第21話 SNSの虚像


 五月の連休が過ぎ、大学のキャンパスには初夏の日差しが降り注いでいたが、瀬尾悠真の心の中には、いつ果てるとも知れない梅雨のような湿った重苦しさが居座り続けていた。入学から一ヶ月。彼は自らに課した規律を崩すことなく、修行僧のような日々を送っていた。講義が終われば図書館へ直行し、閉館時間まで粘った後は、逃げるようにアパートへ帰り、また机に向かう。友人からの遊びの誘いは全て断り、サークルの新歓コンパの喧騒も遠い世界の出来事として切り捨ててきた。そうすることでしか、物理的な距離と会えない時間の空白を埋めることができなかったからだ。しかし、どれほど強固な理性の壁を築こうとも、ほんの小さな亀裂から不安は侵入してくる。その亀裂となったのは、皮肉にも彼が唯一外界と繋がれるツール、スマートフォンだった。


 ある蒸し暑い夜のことだった。悠真はアパートの窓を開け放ち、微風を頼りに日本文学史のレポートを仕上げていた。ふと集中力が途切れ、気晴らしに水を飲もうと立ち上がった際、机の隅で充電されていたスマートフォンの画面が点灯していることに気づいた。本来なら勉強中は電源を切るか、通知をオフにしているはずだったが、その日は魔が差したように画面を覗き込んでしまった。ロック画面に表示されていたのは、インスタグラムの通知だった。『Shizuku_Sさんが新しい写真を投稿しました』。その文字列を見た瞬間、悠真の心臓が早鐘を打ち始めた。新海雫は滅多にSNSを更新しない。更新するとしても、せいぜい読んだ本の表紙や、季節の花の写真を当たり障りのないコメントと共に載せる程度だ。だが、胸騒ぎがした。悠真は震える指でロックを解除し、アプリを開いた。


 画面に表示されたのは、一枚の料理の写真だった。薄暗い照明に照らされた、艶やかなソースのかかった鴨のロースト。その横には、琥珀色の液体を湛えたワイングラスが置かれている。場所は明らかに高級なレストランだ。学生である悠真が逆立ちしても入れないような、大人の空間。だが、悠真の視線を釘付けにしたのは料理ではなかった。写真の隅、テーブルの対面に写り込んでいる「異物」だった。それは、男性のものと思われるダークネイビーのスーツの袖口と、その手首に巻かれた重厚なシルバーの腕時計だった。撮影者が意図して入れたのか、それとも無意識の構図なのかは分からない。しかし、その「袖口」は、そこに確かに大人の男性が存在しているという事実を、暴力的なまでに雄弁に物語っていた。添えられたコメントは短かった。『久しぶりの再会。懐かしい話と美味しいワインに、時が経つのを忘れました』。


 悠真の脳内で、何かが音を立てて崩れ落ちた。誰だ。男と二人きりなのか。久しぶりの再会とはどういう関係なのか。大学時代の同級生か、それとも以前話していた「条件の良い縁談相手」か。悪い想像が黒い煙のように立ち昇り、思考回路を埋め尽くしていく。彼はスマートフォンを握りしめたまま、ベッドに倒れ込んだ。画面の中の雫の生活は、あまりにも優雅で、大人で、そして悠真の手の届かない場所にあるように見えた。自分はこのカビ臭い六畳一間で、百円のカップラーメンを啜りながら教員採用試験の過去問と格闘しているというのに、彼女は洗練された空間で、自分よりも遥かに社会的地位の高い男とグラスを傾けている。その圧倒的な格差。埋めようのない「現在地」の違い。嫉妬という感情だけでは説明がつかない、惨めさと無力感が彼を打ちのめした。


 勉強など手につくはずもなかった。文字を目で追っても、脳裏には雫がその「袖口の男」に向かって微笑みかけている映像がフラッシュバックし、吐き気すら催す。このまま一人で部屋にいたら発狂してしまうかもしれない。悠真は衝動的に連絡先リストをスクロールし、親友の斎藤陽太の名前をタップした。数回のコールの後、陽太の少し驚いたような声が聞こえた。


「……もしもし? 悠真か? お前から電話なんて珍しいな」


 悠真は乾いた喉を鳴らし、掠れた声で言った。


「陽太、今から会えないか。……頼む、少しだけでいいんだ」


 陽太は悠真の尋常ではない様子を察したのか、茶化すこともなく「わかった。いつもの安居酒屋でいいか? すぐ行く」と即答してくれた。


 大学近くの赤提灯が揺れる大衆居酒屋は、金曜の夜ということもあり、学生たちの馬鹿騒ぎで満ちていた。だが、一番奥のテーブル席だけは、葬式のような重苦しい空気が漂っていた。悠真はジョッキのビールを一気に煽り、空になったグラスをテーブルに叩きつけた。アルコールが空っぽの胃に染み渡り、灼けるような熱さをもたらすが、胸のつかえは取れない。


「で、何があったんだよ。お前が勉強放り出して呼び出すなんて、よっぽどのことだろ」


 枝豆をつまみながら心配そうに尋ねる陽太に、悠真は無言でスマートフォンの画面を突きつけた。例の投稿画面だ。陽太は画面を覗き込み、眉をひそめた。


「新海先生の……インスタ? おしゃれな店だな。……で、これがどうした?」


「ここだ」


 悠真は画面を拡大し、隅に写り込んだスーツの袖口を指差した。


「男だ。男と二人で飯食ってる」


「……はあ? お前、それだけで呼び出したのかよ。ただの同僚とか、友達かもしれないだろ」


「雰囲気でわかる。これはデートだ。……コメントを見ろ。『懐かしい話』だぞ。昔の男か、それとも親が勧めてきた見合い相手か……とにかく、特別な相手なのは間違いない」


 悠真は吐き捨てるように言い、二杯目のハイボールを注文した。彼の目には血走った色が浮かんでいる。


「俺は……俺はここで必死に勉強してるのに。先生は、俺の知らないところで、あんな余裕のある大人と……」


 言葉にするほど、自分が惨めな子供に思えてくる。経済力も、社会的地位も、包容力も、今の自分には何もない。あるのは若さと時間、そして根拠のない自信だけだ。だが、その自信さえも、あの一枚の写真の前では脆くも崩れ去りそうだった。


「焦りすぎだよ、悠真」


 陽太は呆れたように、しかし諭すような口調で言った。


「四年間待つって約束なんだろ? その間、先生だって飯くらい食いに行くだろ。男と会うことくらいあるさ。二十四歳の美人なんだから」


「……わかってる。頭ではわかってるんだ」


 悠真は両手で顔を覆った。


「でも、怖いんだよ。四年間だぞ? その間に、あんな完璧な大人の男が現れて、先生の心が揺らいだらどうする? 『やっぱり学生のおままごとには付き合えない』って捨てられたら、俺はどうすればいいんだ」


 それは、悠真が抱え続けてきた根源的な恐怖だった。愛だけでは飯は食えない。情熱だけでは生活は守れない。雫が言っていた「現実」という壁が、見知らぬ男の姿を借りて立ちはだかっているのだ。陽太はしばらく沈黙した後、静かに言った。


「……信じるしかねえだろ」


 その言葉はシンプルだったが、重みがあった。


「お前が信じなくてどうするんだよ。新海先生は、お前を選んだんだろ? あんな条件出してまで、お前を試してるんだろ? どうでもいい相手なら、最初から相手にしないさ。……その袖口の男が誰かは知らねえけど、そいつにはなくて、お前にだけあるものがあるはずだ」


 陽太は悠真の肩を強く叩いた。


「お前のその、狂ったみたいな執念だよ。今の時代、そこまで一人の女に入れ込める男なんていねえよ。……自信持てよ、バカ」


 友人の不器用な励ましが、冷え切った悠真の心に微かな熱を灯した。そうだ。自分には執念がある。彼女の人生を背負うという覚悟がある。あの袖口の男がどんなにスマートで金持ちでも、新海雫という人間に抱く渇望の深さにおいて、自分は絶対に負けていないはずだ。悠真は顔を上げ、深呼吸をした。アルコールのせいか、それとも本音を吐き出したせいか、視界にかかっていた霧が少し晴れた気がした。


「……ありがとな、陽太。少し、目が覚めた」


 悠真はふらつく足取りで立ち上がり、会計を済ませた。店を出ると、夜風が火照った頬に心地よかった。見上げれば、満月が街を明るく照らしている。彼女も今、この月を見ているだろうか。もし、彼女が今夜、他の男に心を動かされそうになっていたとしても。それでも、自分は彼女を信じて、約束の場所まで走り続けるしかない。それが、「責任」を持つということなのだ。


 悠真はアパートへの帰り道、スマートフォンを取り出して再び雫のSNSを開いた。そして、震える指で「いいね」ボタンを押した。それは、単なるリアクションではない。「見ているぞ」という彼なりの牽制であり、「俺はここにいる」という存在証明であり、そして「どんな君でも受け入れる」という歪んだ包容力の表れでもあった。自分は逃げない。遠く離れていても、君を見守っている。だから、忘れないでくれ。悠真はポケットにスマートフォンをしまい、アパートの錆びついた鉄階段を一段飛ばしで駆け上がった。部屋に入ると、静寂と暗闇が出迎えてくれた。だが、以前のような絶望的な冷たさは感じなかった。机のライトをつけ、参考書を開く。文字が、意味を持って頭に入ってくる。悠真はペンを握りしめ、問題に取り組み始めた。不安は消えない。嫉妬もなくならない。だが、それらを飼い慣らし、自分を研磨するための砥石に変えていく覚悟が決まった。SNSの虚像に惑わされるな。真実は、四年後の未来にしかない。悠真は一心不乱にペンを走らせた。その背中は孤独だが、鬼気迫るほどの凄みと、確かな強さを帯び始めていた。

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