第24話 沢村同僚の現実論


 五月の湿った夜風が、居酒屋の暖簾を揺らして店内に入り込んでくる。大学のキャンパスから二駅ほど離れたこの店は、学生たちの喧騒からは隔離されているものの、仕事帰りのサラリーマンたちの紫煙と脂っこい焼き鳥の匂い、そしてアルコールによって増幅された笑い声で満たされていた。その雑多なノイズの海に浮かぶ小島のような半個室で、新海雫は目の前に置かれたカシスオレンジのグラスを指先で弄びながら、小さく息を吐いた。グラスの表面に付着した水滴が、彼女の指を濡らして冷やす。対面に座っているのは、国語科の同僚であり、プライベートでも親交のある沢村理恵だ。彼女はジョッキに残ったビールを豪快に煽ると、ドンとテーブルに置き、据わった目で雫を見据えた。


「……で、あんた。本当にそれでいいと思ってるわけ?」


 沢村の唐突な問いかけは、雫がひた隠しにしていた心の柔らかい部分を土足で踏み荒らすような鋭さを持っていた。雫は視線を逸らし、曖昧に微笑んで誤魔化そうとしたが、同僚の鋭い眼光はそれを許さない。今日の飲み会は、本来なら中間テスト作成の労をねぎらうための気軽な女子会のはずだった。しかし、話題が自然と恋愛や結婚へと流れていく中で、雫がつい漏らしてしまった「ある生徒」との関係についての断片的な情報が、沢村のサディスティックな探求心に火をつけてしまったのだ。雫は覚悟を決めて顔を上げ、平静を装って答えた。


「いいも何も、これがお互いにとって一番良い選択なんです。彼はまだ学生で、未来がある身ですから。変な道に引きずり込むわけにはいきません」


 雫の言葉は、教師としての建前で塗り固められた完璧な論理のように聞こえた。しかし、沢村は鼻で笑い、枝豆を一つ口に放り込んだ。


「建前はいいのよ、建前は。私が聞いてるのは、あんた自身の『女としての本音』。……大学卒業と、教員採用試験の合格。それを条件に四年間待つって言ったんでしょ? それって聞こえはいいけど、結局のところ、彼を試してるだけじゃない」


 沢村の指摘は、雫が心の奥底で密かに抱いていた罪悪感を正確に射抜いていた。悠真に対して提示した「経済的基盤の確立」と「社会的信用の獲得」という条件。それは彼を一人前の男にするための愛の鞭であると同時に、雫自身が傷つくことを恐れて築き上げた防波堤でもあった。安定した職業、確かな収入、世間体。それらが揃わなければ愛など成立しないという彼女の価値観は、父である誠一郎の影響を色濃く受けた保守的なものだ。だが、それを「愛」という美しい包装紙で包んで彼に押し付けている自分に、時折どうしようもない自己嫌悪を覚えることがあった。


「試しているわけじゃありません。……覚悟を問うているんです。結婚というのは、生活そのものですから。情熱だけでお腹は膨れませんし、屋根も直せません。彼が本気なら、その程度のハードルは越えてもらわないと」


 雫は少し語気を強めて反論したが、沢村は冷ややかな笑みを崩さなかった。彼女は新しいハイボールを注文し、テーブルに肘をついて雫に顔を近づけた。


「そうね、正論だわ。ぐうの音も出ないほどの正論。……でもね、雫。あんた、自分の年齢を計算に入れている? 今、二十四歳。彼が大学を卒業して、ストレートで教員になって、一人前になる頃には、あんたは二十八歳よ。いや、現場に出てすぐに結婚なんてできないだろうから、実際には三十歳手前になる」


 数字という現実は、どんな言葉よりも重く、そして残酷に響いた。三十歳。それは女性にとって、結婚や出産といったライフイベントのタイムリミットを意識せざるを得ない大きな節目だ。


「四年間っていう時間はね、二十歳の彼にとっては『成長のためのモラトリアム』かもしれないけど、二十四歳の女にとっては『市場価値が暴落していく恐怖のカウントダウン』なのよ。……もし、彼が途中で挫折したらどうするの? あるいは、大学で若くて可愛い子を見つけて、あんたを捨てる可能性だって十分にある。その時、あんたに残るのは、婚期を逃した三十路の身体と、後悔だけよ」


 沢村の言葉は、雫が夜ごとの悪夢で見ていたシナリオそのものだった。若い悠真には無限の可能性がある。キャンパスには同年代の魅力的な女子学生が溢れているだろうし、新しい世界を知れば、年上の元教師など色褪せて見えるかもしれない。そんなリスクを背負いながら、ただひたすらに待ち続けることの恐怖。それを、沢村は容赦なく言語化したのだ。


「……わかっています。リスクがあることは」


 雫はグラスを両手で包み込み、指先の冷たさで動揺を鎮めようとした。


「でも、私は彼を信じたいんです。先日、彼に会いました。彼は私の想像を遥かに超える努力をしていました。毎日勉強して、将来のために準備して……その姿を見たら、信じるしかないじゃないですか」


「信じる、ねえ。……あんたさ、結局のところ『損をしたくない』だけなんじゃない?」


 沢村の声のトーンが落ち、ドスの利いた響きを帯びた。


「彼が好きだと言いながら、彼の『現在』じゃなくて『未来の成果』を愛そうとしてる。彼が公務員という安定した椅子に座ってくれるなら愛してあげる、そうでなければサヨウナラ。……それって、愛じゃなくて投資よ。しかも、かなり分の悪いギャンブルね」


 投資。その言葉に雫はハッとした。自分は悠真という人間に恋をしているつもりだった。あの日、教室で真っ直ぐに自分を見つめてきた彼の瞳に、心を奪われたはずだった。だが、いざ結婚という現実を前にした時、真っ先に考えたのは「生活の安定」であり「世間体」だった。彼そのものではなく、彼が付属させてくるであろう「条件」を愛の前提にしているのではないか。沢村の言う通り、それはあまりにも計算高く、冷酷な考え方なのかもしれない。


「……じゃあ、どうすればいいんですか。何も考えずに、感情のままに突っ走ればいいんですか? それで失敗したら、誰が責任を取ってくれるんですか」


 雫の声が震えた。それは反論というよりも、迷える子供の悲鳴に近かった。沢村はため息をつき、ハイボールを一口飲んだ。


「責任なんて、誰も取ってくれないわよ。自分の人生なんだから。……私が言いたいのはね、もっと『今』を見なさいってこと。四年後の彼じゃなくて、今、汗水垂らしてあんたのために頑張ってる彼を見てあげなさいよ」


 沢村は少し表情を和らげ、諭すように続けた。


「男っていうのはね、現金な生き物よ。遠くのゴールだけを見せられても、途中で息切れするわ。……たまには『水やり』をしてあげないと、枯れちゃうわよ」


「……水やり?」


「そう。連絡を取るとか、甘えさせてあげるとか。……あんた、彼に禁欲を強いてるんでしょ? そのくせ自分は、安全地帯から高みの見物を決め込んでる。そんなんじゃ、彼の心が離れても文句は言えないわよ」


 雫は言葉を失った。SNSの件で彼に不安を与えてしまったこと、そしてそれに対するフォローが不十分だったかもしれないことが脳裏をよぎる。自分は教師としてのプライドを守ることに必死で、孤独な環境で戦う彼の寂しさに寄り添えていなかったのではないか。彼が求めているのは、四年後の約束だけではない。今この瞬間の、心の繋がりなのだ。


「……私、彼に甘えてもいいんでしょうか。教師と生徒だったのに」


「もう卒業したんだから、関係ないでしょ。……それにね、雫。あんたが思ってるより、男は『頼られる』ことに弱いのよ。年上の女が弱音を吐いたり、寂しがったりする姿に、男は自分の存在意義を感じるものなの」


 沢村は悪戯っぽく笑い、空になったグラスを振った。


「ま、あんたがそこまで頑固なら、私が彼を貰っちゃおうかしら。将来有望な若いツバメ、悪くないわね」


「……それは、困ります」


 雫が即座に反応すると、沢村はケラケラと笑い出した。


「ほら、本音が出た。……大丈夫よ、あんたのその必死な顔を見てたら、横取りなんてできないわ」


 店内の喧騒が遠のいていくような気がした。沢村の荒療治のような言葉の数々が、雫の凝り固まった価値観に亀裂を入れ、そこから温かい感情が流れ込んでくる。リスクも、年齢への恐怖も、消えたわけではない。だが、それらを抱えたままでも、彼を愛おしいと思う気持ちは嘘ではない。


「……ありがとうございます、沢村先生。私、もう少し……素直になってみます」


 雫が深々と頭を下げると、沢村は「はいはい、ご馳走様」と手を振った。会計を済ませて店を出ると、夜気は少し冷たくなっていたが、雫の頬はアルコールと高揚感で火照っていた。見上げれば、都会の空には珍しく星が見える。悠真も今頃、この空を見ているだろうか。孤独な部屋で、一冊のノートに向かい合っている彼の背中を想像する。会いたい。声が聞きたい。触れたい。湧き上がるその感情は、条件や契約とは無縁の、ただの恋心だった。


 雫はバッグからスマートフォンを取り出し、連絡先リストを表示させた。指先が「瀬尾悠真」の名前の上で止まる。明日は土曜日だ。彼も少しは時間が取れるかもしれない。電話をかけよう。そして、伝えよう。「待ってる」という受動的な言葉ではなく、「会いたい」という能動的な言葉を。沢村の言う通り、水をやらなければ花は枯れてしまう。けれど、愛情という水を注ぎ続ければ、その花はきっと、四年後に大輪の花を咲かせるはずだ。雫は決意を込めて、夜の街を歩き出した。ヒールの音が、以前よりも軽やかに、そして力強く響いていた。

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