第26話 触れられない愛情の代償
初夏の夕暮れが街を茜色に染め上げる中、瀬尾悠真はカフェ「シトロン」を後にして大学へと戻る道を一人歩いていた。先ほどまで目の前にいた新海雫の残像が網膜に焼き付いて離れない。淡いブルーのワンピースが風に揺れる様や、少し大人びたメイクが施された目元、そして何より彼女自身が発していた甘く清潔な石鹸の香りが、悠真の五感を支配し続けている。報告会は成功したと言っていいだろう。SNSの写真に端を発した疑心暗鬼は晴れ、彼女との信頼関係は以前よりも強固なものになったはずだ。彼女は待っていてくれる。その確信を得られたことは、砂漠で水を見つけたような安堵を彼にもたらした。しかし、満たされたはずの心には、同時に底知れぬ空洞が口を開けていた。物理的な距離が再び二人を隔てた瞬間、抑え込んでいた「触れたい」という渇望が、堰を切ったように溢れ出してきたのだ。駅の改札で彼女が小さく手を振って雑踏の中へ消えていったとき、悠真は衝動的に改札を飛び越えて彼女を追いかけ、その細い腕を掴んで抱きしめたいという欲求に駆られた。だが、それは許されない。四年間という契約期間において、彼は禁欲的な求道者でなければならないからだ。理性で本能をねじ伏せるたびに、心身が軋むような音が聞こえる気がした。
大学に戻った悠真は、逃げ込むように図書館の自習室へと向かった。窓の外はすでに藍色の帳が下りており、閉館時間までのわずかな時間を惜しんで勉強する学生たちの姿がまばらに見える。悠真もいつもの席に座り、教職課程の参考書を開いたが、文字は意味を持たない記号の羅列として視界を滑っていくだけだった。集中できない。彼の意識は、先ほどカフェで交わした会話や、テーブル越しに触れた彼女の手の感触へと絶えず引き戻されてしまう。柔らかく、少し冷たく、そして微かに震えていたあの手。もしあの時、もっと強く握りしめていたらどうなっていただろうか。もしテーブルの下で足を絡ませたり、店を出た後に路地裏へ連れ込んだりしていたら。そんな「もしも」の妄想が脳内で暴走し、下腹部に重く熱い塊が溜まっていく。悠真は深く息を吐き、頭を振って妄想を追い払おうとしたが、身体の芯で燻る情欲の炎は簡単には消えそうになかった。勉強という理性的な行為では、今の彼の飢餓感を埋めることは不可能だった。
耐えきれなくなった悠真は席を立ち、図書館を出てキャンパス内のベンチへと向かった。夜風が火照った頬を撫でるが、熱を冷ますには至らない。彼は自動販売機の前に立ち、小銭を取り出した。普段なら迷わず百円のブラックコーヒーを選ぶところだが、指が止まる。脳裏に蘇ったのは、カフェで雫が注文していたスペシャリティコーヒーだ。彼女はその少し酸味の強い液体を、実に美味しそうに飲んでいた。悠真は小銭を追加し、普段は手を出さない二百円のプレミアム缶コーヒーのボタンを押した。ガコンという重い音と共に、温かい缶が取り出し口に落ちてくる。それを手に取り、ベンチに腰を下ろした。缶の温もりが掌に伝わる。それは人間の体温に近く、どこか生々しい感触を持っていた。悠真はプルタブを開け、香りを確認するように鼻を近づけた。焙煎された豆の香ばしさと、微かに鼻腔をくすぐるフルーティーな酸味。それはカフェで嗅いだ彼女の残り香に、どことなく似ているような気がした。
一口含むと、強い苦味と酸味が舌の上に広がった。美味いとは言い難い、大人の味だ。だが悠真は、その液体をゆっくりと口腔内で転がし、喉の奥へと流し込んだ。熱い塊が食道を通り抜け、胃袋へと落ちていく感覚を確かめる。これは代償行為だ。彼女に触れたい、彼女の体温を感じたい、彼女と口づけを交わしたいという抑えきれない衝動を、味覚と嗅覚、そして触覚を刺激する「何か」で誤魔化しているに過ぎない。缶コーヒーという無機物を彼女に見立て、その温もりと香りを貪る自分の姿は、客観的に見れば滑稽で惨めなものだろう。だが、今の彼にはこれしか方法がなかった。肉体的な接触を禁じられた彼にとって、五感を総動員して彼女の幻影を感じ取ることは、精神の均衡を保つための唯一の生命維持装置だったのだ。
悠真は缶の表面を指でなぞった。微細な凹凸と、熱伝導による温かさ。その感触に集中し、先ほど触れた彼女の手の記憶を呼び覚ます。華奢な骨格、滑らかな皮膚、そして脈打つ血管の鼓動。記憶の中の触感と、掌にある缶の感触を重ね合わせ、脳内で合成していく。目を閉じれば、隣に彼女が座っているような気さえしてくる。だが、目を開ければそこにあるのは無機質な夜のキャンパスと、自分の手にある空き缶だけだ。空虚だ。どれだけ妄想しても、どれだけ代償行為を重ねても、現実は何一つ変わらない。彼女はここにはいない。そしてあと四年間は、決して自分のものにはならない。その事実に改めて絶望しそうになる一方で、奇妙な充足感も同時に湧き上がっていた。この苦しみこそが、愛の証なのだと。簡単に手に入るものなら、これほど執着しないし、これほど渇望することもない。障害があるからこそ、想いは純化され、燃え上がる。この胸を焦がす痛みは、自分が彼女を本気で求めていることの何よりの証明であり、その痛みに耐えること自体が、彼女への忠誠を誓う儀式のようなものだった。
悠真は空になった缶を強く握りしめた。ベコリ、という金属音が静寂な夜に響く。それは彼の心の叫びのようでもあり、弱い自分を押し潰す音のようでもあった。彼は缶をゴミ箱に投げ入れ、立ち上がった。夜風が強くなり、シャツの裾をはためかせる。アパートへの帰り道、彼は夜空を見上げた。街明かりにかき消されて星は見えないが、この空の向こうに彼女がいることは知っている。そして彼女もまた、同じ空の下で、教師としての責任や将来への不安、そして悠真への想いと戦っているはずだ。ならば、自分だけが弱音を吐いているわけにはいかない。
「……やるしかない」
悠真は独りごちた。足取りは重いが、迷いは消えていた。触れられない愛情の代償として飲み込んだコーヒーの苦味を、身体の奥底に刻み込む。この苦味を忘れない限り、自分は走り続けられる。アパートに帰れば、また孤独な戦いが待っている。参考書を開き、知識を詰め込み、自分を研磨する日々。それは果てしない道のりに思えるが、一歩ずつ進めば必ずゴールに辿り着く。悠真は拳を握り直し、暗い夜道を力強く歩き出した。その背中には、愛する人を手に入れるためならどんな代償も支払うという、悲壮なまでの覚悟が宿っていた。
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