第20話 孤独な忠誠
あの夜、スマートフォンの画面越しに見た新海雫の笑顔と、見知らぬ男の影。その残像は、瀬尾悠真の脳裏に焼き付いて離れない呪いとなっていた。嫉妬という名の毒は、放置すれば心を腐らせ、足を止めてしまう劇薬だ。だからこそ悠真は、その毒を自らの意志で燃料へと変える道を選んだ。考えまいとすればするほど思考は彼女へと向かう。ならば、考える隙間すらなくなるほどに、脳を別の情報で埋め尽くしてしまえばいい。翌朝、充血した目で目覚めた悠真は、まるで何かに憑かれたかのように机に向かい、教職課程のシラバスと専門書の山を睨みつけた。彼の中で、大学生活はもはやキャンパスライフを楽しむ場ではなく、彼女の隣に立つ資格を得るための「修行の場」へと完全に変貌していた。
五月に入り、キャンパスは新緑の輝きと学生たちの活気に満ち溢れていたが、悠真の世界には灰色と白黒の文字しかなかった。大講義室の最前列、教卓の目の前が彼の定位置だ。周囲の学生たちがサークルの話題や週末の予定で盛り上がる中、彼は一人、教授の一言一句を漏らさぬようノートにペンを走らせている。その背中は周囲を拒絶する鋭いオーラを纏っており、誰も彼に話しかけようとはしなかった。昼休みになれば、学食の喧騒を避けて図書館の最奥にある自習スペースへと逃げ込む。コンビニで買ったおにぎりを機械的に胃に流し込みながら、片手では英単語帳をめくり続ける。味などしない。空腹を満たすことさえ、今の彼にとっては時間の浪費でしかなかった。彼の視界にあるのは、目の前の活字と、その向こうに見える「四年後」というゴールだけだ。難解な教育心理学の理論も、膨大な国文学の歴史も、すべては雫という難問を解くための公式に過ぎない。知識を詰め込めば詰め込むほど、彼女との距離が縮まるような錯覚。それは精神的な自傷行為に近い逃避だったが、今の悠真にはそれだけが唯一、正気を保つための手段だった。
大学図書館の閉館を告げる『蛍の光』が流れるまで、悠真は席を立たなかった。重い鞄を肩にかけ、夜のキャンパスを歩く。身体は鉛のように重く、脳は情報の過積載で熱を帯びている。だが、この疲労感こそが彼にとっての救いだった。疲れ果てていれば、余計なことを考えずに済む。アパートに帰り着き、冷たいシャワーを浴びて汗を流すと、彼は再び机に向かった。一日の終わりに行う儀式、雫への「業務日報」を作成するためだ。スマートフォンのメール画面を開き、その日の学習内容と成果を淡々と打ち込んでいく。『本日の学習時間、十四時間。教育原理のレポート完成。漢検準一級の過去問、正答率九割』。そこに「会いたい」や「寂しい」といった感情的な言葉は一切記述しない。それは彼女との約束であり、彼自身のプライドでもあった。感情を排し、結果だけを報告する。それはまるで、部下が上司に提出する報告書のようであり、あるいは信徒が神に捧げる祈りの言葉のようでもあった。
送信ボタンを押すと、すぐに既読がついたわけではないのに、胸の奥が僅かに温かくなるのを感じた。彼女はきっと、このメールを見てくれる。遠く離れた場所で、教師としての厳しい目で、あるいは恋人を待つ女の目で、自分の努力を確認してくれるはずだ。その想像だけが、悠真の乾いた心に潤いを与える。ふと、机の上の専門書に視線を落とすと、そこには「教師の役割とは、生徒の自立を促すことである」という一文があった。自立。彼女が求めた条件。悠真は自嘲気味に笑った。今の自分は果たして自立していると言えるのだろうか。彼女の影を追いかけ、彼女のために生き、彼女の評価だけを糧にしている。これは自立ではなく、形を変えた「依存」ではないのか。だが、それでも構わないと彼は思う。依存だろうが執着だろうが、この情熱が彼女へと続く道を切り開くエネルギーになるのなら、それは正義だ。
机の硬い感触が、頬に伝わってくる。いつの間にか突っ伏していたようだ。意識が泥のように沈んでいく中で、悠真は夢を見た。それは高校の理科室の夢だった。夕暮れの光の中、白衣を着た雫が微笑んでいる。彼女の手にはチョークではなく、真っ赤な採点ペンが握られていた。彼女は悠真の提出したノートに、大きな花丸を描いてくれる。よくできました、という彼女の声が聞こえる。その声に包まれている間だけは、孤独も、嫉妬も、将来への不安もすべて消え去り、ただ甘やかな安らぎだけがあった。だが、目が覚めればそこは冷たい六畳一間のアパートだ。現実が容赦なく彼を引き戻す。悠真は頭を振り、眠気を追い払うように頬を叩いた。まだだ。まだ足りない。あの男に勝つためには、彼女の理性をねじ伏せるためには、もっと圧倒的な「結果」が必要だ。
悠真は再びペンを握りしめた。指にはペンだこができ、皮膚が硬化し始めている。それは戦士の勲章のようなものだ。彼は教科書のページをめくり、新しい知識の森へと足を踏み入れた。窓の外では夜明け前の空が白み始めている。孤独な夜は明けるが、彼の戦いに終わりはない。雫への忠誠心は、孤独という闇の中でこそ、より純度を増して輝く結晶となっていた。この苦しみが深ければ深いほど、四年後の再会は甘美なものになる。そう信じて、彼は自らに課した試練の道を、たった一人で走り続けた。誰にも理解されない、狂気じみた愛の証明。その鬼気迫る背中を、朝の光が静かに照らし出していた。
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