第27話 教務主任という現実の重み
六月に入り、東陽国立大学のキャンパスを覆う緑は深みを増し、梅雨の訪れを告げる湿った風が学生たちの肌にまとわりつくようになっていた。昼時の学食は、サークル仲間と談笑する学生たちの熱気と、麺類の湯気、そして揚げ物の脂っこい匂いで満たされ、耳を塞ぎたくなるほどの喧騒に包まれている。その中で、瀬尾悠真は一人、エアポケットに入り込んだかのように静まり返ったテーブルで、伸びきった冷やしうどんを啜っていた。周囲の楽しげな会話は彼にとって意味のないノイズであり、彼の意識はテーブルの上に置かれたスマートフォンの画面一点に集中している。画面には、新海雫からの短いメッセージが表示されていた。『今週の土曜日、会えそう? 少し話したいことがあるの』。ただそれだけの文面だが、その行間から滲み出る重苦しい空気を、悠真の鋭敏になった感覚は敏感に感じ取っていた。ここ最近、雫の様子が明らかにおかしかったからだ。メールの返信は極端に遅くなり、文面も事務的で短くなった。そして何より、彼が嫉妬と執着の炎を燃やす燃料となっていた彼女のSNSの更新が、あの日を境に完全に止まっている。多忙なのか、それとも何か深刻なトラブルに巻き込まれたのか。悠真は胸の奥で渦巻く不安を冷たいうどんごと一緒に飲み込み、震える指で『大丈夫です。いつものカフェで』と返信を打った。
土曜日の午後、大学近くのカフェ「シトロン」は、雨宿りをする客たちで静かに賑わっていた。悠真が約束の時間より十分早く到着すると、店の奥まった席に雫はすでに座っていた。彼女は手元のコーヒーに口をつけることもなく、窓の外を流れる雨粒をぼんやりと眺めている。その横顔は、最後に会った時よりもひと回り小さくなったように見え、薄いメイクの下には隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいた。悠真が足音を忍ばせて近づき、「……先生」と声をかけると、雫はビクリと肩を震わせて顔を上げた。焦点の定まらない瞳が一瞬泳ぎ、悠真を認識すると、弱々しく、今にも崩れ落ちそうな笑顔を作った。
「あ、悠真くん。……ごめんね、急に呼び出して」
彼女の声は掠れ、湿った空気の中に溶けてしまいそうだった。悠真は向かいの席に座り、祈るような気持ちで彼女を見つめた。目の下に浮かぶ薄い隈、整えられてはいるものの艶を失った髪。彼女が抱えているものが、単なる体調不良などではないことは明白だった。
「……何か、あったんですか」
悠真は単刀直入に聞いた。遠回しな探り合いをする余裕は、今の二人にはない。雫はコーヒーカップの縁を指先でなぞりながら、重い溜息をついた。その指の動きは、迷路の出口を探して彷徨う子供のようだった。
「……来年度から、教務主任を任されることになりそうなの」
その言葉を聞いた瞬間、悠真は驚きに目を見開いた。「教務主任?」とオウム返しに呟く。教務主任といえば、学校の教育課程の編成や時間割の調整、入試業務の統括など、学校運営の中枢を担う極めて重要なポストだ。通常は四十代以上のベテラン教師、あるいは管理職手前の人間が就く役職であり、二十代半ばの雫が抜擢されるなど異例中の異例、快挙と言ってもいい。
「すごいじゃないですか。大抜擢ですよ。先生の実力が認められたってことじゃないですか」
悠真は素直な称賛を口にした。彼女が評価されることは、自分のことのように誇らしい。だが、雫の表情は晴れるどころか、ますます曇っていった。彼女は首を横に振り、視線をテーブルに落とした。
「……そうね。名誉なことだとは思うわ。父も泣いて喜んでいた。『新海家の誉れだ』って。でも……責任が、重すぎるのよ」
彼女の声が震え始めた。
「カリキュラムの改訂、生徒指導の問題、保護者対応……。今でさえクラス担任と部活の顧問で手一杯なのに、これ以上仕事を抱え込んだら、私生活なんて完全に無くなってしまう。……母は心配しているわ。『そんなに仕事ばかりして、婚期を逃す気か』って。……二十四歳の娘に言うことじゃないかもしれないけど、それが世間の、そして親としての正直な目なのよ」
婚期。その二文字が、悠真の心臓を冷たく掴んだ。彼女が抱えている葛藤の正体は、キャリアと「女としての幸せ」の板挟みだったのだ。仕事に生きれば、結婚や家庭は遠のく。かといって、仕事をセーブすれば、教育者としての期待を裏切ることになる。厳格な父の期待と、現実的な母の心配。その両方からのプレッシャーに押し潰されそうになっているのだ。
「……先生は、どうしたいんですか」
悠真が問うと、雫は顔を覆った。
「わからない。……教師として、期待に応えたい気持ちはある。でも、女としての幸せを犠牲にしてまで、仕事に全てを捧げる覚悟があるのかって自問すると……自信がないの。それに……」
彼女は指の隙間から悠真を見た。その瞳は潤み、懇願するような光を宿していた。
「もし教務主任になったら、あなたと会う時間も、連絡を取る余裕も、もっと減ってしまうかもしれない。……それが、一番怖いの」
彼女の告白に、悠真は息を呑んだ。彼女は、自分との関係を守るために、キャリアアップを躊躇っているのだ。その事実は悠真の胸を熱くさせたが、同時に冷静な計算も働かせた。今、ここで彼女に「仕事を断ってくれ」と言うのは簡単だ。だが、それでは彼女の根本的な不安は解消されないし、何より彼女の社会的な立場を守れない。悠真はテーブルの下で拳を握りしめ、覚悟を決めた。
「……引き受けてください」
悠真の言葉に、雫が驚いて顔を上げた。「え……?」と唇を震わせる彼女に対し、悠真は身を乗り出して続けた。
「先生ならできます。……それに、教務主任という立場は、先生自身を守る最強の盾にもなるはずです」
「盾?」
「社会的地位です。……先生が学校で確固たる地位を築き、誰からも文句を言われない実績を作れば、周りは先生の私生活に口出しできなくなる。お父さんだって、実績のある先生の判断を無下にはできないはずです。……僕たちが将来、堂々と一緒になるための障害も、先生が強くなることで減るはずです」
それは、悠真なりの冷徹な戦略だった。雫がキャリアを積み、自立した女性として確立されればされるほど、二人の関係は「教師と生徒」という非対称なものから、「自立した大人同士」の対等なものに近づく。そして、彼女が仕事に忙殺されている間は、他の男が入り込む隙も物理的になくなる。彼女の不安を取り除き、かつ独占するための最善手。
「……でも、会えなくなるのよ? 寂しくないの?」
雫は縋るように聞いた。悠真は苦笑し、彼女の目を見つめ返した。
「寂しいですよ。……死ぬほど。今すぐにでも連れ去って、僕だけのものにして閉じ込めておきたいくらいです」
本音を漏らすと、雫の頬が朱に染まった。
「でも、先生が仕事で輝いている姿を見るのが、今の僕の幸せですから。……先生が重荷を背負うなら、僕がその支えになります」
雫はしばらくの間、悠真の瞳の奥を探るように見つめていたが、やがてふっと肩の力を抜き、憑き物が落ちたように微笑んだ。
「……本当に、あなたは強いわね。年下のくせに、生意気なんだから」
彼女は冷めたコーヒーを一口飲み、小さく頷いた。
「わかったわ。……受けてみる。あなたがそう言うなら、きっと間違いじゃない。私が教務主任になって、学校を変えてみせるわ」
彼女の表情に、教師としての凛とした生気が戻った。悠真は安堵したが、同時に、彼女がまた一つ遠い場所へ行ってしまうような焦燥感も覚えた。自分も早く成長しなければ。彼女に見合う男にならなければ、置いていかれる。
「……その代わり、悠真くん」
雫が急に真剣な表情になり、悠真を指差した。
「あなたに一つ、アドバイスがあるの。……いえ、これは教師としての『指導』よ」
「指導? 勉強のことですか?」
「勉強も大事だけど、それだけじゃダメなの」
彼女は、悠真が最近、大学で孤立していることを察しているかのように言った。
「教員を目指しているなら、勉強を頑張るのはいいけれど、学生のうちに友人たちともよく話をして、コミュニケーション能力を磨いておきなさい。教師は人間と会話出来て成り立っている仕事です。……孤独に閉じこもって本ばかり読んでいても、人の心はわからないわよ」
その言葉は、悠真の胸に深く突き刺さった。図星だった。彼は雫への想いを純化させるあまり、周囲を拒絶し、孤独を選んでいた。だが、それは将来「教師」として彼女の隣に立つためには、致命的な欠陥になり得るのだ。彼女は、悠真の現状を見抜き、正しい道へと修正しようとしてくれている。
「……はい。肝に銘じます」
悠真は素直に頭を下げた。
「私が仕事でボロボロになったら、癒やしてね。……精神的に。でも、コミュ障のままじゃ、私の愚痴も聞けないでしょ?」
雫が悪戯っぽく笑った。
「もちろんです。……そのために、僕はいるんですから。友人とも話します。……まずは、心配してくれている親友に、詫びを入れるところから始めます」
カフェを出ると、外は本降りの雨になっていた。梅雨入りだ。悠真は傘を広げ、雫を駅まで送った。一つの傘の下、二人の肩が触れ合う。その微かな温もりが、悠真の心を満たした。教務主任という現実の重み。それは二人の前に立ちはだかる新たな壁であり、同時に愛を試す試練でもあった。だが、悠真は恐れなかった。雨音に紛れて、彼は小さく呟いた。
「……絶対に、守りますから」
雫には聞こえていなかったかもしれない。だが、彼女はふと悠真の方を見て、雨に濡れた紫陽花のように美しく微笑んだ。その笑顔があれば、どんな重荷も耐えられる。悠真は傘を握る手に力を込め、雨の中を歩き続けた。コミュニケーションという新たな課題を胸に、彼はまた一つ、大人への階段を登る覚悟を決めていた。
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禁域の初恋と、責任という名の誓約 舞夢宜人 @MyTime1969
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