アルテミスの弦(いと)
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プロローグ
「君なら入賞できるだろ」
ピシャッと冷たい音が教室に響くと同時に、パンフレットが机の上を滑るように投げ出された。
紙の端がかすかに跳ねて、音を立てて止まる。
教師と向き合って座る少女は、投げ出されたその表紙をちらと見やる。
地方都市で行われる音楽コンクール。
パンフレットの表紙に写るレンガ調の音楽ホールに、木漏れ日が差している。
少女の名は町田唯。扶陽学園高等部 創造・進学コース 音楽専攻科2年生。
いくつものジュニア音楽コンクールで優勝を収めており、現在は国際コンクールへの出場さえ期待されている彼女。
しかし……この2年の間、ぱたりとコンクールに出ていない。
――こんなふうに呼び出されて。そして即刻断るのは、いったい何回目だろう。
勧められるコンクールは、だんだんとマイナーな大会になっている。
——このわたしが、怖気づいているとでも?
思わず、ふっと息が漏れた。
目の前にいる音楽教師の手をぼんやりと見る。
……大きな手。大人の、男の手。
わたしが出場するはずはないことくらい、彼だってわかっているだろう。
これは――言わされている。断られることは百も承知。それでも言わなければならない圧力の存在。
陰から言わせているのは、わたしに正面から向かってくることも出来ない、弱い男。
そんな人間に“意志”を託しているのだ。この学園は――。
「……誰の指示ですか?」
唯は静かに顔を上げた。 ほっそりとした頬を、さらりと黒髪がかすめる。
教師は視線が交わるのを恐れるように目を落とす。
喉仏がわずかに上下するたびに、ネクタイの結び目が数ミリ沈む。
唯の涼しい目元が見下ろす先で、彼の指がわずかに動く。
すがるように、彷徨うように。まるで救いを空中に探しているようだった。
自分の華奢な手と見比べてみれば、ふた回りも大きく骨ばった立派な手指。
——大の大人が、何をビビっているんだか……。
口に出すことすら無意味だ。ため息にもならない吐息をまたひとつ。
静かに椅子を引き、すっと立ち上がる。
「出ません」
それだけを言ってパンフレットに目もくれず、背を向ける。扉に手をかける直前、ふと振り返る。
「……今、わたしは吾妻先生にそう申し上げました。……いいですね?」
返事はなかった。
これほどまでに念を押さなければならない。軽くゲンナリしつつも、唯は静かにお辞儀をして教室を出ていった。
しんと静まり返った教室にひとり、残された教師が机の上に散らばったパンフレットを回収する。
その隙間から「町田唯」の名が既に書き込まれた出場申込書。物言わず項垂れていた。
――3か月後――
真夏の空が、どこまでも澄んでいる。 白い雲ひとつ浮かばない、その青のど真ん中に飛行機雲がすっと線を引いていく。
蝉の声が、遠くから、そしてまた近くから、重なり響いてくる。熱気に押し潰されるような空気。
吹き抜ける風が一瞬、蝉の声を断ち、代わりに草むらを撫でる音が耳をかすめた。
「木陰くらい、あればいいのにね」
汗がこめかみを伝って、白い頬をかすめる。 指先で拭っても、すぐに新しい汗が滲んできた。
唯はハンカチを取り出す。レースの縁取りがついた白い布。 そっと頬に当てて、吸い込ませるように汗をぬぐった。
彼女の身を包む薄手の黒いワンピースの裾が、風を孕んで揺れる。
ポニーテールに結ばれた長い黒髪が、陽の光を受けて艶やかに揺れた。
風にそよぐたび、細い肩をかすめ、背中に貼りつく。
生地が風に押されて肌に寄り添い、華奢に整った体つきを浮かび上がらせていた。
風が心地よく、ふと足元を見れば、細い足首が白い砂利の上に草の影に紛れて浮かび上がっていた。
ここは小高い丘の上に造成された墓地。斜面に沿って墓石が並び、見渡せば町並みの向こうに低い山並みが薄ぼんやりと連なっている。
その一角に、ふたりは立っていた。細身の少女と、それに不釣り合いな大柄の男。
太陽に照らされて、真新しい墓石がやわらかく白く光っている。
その少女。唯は眩しそうに目を細め、空を仰いだ。
視線の先、旅客機がゆるやかに進んでいく。
銀白色の胴体から伸びる両翼。二基のエンジンが白い航跡を空に残している。
「……また、あの時と同じ空」
つぶやくように言って、そっと手を額にかざした。
17歳の夏。二度とは訪れない日々。輝く季節。
だが彼女にとって、この一年間は世間の女子高校生のものとはまるで違う意味と重さにあえぎながら過ぎて行った。
ハンドバッグの留め金をプツッと外し、スマートフォンを取り出す。
すでに何度も再生してきたはずの動画。
それでも今日、この場所でもう一度、再生する。
タップした指先の震えを隠すように、少しだけ息を吐く。
画面の中に現れたのは――丸顔の少年。
2歳年下の弟。翔。
『ねえちゃん、いってらっしゃい。羽田からヒースローまでは十四時間半くらいだよ』
いまから一年前のあの日。
羽田空港の国際線ターミナルで受信した一通のメッセージ。
サッカー部の練習があって見送りには来られないと、代わりに送ってくれた動画。
『エアバスA350は最新機種だから、揺れが少なくて、燃費もいいし……』
小鼻を膨らませて、言葉が弾んでいる。
飛行機の話になると止まらないのは、小さいときから変わらない。
その声。映像。もうすっかり覚えてしまっているのに、再生を止められない。
画面の翔は、丸顔を輝かせ鼻息を荒くしていた。
『ターボファンエンジンのバイパス比が大きいから――』
難しい言葉を早口で並べながらも、最後には「気をつけてね」と小さく付け加えて。
――その姿が、最後になるなんて。
画面をそっと胸に抱きしめた。 スマホの温度が、ほんの少しだけ体温に近く思えた。
――蝉時雨が、唯をこの時間に引き戻す。
「……翔」
墓前にまぶたを伏せる。 遠く、蝉の声が小さくなっていく気がした。
その背後に、影が1つ。 黒のスーツに身を包んだ長身の男が、少女の隣に静かに立っていた。
彼の名はジョージ・スコットマン。
歳のころは四十歳くらいだろうか。すらっとした筋肉質の体躯。彫刻のように整った顔立ち。
左手には水の入った手桶。斜めに柄杓を差したまま、水面は動かずに佇んでいる。
その精悍な表情の下に、かすかに憂いの気配が漂う。言葉を選ぶように、しばらく唯を見つめていた。
やがて、青い瞳がゆっくりと細められる。
風が髪を揺らすのと同時に、静かに口を開いた。
“You're not going to stop, are you? ……No matter what.”
(……どうしても、やめるつもりはないんだね?)
唯は、顔を上げた。まっすぐに彼の目を見る。
“Yes.”
(ええ)
視線がぶつかっても、彼女はその目を逸らさない。
男の目が、ほんのわずかに揺れる。その瞳の奥に、憂いと敬意が重なっている。
“If I were you, I’d do the same. But you’re young. Can you carry this through without a mistake?”
(わたしも同じ立場なら、同じことをするだろう。だが君は若い。間違えずにやり遂げられるかい?)
彼女は少しだけ、視線を落とした。 手桶の水面に飛行機雲が白く揺れていた。
“The violin knows the way.”
(バイオリンが、導いてくれるわ)
二人はゆっくりと真新しい墓石の前にしゃがみ込む。
手桶の水を柄杓ですくい、墓石にかける。
石肌を伝う雫が、陽にきらめいた。
線香を取り出し、火を灯す。 小さな赤い点が揺れ、白い煙へと変わる。
その細い煙は、真夏の熱気の中でまっすぐに伸び、やがて空へと溶けていった。
並び手を合わせる西洋人と少女。 長い沈黙が流れる。
蝉の声すら遠ざかって聞こえた。
「……みていてね。必ず、やり遂げるから」
かすかな声が、煙に吸い込まれるように消えていく。
祈りを終えて、静かに目を開けた。
その瞳には、遠くを見据えるような光が宿っていた。
——今、少女の復讐が静かに幕を開ける。
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