第3章 始動 (4)
一呼吸置いて、つづく。
「事故が起これば、翔の時と同じように学校が何らかの対応を迫られる。そして、誰が責任を取らされるかが、見えてくる」
ぼくの喉の奥が、わずかに苦しくなった。
「ぼくには、学園の内部がどうなったのかまでは分かりません。だけど、ひとつだけはっきりしていることがある。校長は……まだ、大沢のままです」
言い終えたとき、先輩の口元がわずかに緩んだ。
「そう。一年前のあの時は、当時の校長が責任を取らされて辞めさせられた。でも、今回の事故では――教頭が辞めたわ」
先輩の目が細くなる。
「……わかるわよね?ここから何が見えてくるのか」
大沢は、一年前は中等部の教頭だったと聞いた。それが今は校長になっている。校長は中等部・高等部を通して一人しかいない頂点。
頭の中で、点と点が線になる音がした。
不祥事を利用して、前の校長を引きずり下ろし成り代わる。今回は、自分が校長でありながら責任を逃れて、高等部の教頭に全責任を押し付ける。
手を汚さずに、自分だけが上へと登り、居座る。……それが、大沢という人間の本質。
そして、彼女は――その構造を、最初から見抜いていた。
サッカー部はただの入力装置。乱闘未遂や水の事故は、それが目的ではなく結果にすぎない。
その騒ぎの中で学校が揺れる。
誰が動くのか。
誰が沈黙するのか。
誰が生き残り、誰が責任を押しつけられるのか。
その構図のなかから、“本当の敵”を見極めた。
実験装置を作り、入力し、出力を得る。
観察していたんだ、この学園の“反応”そのものを。
なんてことを――なんて恐ろしいことを、この人は。
……だけど。同時に、ぼくの胸の奥で、別の感情が蠢いた。
それは、畏れでも引きでもない。もっと原始的で、もっと抑えがたい――惹かれてしまう、という感情。
こんな風に冷静で、こんな風に先を読み、こんな風に仕掛けて……すべてを見抜いてしまうこの人に――。
なんて魅力的なんだろう、と思ってしまう。
唇が乾く。言葉が出ない。ただ、見つめるしかできなかった。
目の前のその人が、いったいどこまでを見ているのか――。
その視線の奥に、迷いはなかった。
ただひたすら、冷たく、確信に満ちた光。
「これで、わたしは確信したの。元凶は……大沢。討つべき相手は彼しかいない」
静かな語調。
でも、ひとつひとつの言葉が、まるで針のように突き刺さってくる。
唯先輩の怒り、悔しさ、喪失――そのどれもが芯まで染みて、こんな形でしか昇華できなかったという事実が、むしろ痛いほど伝わってくる。
でも、それなら。
もう、“終わらせられる”のではないか、とも思った。
真相は、分かっている。
腐った構図の中心にいるのは、校長――大沢。
ぼくたちは、その全容を知っている。
マスコミに情報を渡せば、一気に表沙汰になる。スクープを狙う記者が、大沢を直撃するかもしれない。
世間の目、報道の力――。
それが、正義を代わりに果たしてくれるのではないかと。
「今からでも行きましょう。テレビ局でも。新聞社でも。疑惑の校長を記者が直撃!……最高のショーが見られます」
立ち上がって、つい声が弾んでいた。
少し興奮していたのかもしれない。
ようやくこの不条理な出来事に風穴を開けられる――そんな高揚。
けれど、唯先輩は動かなかった。
スツールに腰を掛けたまま、じっとぼくを見上げた。
「それじゃ、……だめ」
その言葉が、ナタのように空気を重く切った。
はっとする。
思わず立ち上がった自分が、場違いな存在に感じられて――。
気まずくなって、「すみません」と呟き、そっとスツールに腰を下ろした。
「ううん。いいのよ。つばさ、真剣に考えてくれてありがとう」
微笑みながら、先輩はそう言ってくれた。
その視線は、確かに優しかった。
だけど、奥底には冷たく透き通ったものが揺れていた。
「あのね、つばさ。それだけじゃ、つまらない。わたしは満足しない。そんなことでは……」
その声は、まるで冷たい沢の底を撫でる水のようだった。
ゆっくり、澄んでいて、何よりも冷静。
“つまらない” その言葉が、突き刺さる。
ぼくはようやく理解した。
……彼女は、ただ「裁き」が欲しいのではない。
憎しみや怒りだけでもない。
その瞳を見つめたとき、その“美意識”が、ぼくの中にも静かに染み込んでいくのを感じた。
「やっぱり、ターゲットには逃げてもらわないと。……みっともなく、全力でね。逃げて逃げて……もうこれ以上ないくらいに必死で……。ふふっ」
その言葉を口にしたときの唯先輩の目――あの光が、ふたたび宿っていた。
静かなのに、底知れない熱を秘めていて。
怖いはずなのに、ぞくりとするほど美しい。
やっぱり、ぼくはこの目が好きなんだ。
どこまでも冷静で、どこまでも残酷で、どこまでも――真っ直ぐ。
逃げる相手。追い詰められる人間。
その恐怖と焦燥。
――ぼくの脳裏に、ありもしない映像が浮かんでくる。
崩れかけた廃墟のビル。薄暗い灰色の空。今にも雨が降り出しそう。
それでいて埃っぽい空気の中、体格のいい中年の男が荒く息を吐きながら走っている。
大沢校長。
額には汗。スーツの裾は乱れ、革靴の音が床に空しく響いている。
それでも、逃げなければならない。
何からか、誰からか――彼自身が知っている“罪”から。
そしてその背後、ゆっくりと足音を刻んで歩いてくる女子生徒。
白く糊のきいたブラウス。
Aセグの華やかな紋章。
灰と埃にまみれた廃墟には不釣り合いな、清潔に整った制服姿。
そのプリーツスカートがかすかに揺れ、しなやかな脚が冷静に階段を一段ずつ踏みしめていく。
大沢がつまずき、倒れ、血のにじんだ手で崩れた段差をよじ登っていく。
必死に――まるで、生にすがるかのように。
その姿を、唯先輩は見上げる。
微笑んでもいない。怒ってもいない。
ただ、そこに居る。
――その映像が、頭の中で流れていく。
……でもきっと、それは、現実に彼女が描こうとしている“復讐”に比べたら――。
チープな、薄っぺらなビデオ映像にすぎない。
血でも叫びでもなく、罪を知り、自らの行いが何だったかを理解し、その果てにようやく崩れ落ちる構造の崩壊――それを静かに見届けること。
彼女の眼差しは、それを求めている気がした。
「いまお話しできるのはここまで、かな。ここから先は、まだ決まってない。……いいかしら?」
ふっと、空気に区切りが生まれた。
それまでの澄んだ静けさとは、少し違う――。
濃密な熱を含んだ余韻だけが、あとに残っていた。
……でも、これは「終わり」じゃない。
むしろ「始まり」だ。
彼女の“狩り”。大沢という獲物を見据え、静かに、丁寧に追い詰めていく様子。
それを目の当たりにできる――。
そのことに、思わず背筋が震えるような高揚が走った。
……楽しみ、だなんて。
「――ああ。そうそう」
唯先輩がふいに、話題を変えた。
どこか悪戯めいた調子で、でも、その奥に意図を含ませるような声音。
「わたしがコンクールに出ない理由。わかるわよね?」
目が細められる。
「この学校に、手柄を上げさせないため……ですよね」
そう。
わが校の生徒が国際コンクールで入賞。
――それは、学校としては最高の“実績”になる。
町田唯の顔が、テレビの画面に並ぶかもしれない。
Aセグの誇りとして、担ぎ上げられるかもしれない。
だけど――。
「ふふっ……。そうね」
声に出して笑ったのは、それが“正解”だったから。
そしてそのあとに、もうひとつの真実を重ねる。
「そして、きっと校長はわたしの存在に気付いている。……翔の姉だということにも」
ああ、そうか。
校長は、彼女の実力を知っている。
けれど同時に――彼女が何を知っているかも、何を企んでいるかも “勘づいている”。
コンクールに出てほしい。実績がほしい。だが、強くは言えない。
――翔くんの事件があるから。
言えないまま、何もできないまま唯先輩は生物準備室で時間を潰し、無断でレッスンをサボり、それでも誰にも咎められない。
責任は講師へ。周囲に溜まっていく小さな苛立ち。崩れかけた現場の空気。
それらは誰にも説明できない形で、静かに、じわじわと、組織全体に蝕むように広がっていく――。
……これは、確かに効く。派手な仕掛けじゃない。
けれど、確実に――根から腐らせていく。権力が自らの重さを支えきれなくなっていく。
今。この人に、何を言えばいいんだろう。
この目の奥に、どれだけの夜を抱えているのか。誰にも寄りかかれず、誰にも救われず、それでも一人きりでこの復讐を抱えてきた。
そんな彼女に――ぼくは、何を返せばいい。
『きっとうまく行きますよ』……あまりにも、軽すぎる。
『よくそこまで考えましたね』……それも、他人事みたいだ。
違う。今、彼女が欲しいのは賞賛でも慰めでもない。ましてや、理屈でも正義でもない。
ただ――人として、隣にいてくれる誰か。ただ、それだけなのだとしたら。
それはぼくの願望なのかもしれない。それでも。
「唯先輩」
まっすぐに呼んだ。迷いを断ち切るように、喉の奥に詰まっていた声を押し出す。
視線がぶつかる。さっきまでの深い闇は、もうそこになかった。見つめ返してくるその瞳は、澄んでいて、やさしくて――でも、ほんの少しだけ驚いていた。
「これが終わったら……ぼくと、デートしてください」
……え?
言った?
いや、言った。完全に言ってしまった。なにを言ってるんだぼくは!?今!?この空気で!?
頭を抱える間もなく、唯先輩の目がぱちくりと瞬く。一瞬、まるで何かの冗談を聞いたみたいな顔をして。
けれど――すぐに、ふっと微笑んだ。
「……いいよ」
その言葉は、ためらいなく。でも、あたたかかった。
胸の奥で、何かがほどける音がした。
そう――。近く行われる「ダブルデート」。それは間違いなく、“仕掛け”の一部だ。復讐のための駒を動かすための段取り。全部が、計算の中にある。
でも。すべてが終わった時。彼女が背負ってきたものを降ろし、ただのひとりの女の子として、誰かと時間を過ごすことができるなら――。
その「誰か」が、ぼくであってほしい。
心の底から、そう思った。それが、ぼくの願いだ。
「さて、っと……」
胸の前で軽く手を叩く。その音に合わせるみたいに、空気が切り替わった。
「さっさと掃除、終わらせちゃいましょ」
声が弾んでいる。すぐに掃除道具を取り出し、棚の前にいそいそと向かっていく。並んだ飼育箱の前にしゃがみ込み、楽しそうに小さな爬虫類をそっとつかみ出しては待機場所のプラケースへ。排泄物だって気にもしない。汚れた砂利をざっと洗い、ガラスを磨く姿は、どう見ても楽しげで。その自然さに、ただ感心するしかなかった。
「アオくん、預かりますよ」
声を掛けると、アオダイショウがするするとぼくの腕に登ってくる。ひやりとした感触が肌に伝わる。『ひええええ……』心の中で悲鳴を上げながらも、先輩の前では必死に作り笑いを浮かべた。
「あら、アオくん。つばさに懐いてるのね」
嬉しそうに目を細めて笑う。その笑顔に救われるように、何とか平然を装う。
「……それじゃ、おうちに戻ろうか」
言葉とは裏腹に、一秒でも早く水槽に戻したい。それでも、如何にも蛇を手懐けているかのように振る舞う自分。唯先輩は、ふふっと楽しげに笑いながら、その様子を見守っていた。
「……デート。楽しみだね」
その一言が、不意に心臓を撃ち抜く。復讐の影を背負った人の口から出たとは思えないほど、柔らかくて、あどけない声音。微笑むその横顔はただ可愛らしく、ただ魅力的で――。
本当に、この人の中に復讐心なんてあるんだろうか?
疑問がふと、胸の奥からこぼれ出す。ぽうっとして、その笑顔を見つめ続けることしかできなかった。
視線に気づいたのか先輩もまた、ふっとこちらを見つめ返してくる。吸い込まれるような瞳。
それは本心からの笑顔なのか。それとも――また仕掛けられた“試し”なのか。
答えは、どちらにも見えて――また、どちらにも見えなかった。
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