第22話 最初の進捗報告
ゴールデンウィークが明け、初夏の陽気がキャンパスを包み込み始めた五月中旬。瀬尾悠真は大学近くにあるカフェ「シトロン」の一番奥まったテーブル席に陣取り、緊張した面持ちで入り口を凝視し続けていた。ガラス張りの店内は午後の柔らかな日差しで満たされ、スピーカーからは心地よいジャズが流れる穏やかな空間だったが、悠真の心臓はここ数週間で最も激しく、痛いほどに脈打っていた。今日は入学してから初めて、新海雫と直接顔を合わせる日だからだ。SNSの写真を見て動揺し、疑心暗鬼の闇に突き落とされたあの夜から、長い時間が経過したように感じる。悠真はその間、湧き上がる不安や嫉妬といった負の感情を全て勉強へのエネルギーに強制的に変換し、狂気じみた勢いで知識を吸収することに費やしてきた。睡眠時間を限界まで削り、食事の味さえ忘れるほど詰め込んだ膨大な情報の数々は、すべて今日のこの時間のためだけに研ぎ澄まされた武器だった。テーブルの上に置かれた冷たい水滴を指でなぞりながら、彼はこれから始まる報告会のシミュレーションを脳内で何度となく繰り返していた。彼女はどんな顔で現れるだろうか。あの写真の男の話をするだろうか。それとも、何事もなかったかのように振る舞うのだろうか。
カラン、とドアベルの軽やかな音が鳴り、悠真の思考は中断された。反射的に顔を上げると、そこには淡いブルーのワンピースに身を包んだ雫が立っていた。髪を下ろし、少し大人びたメイクをした彼女の姿は、高校の教室で見ていた厳格な教師の顔とも、SNSの小さな画面越しに見た遠い世界の女性の顔とも違う、どこか柔らかで親しみやすい雰囲気を纏っている。悠真が立ち上がり、震える手を抑えながら軽く合図を送ると、彼女はすぐに気づき、花が咲いたような笑顔で近づいてきた。その屈託のない笑顔を見た瞬間、悠真の胸の奥にヘドロのように沈殿していた暗い感情が一気に浄化されていくのを感じた。理屈ではなく、本能が彼女を求めている。やはり、好きだ。その事実は、どんな不安や疑念よりも強く、絶対的な真理として彼を支配した。
「……久しぶりね、悠真くん」
雫が向かいの席に座り、ハンドバッグを丁寧に置きながら言った。その声は記憶の中にあるものよりも少し高く、弾んでいるように聞こえた。
「元気にしてた?」
「はい。……先生も、お元気そうで」
悠真は喉の渇きを覚えながら、少し緊張を含んだ声で答えた。店員が注文を取りに来て、二人はコーヒーと季節のケーキを頼んだ。他愛のない世間話が続くかと思いきや、雫はすぐに姿勢を正し、教師の顔つきに戻って本題に入った。その切り替えの早さに、悠真は背筋が伸びる思いがした。
「それで? 大学生活はどう? 勉強は順調?」
彼女の瞳が鋭い光を帯びる。それは甘えを許さない、愛するがゆえの厳しい「監査官」の目だった。悠真は待っていましたとばかりに、鞄から一冊の厚手の大学ノートを取り出した。あの日から毎日、一日も欠かさず書き続けている、「業務日報」と名付けた学習記録ノートだ。表紙はすでに手垢で薄汚れ、使い込まれた痕跡がある。彼はそれを開き、無言で雫の前に差し出した。そこには、毎日の学習時間、読んだ専門書の要約、講義の内容に対する自分なりの考察が、余白がないほどびっしりと、細かい文字で書き込まれている。感情的な言葉や弱音は一切排除され、ただひたすらに事実と結果だけが羅列されたその紙面は、彼の執念の結晶であり、彼女への忠誠の証だった。
「……これを見てください」
雫はノートを手に取り、ページをめくり始めた。最初は確認作業のように淡々と目を通していた彼女の目が、次第に驚きで見開かれていくのがわかった。ページをめくる手が止まり、彼女の視線が一箇所に釘付けになる。
「……これ、全部やったの? まだ一ヶ月しか経ってないのに」
「はい。嘘偽りなく、すべて事実です」
悠真は胸を張って答えた。その言葉には、一点の曇りもない自信が込められていた。
「教育学概論、発達心理学、日本国憲法……。一年生の必修科目はもちろんですが、シラバスを見て興味を持った教職課程の予習も独自に進めています。特に、この教育社会学のレポートに関しては、担当教授に呼び出されて褒められました」
悠真は、大学で学んだばかりの専門知識を熱っぽく語り始めた。学校教育における格差の再生産構造、カリキュラム・マネジメントの重要性、そして生徒指導における新たな潮流。それは単なる教科書の受け売りではない。彼が自分の頭で考え、咀嚼し、雫という「現場の教師」と対等に話すために磨き上げた、彼なりの教育論だった。雫は最初、教え子の急激な成長に驚いている様子だったが、次第にその表情が真剣な教育者のものへと変わっていった。彼女もまた、悠真の意見に対して自身の経験に基づいた反論や同意を返し、会話は表面的な報告を超えた深い議論へと発展していく。
「……なるほど。確かに、ブルデューの文化資本論を現代の教室環境に当てはめるその視点は面白いわね。でも、現場では理論通りにいかないことも多いのよ。生徒たちの背景はもっと複雑で、数値化できない感情が絡み合っているから」
「わかってます。だからこそ、理論をどう実践に落とし込むかが重要なんだと思います。……例えば、先生が以前言っていた『生きる力』の育成についてですが、僕はそれを単なるスローガンではなく、具体的なスキルセットとして定義し直すべきだと考えていて……」
二人の会話は熱を帯び、周囲の客たちの話し声もBGMも、今の二人には聞こえていなかった。そこにあるのは、教師と元教え子という関係を超えた、同じ志を持つ「同業者」としての知的な共鳴だった。悠真は感じていた。今、自分は彼女と対等に話せている。彼女が見ている景色を、少しだけ共有できている。その高揚感がたまらなく心地よく、脳髄が痺れるような知的快楽をもたらしていた。一通り議論が落ち着いた頃、雫がふと息をつき、冷めかけたコーヒーを一口啜った。
「……参ったわ。あなた、本当に勉強してるのね」
彼女は感心したように、しみじみと言った。その瞳には、悠真に対する明確なリスペクトが宿っていた。それは教師が生徒に向けるものではなく、一人の人間が努力する別の人間へ向ける敬意だった。
「正直、もっと浮ついてるかと思ってた。大学デビューして、サークルに入って、遊んでるんじゃないかって心配してたの」
「遊ぶ暇なんてありませんよ。……僕には、四年しか時間がないんですから」
悠真は真っ直ぐに彼女を見つめ返した。その視線に、雫は少し気圧されたように瞬きをした。
「先生に追いつくためには、これくらい当たり前です。僕が見ているのは、大学の成績じゃなくて、その先にある先生の背中ですから」
雫は少し顔を赤らめ、視線を逸らした。その仕草に、年上の女性としての余裕ではなく、少女のような恥じらいが見えた気がして、悠真の胸が熱くなる。
「……買いかぶりすぎよ。私なんて、ただの迷える一教師なんだから」
「いいえ。……先生は、僕の目標です。道標です」
悠真はテーブルの上に置かれた彼女の手に、そっと自分の手を重ねた。今回は、拒絶されなかった。彼女の指先が微かに震えているのが伝わってくる。その震えが、彼女もまた感情を揺さぶられている証拠だと知り、悠真はさらに一歩踏み込む勇気を得た。今こそ、あの棘を抜く時だ。
「……先生。一つだけ、聞いてもいいですか」
悠真は、ずっと胸につかえていた疑問を口にした。
「あの写真のことです」
「写真?」
「SNSに上げていた……レストランの写真です。誰と行ったんですか」
嫉妬心を隠そうと努めたが、声が少し硬くなってしまった。その問いに、雫は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに状況を理解したのか「ああ」と苦笑した。その反応は、悠真が恐れていたような動揺や隠し立てをするものではなかった。
「あれね。……学生時代に働いていた学習塾の同窓会だったの。私、女子大だったけど、塾のバイト先には色んな大学の人がいて、みんなで切磋琢磨してたから。久しぶりに当時の仲間で集まったのよ」
学習塾の同窓会。その言葉を聞いた瞬間、すべての辻褄が合った。女子大に通っていた彼女が、他大学の男性と接点を持ち、かつ「懐かしい話」ができる関係性。それは恋愛感情ではなく、共に教職を目指した「戦友」としての絆だったのだ。
「男もいたんですか」
「ええ、いたわよ。当時のバイト仲間だからね。……でも、みんな今はそれぞれの学校で教師やってて、既婚者か彼女持ちばっかり。私みたいな行き遅れは、肩身が狭かったわ」
彼女は自嘲気味に笑った。その言葉に、悠真の胸のつかえが嘘のようにすっと消えていく。嘘をついているようには見えない。彼女の表情は明るく、隠し事をしている陰りはない。彼女はまだ、誰のものでもない。安堵と同時に、勝手に悪い想像を膨らませていた自分の早とちりが恥ずかしくなり、悠真は小さく頭を下げた。
「……そうでしたか。すみません、勝手に勘違いして」
「ふふ、妬いた?」
雫が悪戯っぽく顔を覗き込んでくる。その余裕のある態度が少し悔しいが、それ以上に彼女の無邪気な笑顔が愛おしい。
「……妬きましたよ。死ぬほど。あの袖口の男が誰なのか、毎晩夢に見るくらい」
悠真が素直に認めると、雫は嬉しそうに目を細めた。自分のために嫉妬してくれることが、彼女にとっては愛されている証として心地よいのかもしれない。
「可愛いところあるじゃない。……でも、安心して。私はまだ、誰とも契約してないから」
契約。その言葉が、二人の間の約束を再確認させる。まだ、ということは、これから契約する可能性があるということだ。だが、その相手は自分しかいない。悠真は彼女の手を強く握りしめた。
「……僕が、契約します。四年後に」
雫は何も言わず、ただじっと悠真を見つめていた。
「それまで、誰にも渡しません。指一本、触れさせません」
雫は顔を赤くし、小さく頷いた。その瞳が潤んでいるように見えたのは、西日のせいだけではないだろう。
「……わかったわ。待ってる」
カフェを出ると、外はもう夕暮れ時だった。駅までの道、二人は少し離れて歩いた。手は繋いでいない。周囲から見れば、ただの姉と弟、あるいは先輩と後輩にしか見えないだろう。だが、その心は以前よりも強く、太い絆で結びついていた。知的な共鳴と、独占欲の充足。この日の報告会は、悠真にとって大きな自信となった。自分は間違っていない。この道を進めば、必ず彼女に届く。改札の前で、雫が振り返った。
「……次は、夏休みね」
「はい。……もっと成長した姿を見せます。先生が腰を抜かすくらい」
「楽しみにしてる。……じゃあね、悠真くん」
彼女は小さく手を振り、雑踏の中へと消えていった。悠真はその背中を見送りながら、ポケットの中のスマートフォンを握りしめた。もう、SNSの虚像に惑わされることはない。自分が見るべきなのは、画面の中の切り取られた一瞬ではなく、目の前にいる生身の彼女なのだから。彼は力強く踵を返し、アパートへの帰路についた。足取りは軽く、心は晴れやかだった。次の戦いに向けて、彼の闘志は静かに、しかし今まで以上に熱く燃え上がっていた。
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