓動が速くなる。
「先生、おはようございます」努めて平静に、軽く会釈しながら佐藤先生に声をかけると、返ってきたのは力の抜けた「おはよ」だけだった。
その直後、先生が人目を気にするように身を寄せ、「……あのさ、今日は先生は無しにしない?」と小声で耳に落としてくる。息がくすぐったいほど近い。
沙織さんが横でくすっと笑った。肩先がわずかに揺れる。「ダブルデート、ですもんね」その一言が、ぼくの胸に直撃する。反射的に目を伏せる。もう顔を上げられない。
「は、はは……」と、乾いた笑いしか出てこない。自分でも子どもっぽいと思う。けれどどうしようもない。手のひらに汗がにじみ、カメラのストラップがやけに重く感じる。
視線の先では――佐藤先生……いや、悟さん――が、明らかに挙動不審になっている。肩が上下し、目線が落ち着かない。
「で、デート……ですもんね」震える声で、しかも目を泳がせながら繰り返している。まるで自分に言い聞かせるみたいに。
――大丈夫か、この人。
胸の奥で笑いと緊張が同時にこみあげてきた。
キョドって空回りしている悟さんの様子には、軽く目をやるだけにしておく。あれはもう、放っておいたほうがいい。
代わりに、一歩踏み出して、沙織さんに声をかける。
「あの……妹さんが出るコンサートって、どういうものなんですか?」
なるべく自然に。気取りすぎないように、けれど幼く見えないように。言葉を選ぶ感覚が、喉の奥にこそばゆく残る。
「――あら。唯ったら、何にも説明してないのね」
沙織さんはそう言って、すっと肩から下げたバッグに手を入れる。動作のひとつひとつがゆっくりしていて、気品があるなぁ。
取り出されたのは、花をモチーフにした繊細な縁取りのある短冊状のチケット。
『北山音楽大学付属高校オーケストラ部 夏の終わりのコンサート』
朝の光を受けて、箔押しのロゴがやわらかくきらめいた。まるで、特別な招待状みたいだ。
……高校生なんだ。妹さん。唯先輩の幼馴染って言ってたっけ。姉がこんなに綺麗で、あの落ち着き。なら――。
(……きっと、妹さんも)
視線が自然と下がっていく。指先の細さ、チケットの扱いの丁寧さ、そしてその奥にある気配――見えない何かに、想像が引き寄せられる。期待が、じわりと胸の内に膨らんでいく。
……いや、だめだ。顔に出る。気づかれる。そういうの、唯先輩に見抜かれたら、終わりだ。
「隣町なんですね。15時開演ってことは……まだ、だいぶ時間ありますね」
体温を抑えるように、軽く言ってみる。なるべく会話を自然に流しておきたい。そう思った瞬間。
「そ、そうだね。お昼、どこかで食べながら……ゆっくりしようよ」
横から悟さんが、ぎこちなく割り込んできた。肩をすくめたような半笑いで、足元が落ち着かない。声もうわずっていた。
……しっかりしろよ。
そのままだと、マジでファミレスに直行しそうな勢いだ。下手すれば、駅地下のチェーン店。メニューをめくって迷って愛想笑い――そんな光景が脳裏をよぎる。
「そう思って、予約してあるわ。個室のお店」
沙織さんがふわりと微笑みながら言った。声に余裕があって、目線にもゆとりがある。これが……理事長秘書の力。格が違う。
――おお。さすがだ。完璧だ。
その横で、悟さんはというと、今のところ完全に蚊帳の外。出だしから見せ場ゼロ。……このままだと、支払いだけさせられて、あとは女子ふたりに気持ちよくあしらわれる――そんな未来が、ありありと見える。
なんというか……がんばれ、悟さん。あんまり他人事とは思えない気もするから。
「唯、遅いわね……また、やっちゃったかな」沙織さんが細い手首を返して時計に目を落とす。
シルバーの文字盤。シンプルなのに、気品が漂う。ブランド物に違いない。派手じゃないのに、存在感がある――大人の余裕って、こういうことなのか。スマートウォッチじゃないんだな。もしかして……いつもはスマートウォッチなのに、今日の“デート”のためにその時計を選んできたのかな。そんな想像をしてしまい、胸の奥がむず痒くなる。
ポケットからスマホを取り出し、ちらっと画面を見る。……もうすぐ10時10分。
その時だった。「ごめーん!」
遠くから聞き覚えのある声。振り向くと、水色のワンピースの裾をなびかせながら唯先輩がロータリーをぐるっと回り、駆け足でこちらに向かってくる。
「……やっぱり寝坊ね」沙織さんが肩をすくめて、呆れたように言う。
パンプスの音をぱたぱたと響かせて、唯先輩が到着。肩で大きく息をつき、黒縁の眼鏡がずれかけている。「ごめんね……ちょっと寝坊しちゃって」
――えっ。唯先輩が、寝坊?あの完璧主義に見える唯先輩が。あまりに意外で、頭が一瞬真っ白になる。
「もう、この子は」沙織さんがすかさずハンカチを取り出し、やさしくぽんぽんと押さえる。汗を吸い取る仕草が、妙に手慣れている。
さらに鞄から櫛まで取り出して、乱れた髪を手早く整えてやる。指先が髪をすくたび、唯先輩の表情がほんのりと照れていく。「カーディガン、一度脱ぎなさい」そう促しながら、袖を整え、襟元をさっと直していく。
そして現れたのは――いつもの凛とした感じではなく、今日は少し可愛らしくておしゃれな姿。普段見せない柔らかさが、そこにあった。
胸の奥が、どくん、と大きく跳ねる。
息を整えると、軽く胸を張るようにして姿勢を正す。さっきまで寝坊の余韻が残っていたはずのその顔に、もう緩みはない。背筋が伸び、視線がまっすぐこちらを向いている。
「遅くなってごめんね。さおりん、悟さん」
――おっと。心が、小さくざわつく。先生呼びじゃないのは、最初から織り込み済みだった……のか?
「つばさも。おまたせ」微笑みながら名前を呼ばれた瞬間、また胸がきゅっと締め付けられる。その声だけで、身体の芯まで染みこんでくるような気がする。
「お、おはようございます……唯先輩」
顔が熱い。まただ。また赤くなってる。声もうまく出ない。
そんなぼくの肩を、ふっと沙織さんの手が押さえる。「今日は、“先輩”じゃなくて……ほら」
言うが早いか、彼女はぼく腕を軽くつかみ、唯先輩のほうへと一歩押し出す。まるで舞台に立たされる役者のように、戸惑いながら前に出る。
「……唯、さん。あの……可愛い……です。その、今日も」
言葉がもつれる。喉が渇く。言った瞬間、自分がどれだけ子どもっぽいかを思い知る。そして次の瞬間には、もう顔を上げていられなくなっていた。
うつむいた視界の上の方――その端に、すっと唯さんの足が近づいてくる。
「……つばさ、ありがと」
やわらかな声。その響きに、時が一瞬止まったような気がした。
そして、次の感触。唯さんが、ぼくの腕をとる。躊躇いもなく、するりと組んでくる。布越しに伝わる温度。細くて、でもちゃんと力を感じるその手の感触。
――頭から、湯気が出そうだった。
どうしよう。心臓の音が聞こえてしまいそうだ。
「じゃ、いきましょうか」
沙織さんが、悟さんの腕を取る。自然すぎて、何のためらいもない。悟さんは目を見開いたまま、何も言えずにされるがまま。
……ダブルデートの、始まり始まり。
前を行く沙織さんと悟さん。その背中を追うように、2メートルほど後ろを唯さんとぼくが並んで歩く。
悟さんは、確かに「沙織」と名前を呼んでいた。緊張で空回りしていたというのに、実際はそれなりに進展しているらしい。……あの挙動不審さは何だったんだろう。そう思いながらも、ぼくの意識は腕に集中していく。
組まれた腕。触れるたび、ふわりと柔らかさが押し寄せてきて――特に、胸の感触が。――もう、このままで死んでもいい。そんな極端な考えが頭をかすめる。
ふっと香る髪の匂い。鼻先をかすめるたび、息が浅くなる。
「今日は眼鏡なんですね」勇気を出して、すぐ隣にいる唯の顔に声をかける。あの、何度も悪戯みたいに迫られた顔。今日は少しはにかんでいて、いつもよりも可愛さが強い。
「うん……寝坊しちゃったからね。あとでコンタクトにするよ」そう言って、苦笑いを浮かべる。眼鏡の奥の瞳が柔らかく揺れている。
「眼鏡も、似合うと思いますよ」なんとか言葉を紡ぐと、唯さんは頬をぷくっと膨らませた。「これ、部屋用だからね。普通は誰にも見せないの」
――部屋用。ということは、パジャマのときとか……お風呂上がりとか。そんな姿でこの眼鏡をかけているのか。……やばい。想像したら、もう止まらない。頭の中で勝手に映像が再生されそうになる。
「そ、そうなんですか……。えっと……でも、普段とちょっと違う唯さんが新鮮で……その……」口ごもりながら言っていると、唯さんが小さく笑った。
「ふふっ……ありがと」
その声が、耳元にかすかに触れて落ちてくる。吐息と混じって、くすぐったい。一瞬で背中まで熱が走る。
――これ、大丈夫なのか。心臓がもうもたない。あと数時間。ぼく、ほんとに一日持つんだろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます