名前のない関係性

宵月乃 雪白

束の間の再会

 全身に今まで経験したことないほどの震えがあるにも関わらず、伸ばした両腕から手にかけてはその震えはない。

 もうずっと握ってきた鉄の塊がこれほどに重いことを、今日初めて知った。

 相手は抵抗する気が全くないのか、縛られていてもなお己の運命すら理解していないという様子で、にこやかに笑みを浮かべている。

 人差し指に力を入れればそれで終わり。終わりなのだ。

 いつもと同じ。同じ、同じ、同じ、同じ。

「まだ?」

 男の退屈そうな声がコンクリート造りの地下に響き渡る。血や肉片が飛び散り、拭いても拭いても消えないシミが残るこの地下で、男は恋人に話しかけるような甘ったるいで声を発する。その声に耳を貸してはいけないと頭では理解しているにも関わらず、私はその男のブラックホールのような、良くも悪くも何でも引き込んでしまいそうな真っ黒な瞳を見てしまった。

「サユリ」

 パチパチと燃え盛る炎のような心地よい声が私の名前を呼ぶ。そこに悪意や陥れようというよこしまな感情を感じることができず恐ろしい反面、嬉しくもあった。

 出会ったときのまま、私の名前をまた呼んでくれることが。

「こっち、おいで」

 そう言われたら行くしかなかった。彼は縛られているけれど、この界隈では有名な人物だ。彼の動きを封じている手枷や鎖が本当に機能しているかどうかなんて、彼にしか分からない。それでも私は足を右、左と動かし彼の元へと向かっていた。

 此処から一緒に出てくれるかもしれない。なんてね。

「ッッッ!」

 次の瞬間、ジャラジャラと鎖同士がぶつかり合う音と同時に封じていたはずの両手両足が勢いよく飛びかかってき、鉄の塊が彼の細くしなやかな手に渡った。

「動いちゃダメだ。ボク相手に詰めが甘いよ」

 向けられる銃口は今まで向けられた、どの銃口よりも恐ろしく、それでいて美しかった。

 このまま撃ってくれないか。彼の手で私という人間の一生を終えることができたなら、生まれた意味があったのだと思う。

 この穢れ切った人生に唯一の光を、美しさをくれたのは彼一人だった。

 何もできなかった私にいろんなことを教えてくれ、側に置いてくれた。けれど彼はいつの間にか知らない遠くへ行って、今こうして私の前へと再び現れた。こうやって笑いながら、何もなかったかのように。

「大丈夫、君には当てないよ」

 血だらけの手が真っ黒な鉄の塊と同化するように握りしめられ、下を向いている。きっと力任せに手錠から手を抜いたのだろう。痛々しいそれは彼の利き手ではない右手だけであり、他の手や足は綺麗そのものだった。

 ここへ入れる前に身体検査はちゃんとされたはずなのに、どうやってピッキングできるようなものを持ち込んだのだろうか。彼はずば抜けて頭がいいから、きっと私には到底理解できないような奇想天外な方法を見つけ、実行したのだろう。ピッキングするつもりだったら、どうして右手を血に染めたのか。そこには彼にしか分からない理由があるのだろうか。

「知ってる? これ、当たったらものすごく痛いんだよ」

 子供に言い聞かせるような口ぶりで思わず笑ってしまいそうになる。彼もまた、黒い物体の輪になった部分に指をかけ、くるくるといつの日か見たときのようにぶん回している。

「痛くて、痛くて死にそうになる。実際、死ぬしね」

 知ってる。その鉄の塊に詰められた丸い玉の痛み。それを使って目の前で何人の人がこの世から消えてしまったのかも。

「そんな危ないものをボクも君も手にした」

 吸い込まれるような瞳がかすかに揺らぐ。その視線はきっと私ではない誰かを映し出していることは明確であったが、不思議と不快感はなかった。それはむしろ嬉しいと言うような、喜びに似たような感覚であった。

 それはきっと私であっても今ではない、昔の私が映っているに違いないという確信に似た何かがあったから。

「ねぇ、痛みってなんだろうね」

 そう言って、かつて私がまだ彼の側にいたときに手当てした、未だ残っているであろう古い銃痕がある右胸にそっと、私を何度も撫でた手を添えた。

「こうやって。目に見えるだけの傷が痛みなのか、それとも此処も含まれるのか」

 右胸に当てていた手を右から左へと平行に動かし、長細い人差し指でトントンと主張するかのように軽く叩く。

 その何気ない動きが、かつてされたことを思い出したかのように、冷えていた体温が急激に上昇してゆくのを感じる。

「サユリ。ボクはね君を傷つけたくない。でもそれは目に見える傷だけ」

 誰のか分からない血液が飛散した小さな地下の一室。そんな穢らわしく恐ろしい部屋であるにも関わらず、彼がいる場所はどこも綺麗に見えてしまう。彼が動こうとしない私へと距離を詰めてくる。一歩一歩と彼という生命体との距離が手を伸ばせば届いてしまう。

 これ以上耳を傾けてはいけない、近づかれてはいけない。触れてもいけない。けれど身体は今まで溜めていた想いを吐き出すかのように、断固として動こうとする気配はない。

「ボクも君も数え切れないほどの罪を犯している。窃盗、盗撮、盗聴、殺人、他にも沢山」

 私たちの犯した罪たちをつらつらと裁判官のように述べている間も、らすように彼は無駄に長い足をゆっくりと、それはもう見惚れるほど華麗な動きで私を魅了する。

「殺した人の数、顔、プロフィール。全部覚えてる? ボクは覚えてないよ」

 互いの息がかかるほど近くに、少し前へと動けば赤と赤が重なってしまいそうな距離。目を逸らしたくても、そらせない。いやここまでくれば逸らしたくないのかもしれない。あのときした後悔をしないためにも。

 一歩、距離を詰めようとする。が、彼は意図したかのようにわざといつものような揶揄うような笑みを浮かべ大きく三歩ほど離れた。

「呼吸するのと同じように、それが当たり前な世界にいるからね」

 それはもうわざとだと言わんばかりに、試すかのようにじっと私を見つめ口元に笑みをつくりながら、鉄の塊のトリガーの部分に人差し指を突っ込みブンブンとそれが危険なものだと知らない子供のように回している。

「君はこの世界に生きながらも沢山の人間に愛されてる。君は気づいてないだろうけどね」

 彼の声しか聞こえない空間で、どこからか雨水が滴るような音がした。その音は小さいはずなのに私の耳にはとても大きな、太鼓のように心臓の奥深くまで響いた。

「柄にもなく話しすぎたよ」

 独り言のように呟いたその言葉は今まで聞いたどの言葉よりも小さく、幼子を相手にしているような複雑な気持ちになる。

「だからねサユリ」

 大きく一歩。その長い足が私に向かってくる。

 さっきまであんなに揺らいで揺らいで、整理のつかなかった感情が凪いだ水面のように落ち着いている。あんなに苦しかったここでの呼吸も、私の知らなかった彼という存在を少し知ったからか、酸素吸入機をつけたときみたいに落ち着いて息が吸いやすい。

 羽の生えた天使のようなふわふわとした不思議な感覚を胸に、私は両手を差し伸べる。彼と過ごしていた記憶の中で一番嬉しかったその動きを。

 猫のようにシュッとした目が少し動いた。けれど彼は私の小さな胸に飛び込んでくることはなく、何事もなかったかのようにただ距離を詰めただけだ。

「ボクは君に、殺された人間として君の記憶に刻まれたい」

 聞いたこともないような掠れた声でけれどはっきりと、その声を私に向けて投げた。叫びのようなその声に私はそっと、何十センチも差のある彼の頭をうんと背伸びをして撫でた。

「あぁーーー何を言ってるんだろうね」

 珍しく震えている唇。恥ずかしげに笑うその顔を見るのは今日で二回目。

「要するにあれだよ」

 撫でていた私の手を力強く掴む。大きくなった今でも力も頭も技術も何もかも勝てない。

「君の一番になりたい」

 囁くように発せられた言葉。生まれてくる以前から欲しかったような彼からの愛の告白に似た、照れくさい言葉は今まで聞いてきたどの言葉よりも美しく、儚い。私にとって最高のプレゼント。

 私は鉄の塊を持った彼に抱きついた。あの頃は生きているか分からないほど静かで遠慮がちだった心音も、言葉一つでこんなにも乱れてしまっている。

「今まで君が殺めてしまった人間の中でのね」

 本当は違うくせに。けれどそれでいいのだ、私と彼の関係はこの世に何千何万とある言葉のどれでも言い表せない、不確実でそれでいて深いものなのだから。

 熱を測るときのように前髪を持ち上げられ、そのままピタッと磁石のように引っ付く。

「今までありがとう。じゃあね」

 カチャッと聞き慣れた音がこだまする。私はおでこから感じる彼の温もりを忘れないよう目を閉じた。

 彼と過ごした思い出たちを振り返りながら。

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