第25話 愛への逃避


 五月の終わり、キャンパスの熱気は初夏の日差しと共に増していたが、瀬尾悠真の心象風景は依然として灰色のままだった。講義中、教授の声は遠くからのノイズのように響き、黒板の文字は意味をなさない記号の羅列に見えた。彼の脳裏を占拠しているのは、相変わらずSNSで見たあの「袖口」の残像と、それに付随する不吉な想像だけだ。あの男は誰なのか。雫は彼に何を求めているのか。そして、自分は彼に勝てるのか。答えの出ない問いが、エンドレスリピートで頭の中を駆け巡り、精神を摩耗させていく。


 悠真は、この思考の迷路から抜け出す術を探していた。そして見つけた唯一の出口が、「教育者としてのキャリア」という名の迷宮へ自ら飛び込むことだった。彼は、大学の図書館で最も分厚く、最も難解そうな専門書を何冊も積み上げ、その山の中に埋没することを選んだ。『教育哲学の歴史』『発達心理学全集』『国語科教育法の探究』。それらの書籍は、今の彼にとって単なる知識の源ではなく、現実逃避のためのシェルターだった。文字を目で追い、複雑な理論を脳内で組み立てている間だけは、雫への嫉妬や不安という感情的なノイズをシャットアウトできる。学問という客観的で論理的な世界に没入することで、彼は自分の不安定な心を辛うじて繋ぎ止めていたのだ。


「……悠真、お前またそんな本読んでんのかよ」


 昼休み、図書館の自習スペースに陽太がやってきた。彼はコンビニのおにぎりを片手に、悠真の前に積み上げられた本の塔を見て呆れたように声を上げた。


「……これくらい読まないと、間に合わないんだ」


 悠真は顔を上げずに答えた。その目は充血し、目の下にはクマができている。陽太は心配そうに眉をひそめた。


「間に合わないって、何にだよ。まだ一年生だぞ? 採用試験まであと三年もあるじゃんか」


「三年しかないんだ。……俺には、時間がない」


 悠真はページをめくる手を止めなかった。彼の焦燥感は、陽太には理解できない類のものだ。四年間という時間は、雫を待たせている時間であり、彼女が他の男に奪われるかもしれないリスクを孕んだ時間でもある。その恐怖に打ち勝つためには、常に走り続け、自分が成長しているという実感を得続けなければならない。


「……お前、新海先生のこと、そんなに信じられないのか?」


 陽太の言葉が、悠真の痛いところを突いた。


「信じてるよ。……信じたいから、頑張ってるんだ」


「頑張るのはいいけどさ、自分を追い込みすぎだろ。……たまには息抜きしろよ。この後、カラオケ行かねえ?」


 陽太の誘いは魅力的だった。何も考えずに歌い、笑い、バカ騒ぎをする。そんな普通の大学生のような時間が、今の自分には許されていないような気がして、悠真は首を横に振った。


「悪い。……今日は、この章まで終わらせたいんだ」


「……そうかよ。まあ、無理すんなよ」


 陽太は諦めたように肩をすくめ、立ち去っていった。遠ざかる友人の背中を見送りながら、悠真は微かな羨望と、それを上回る孤独を感じていた。自分は、普通の道からは外れてしまったのだ。愛という名の茨の道を、裸足で歩くことを選んでしまった。


 その日の夜、悠真はアパートに帰ると、すぐに机に向かった。専門書を開き、ノートに要点をまとめていく。ペン先が紙を擦る音だけが、静寂な部屋に響く。ふと、スマートフォンの画面が目に入った。雫からの連絡はない。SNSも更新されていない。それが安心材料でもあり、新たな不安の種でもあった。彼女は今、何をしているのだろうか。あの男と会っているのだろうか。それとも、自分のことを少しは考えてくれているのだろうか。


「……考えるな」


 悠真は自分に言い聞かせ、頭を振った。考えれば考えるほど、泥沼にハマっていく。彼は意識的に思考を切り替え、目の前のテキストに集中した。『教育とは、未成熟な人間を成熟へと導く営みである』。カントの言葉が、今の自分に突き刺さる。自分は未成熟だ。感情に振り回され、嫉妬に狂い、不安に怯える子供だ。だからこそ、教育者を目指す過程で、自分自身を成熟させなければならない。雫にふさわしい、理性的で包容力のある「大人」になるために。


 彼は、教育学の理論を、自分自身の成長のための指針として読み解き始めた。ピアジェの発達段階説、エリクソンのアイデンティティ概念。それらは単なる試験知識ではなく、自分の未熟さを客観的に分析し、克服するためのツールとなった。学ぶことが、愛することと同義になっていく。知識を得るたびに、自分の精神が研磨され、不純物が削ぎ落とされていくような感覚。それは一種の宗教的な高揚感にも似ていた。


「……見てろよ、雫」


 悠真は誰もいない部屋で呟いた。その声には、以前のような悲壮感はなく、静かな闘志が宿っていた。


「俺は、あんたが驚くようないい男になってやる。……その時、あんたはもう、俺から目を離せなくなるはずだ」


 彼は専門書を閉じ、次の本を手に取った。夜はまだ長い。孤独な戦いは続く。だが、その孤独の先にある光を信じて、悠真はページをめくり続けた。愛への逃避。それは、彼にとっての唯一の、そして最強の生存戦略だったのだ。

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