第23話 茜との最初の出会い
五月半ば、新緑の若葉が日差しを浴びて鮮やかに輝く季節となっていた。東陽国立大学の広大なキャンパスは、入学当初の浮足立った喧騒が落ち着きを見せ始め、学生たちがそれぞれのコミュニティやリズムを構築しつつある安定期に入っている。講義棟の前のベンチではサークル仲間たちが談笑し、芝生広場ではカップルが身を寄せ合ってランチを広げている。そんな平和で眩しい光景の中にあって、瀬尾悠真だけは周囲から切り離された異質な空気を纏い続けていた。大講義室では常に最前列の中央に陣取り、教授の唾が飛んでくるほどの距離で一心不乱にノートを取り続ける。講義が終われば誰とも視線を合わさずに教室を出て、昼休みは迷わず図書館の自習スペースへと直行する。放課後は即座に帰宅し、アパートという名の要塞に籠城して勉強に没頭する。そのストイックすぎる生活スタイルは、周囲の学生たちからは「ガリ勉」や「近寄りがたい奴」として認知され、奇妙な敬遠の対象となっていた。だが、悠真にとってそれは好都合以外の何物でもなかった。彼にとっての大学生活は、キャンパスライフを楽しむためのものではなく、四年後に新海雫という絶対的な存在に追いつくための修練の場に過ぎないからだ。無駄な人間関係は、彼女への集中力を削ぐノイズでしかない。そう信じて疑わなかった。あの日、彼女が現れるまでは。
午前の講義が終わり、いつものように足早に図書館へ向かおうとしていた悠真は、キャンパスの中庭で不意に背後から声をかけられた。「ねえ、キミ。瀬尾くんでしょ?」。その声は鈴を転がすように明るく、どこか甘ったるい響きを含んでいた。悠真が足を止めて振り返ると、そこには同じ教育学部国語科の篠崎茜が立っていた。彼女は入学当初から学科内でも目立つ存在だった。明るい茶色に染めた髪を緩く巻き、トレンドを押さえたファッションを着こなす華やかな容姿。講義中でも物怖じせずに発言し、休み時間になれば常に男女問わず多くの友人に囲まれている。悠真とは対極に位置する、キャンパスライフを謳歌する「陽キャ」の代表格のような女子学生だ。悠真は反射的に警戒心を抱き、無表情のまま彼女を見据えた。
「……何か用ですか」
冷たく突き放すような悠真の態度にも、茜は全く動じる様子を見せない。それどころか、さらに一歩近づいて屈託のない笑顔を向けてきた。
「そんな怖い顔しないでよ。同じ学科なんだから、仲良くしようって話」
言いながら距離を詰めてくる彼女からは、甘く濃厚な香水の匂いが漂ってきた。それは雫が纏う清潔な石鹸の香りとは全く異なる、人工的で、本能を刺激するような挑発的な香りだった。茜は小首を傾げ、上目遣いで悠真を見上げた。その仕草は計算され尽くした愛嬌を感じさせる。
「ノート、見せてくれない? 教育心理学の。私、サークルで忙しくてさ、先週の講義サボっちゃったんだよね。瀬尾くん、いつも最前列で超真面目にノート取ってるじゃん? だから、頼りになるなーって思って」
よくある頼み事だ。適当な理由をつけて断ることもできたが、下手に拒絶してこれ以上絡まれるのも面倒だった。悠真は溜息を飲み込み、鞄からノートを取り出した。
「……コピーなら、いいですよ」
差し出すと、茜は「やった! ありがとー!」と歓声を上げてノートを受け取り、パラパラと中身を確認し始めた。そして、感心したように口笛を吹く。
「うっわ、すっごい。何これ、教授の話全部メモってるじゃん。……キミ、何目指してるの? 学者?」
「教員です」
悠真は短く答えた。茜はノートを閉じて悠真の顔を覗き込み、興味深そうに観察する。
「へえー。まあ、教育学部だしね。でもさ、そこまでやる必要ある? 大学生活、もっと楽しまないと損だよ? ねえ、この後暇? お礼にランチ奢るよ」
彼女の誘いは、単なる礼儀以上のニュアンスを含んでいるように見えた。その瞳の奥には、珍しい生き物を見つけた子供のような、あるいは堅物の仮面を剥がしてみたいという悪戯心のような光が宿っている。
「結構です。……図書館に行くので」
悠真はノートを奪い返すように受け取り、背を向けた。これ以上関わりたくない。彼女のペースに巻き込まれると、自分のリズムが崩れる予感がしたからだ。だが、茜は食い下がった。「待ってよ」と声を張り上げ、悠真の前に回り込む。
「……キミさ、彼女いるの?」
その唐突で核心を突く質問に、悠真の足が止まった。振り返ると、茜はニヤニヤと意地悪く笑っていた。
「図星? ……その必死さ、ただの真面目くんじゃないよね。誰かのために頑張ってる、って感じがするもん」
鋭い指摘に、悠真は舌打ちしたくなった。彼女は、悠真の「孤独な忠誠」の裏にある動機を、野生の勘のようなもので嗅ぎつけたのだ。
「……あなたには関係ありません」
拒絶する悠真に対し、茜はさらに一歩近づき、耳元で囁くような声で言った。
「関係あるかもよ? 私、キミみたいな一途なタイプ、嫌いじゃないし。……その彼女、遠距離なんでしょ? ……寂しくない?」
彼女の声が、甘く脳髄に響く。それは明確な誘惑だった。孤独な生活に疲弊し、心が乾ききっている悠真の隙間に入り込もうとする、悪魔の囁き。目の前の彼女は若く、美しく、そして今すぐにでも手に入る距離にいる。もしここで頷けば、この耐え難い孤独は一時的にせよ癒やされるかもしれない。雫への執着という重く冷たい鎖から解放され、年相応の快楽に溺れることができるかもしれない。茜の香水の匂いが鼻腔を満たし、理性を麻痺させようとする。だが、その時、悠真の脳裏に浮かんだのは、あの別れの夜に見せた雫の寂しげな笑顔だった。『信じてるわ』という彼女の言葉が、雷鳴のように響き渡り、悠真の理性を強引に繋ぎ止めた。彼は深呼吸をして茜の匂いを肺から追い出し、彼女の目を真っ直ぐに見据えた。
「……寂しいですよ。死ぬほど」
悠真は正直に認めた。その言葉に、茜の表情が一瞬勝利を確信したように緩む。だが、悠真はすぐに言葉を続けた。
「でも、その寂しさも含めて、彼女への愛なんです。……他の誰かで埋められるような、安い感情じゃありません」
きっぱりと言い切ったその声には、揺るぎない信念が宿っていた。茜の表情が凍りつく。彼女はしばらくの間、理解できないものを見るような目で悠真を見つめていたが、やがてふっと力を抜き、肩をすくめた。
「……なーんだ。つまんないの」
彼女は興味を失ったように言ったが、その目には微かな敬意の色が宿っているように見えた。
「わかったよ。コピー代、払うからさ。……あとで返してね、ノート」
彼女は財布から小銭を取り出して悠真の手に押し付けると、踵を返して歩き出した。数歩進んだところで一度だけ振り返り、悪戯っぽくウィンクをする。
「その彼女、幸せ者だね。……大事にしなよ」
茜の背中が新緑の並木道へ消えていくのを、悠真は見えなくなるまで立ち尽くして見送っていた。誘惑を退けた。その事実が、悠真に小さな、しかし確かな自信を与えた。自分は揺らがなかった。雫への誓いを守り抜いたのだ。それはテストの点数や模試の判定よりも確かな、自分自身の心に対する「愛の証明」だった。悠真は掌に残る小銭の冷たさを確かめてから、図書館へと向かって歩き出した。足取りは以前よりも軽く、迷いがない。孤独は消えない。これからも寂しさに苛まれる夜は続くだろう。だが、その孤独こそが自分の愛を研ぎ澄ませる砥石なのだと、改めて確信することができた。茜との出会いは、平穏な水面に石を投げ込むような一瞬の波紋だったかもしれない。しかし、その波紋が静まった後、悠真の心にはより強固で透明度の高い忠誠心が満ちていた。絶対に、裏切らない。どんな誘惑があろうとも、自分は新海雫だけのものだ。悠真は図書館の重い扉を開け、いつもの席に着くと参考書を開いた。再び文字の海へと潜っていくその横顔は、修行僧のようにストイックで、そして恋する男のように情熱的だった。
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