第19話 下宿先での孤独な夜
四月、新しい季節の始まりと共に、東陽国立大学の入学式を終えた瀬尾悠真は、真新しいスーツに身を包んだまま一人暮らしを始めたばかりのアパートへと戻ってきた。「メゾン・ド・ソレイユ」という立派な名前とは裏腹に、築三十年を超えるその木造アパートは塗装の剥げかけた外壁と歩くたびに軋む鉄階段が特徴的な古びた建物だ。鍵を開けて重いドアを押し開けると、出迎えてくれたのは静寂と独特の埃っぽい匂いだけだった。
「……ただいま」
誰もいない部屋に向かって呟いた声は、家具の少ない空間に虚しく吸い込まれていく。革靴を脱ぎ、冷たいフローリングに足を下ろして部屋を見渡した。六畳一間の空間には、実家から運んできたベッドと机、本棚、そして小さな冷蔵庫といった必要最低限の家具しか置かれていない。実家での生活とは比べ物にならないほど不便で、そして圧倒的に孤独な空間だ。悠真はジャケットを脱いでハンガーに掛け、窓を開けた。春の風が吹き込むと同時に、遠くから新入生たちの歓迎コンパと思われる喧騒が微かに聞こえてくる。大学生活の華やかなスタート。だが、悠真にとってそれは別世界の出来事のようにしか感じられなかった。彼には浮かれている暇などない。今日から四年間、この部屋で自分自身と向き合い、彼女との契約を果たすための結果を出し続けなければならないのだから。
机の前に座り、スマートフォンを取り出して画面を点灯させる。連絡先リストの最上位には、新海雫の名前が表示されている。『無事、入学式終わりました』というメッセージを打ち込み、送信ボタンを押そうとして指が止まった。最後に会ったあの日、彼女は『勉強の邪魔になるから、連絡はほどほどにね』と言っていた。それは彼女なりの優しさであり、同時に「甘えを許さない」という厳しい線引きでもあった。ここで連絡をしてしまえば、声を聞きたくなる。声を聞けば、会いたくなる。そうなれば、この孤独に耐えきれなくなるかもしれない。悠真は迷った末にスマートフォンを机に伏せ、深く息を吸い込んだ。代わりに鞄から取り出したのは、教員採用試験の過去問題集だ。まだ一年生には早すぎるかもしれないが、今の悠真にとってはこれこそが唯一の精神安定剤だった。問題を解き、知識を脳に詰め込むことで、物理的には離れてしまった雫との距離を精神的に縮めているという実感を得る。それだけが、今の彼を支える唯一の手段だった。
夜が更け、周囲の喧騒も静まり返った頃、不意にスマートフォンの通知音が鳴った。雫からのメッセージではないかと淡い期待を抱いて慌てて画面を確認したが、それは高校時代のクラスメイトがSNSに投稿した通知だった。大学の飲み会の写真だろうか、楽しそうな笑顔と華やかな料理、そして隣に座る異性との親密そうな距離感が写し出されている。悠真は無意識に画面をスクロールし、タイムラインを流し見していたが、ある投稿で指が止まった。それは、滅多に更新されない雫のアカウントだった。最新の投稿は、一枚の写真。おしゃれなレストランのテーブルの上、料理の向かい側には、男性のものと思われる高級そうなスーツの袖口と、ワイングラスを持つ手が写り込んでいた。コメントには、『久しぶりの再会。懐かしい話に花が咲きました』とある。
悠真の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。誰だ? 男と食事に行っているのか? 久しぶりの再会とは、どういう関係なのか。元カレか、それとも以前話していた縁談相手か。悪い想像が次々と脳裏に浮かび、嫉妬の炎が孤独な心に油を注ぐように燃え上がった。悠真はスマートフォンを握りしめ、画面の中の「虚像」を睨みつけた。自分はこの部屋で一人、禁欲的な生活を送りながら彼女を想っているのに、彼女は外の世界で、他の男と楽しそうに過ごしている。その情報の非対称性と不公平さに、理性が軋む音を聞いた。電話をかけたい。「今、誰といるんですか」と問い詰めたい。だが、それはできない。そんなことをすれば、彼女は失望するだろう。「子供ね」と呆れられ、築き上げてきた信頼が崩れるのがオチだ。
悠真は歯を食いしばり、スマートフォンをベッドに放り投げた。ドサッという鈍い音が静寂を破る。彼は立ち上がり、狭いキッチンで水を飲んだ。冷たい水が食道を通り抜けていくが、胸の灼熱感は消えない。これが、遠距離の現実か。物理的な距離だけでなく、見えない部分が生む疑心暗鬼。信じると誓ったはずなのに、たった一枚の写真で揺らいでしまう自分の弱さが憎かった。悠真は机に戻り、再び参考書に向かった。文字を目で追うが、内容は頭に入ってこない。代わりに、雫の笑顔が他の男に向けられている光景がフラッシュバックし、焦燥感を煽る。
「……クソッ」
彼は呻くように呟き、シャーペンをノートに叩きつけた。芯が折れ、鋭い破片が飛び散る。孤独だ。今まで感じたことのないほど、深く、暗い孤独。だが、逃げる場所はない。悠真は折れた芯を指で払い除け、新しい芯を出した。やるしかない。この嫉妬も、不安も、すべてエネルギーに変えて。彼女が他の男を選ぼうとした時、それを力尽くで奪い返せるだけの実力をつけるしかないのだ。悠真はノートに、今日の日付と「一日目」という文字を深く刻み込んだ。そして、その下に小さく書き加えた。『絶対に、負けない』。誰に負けないのか。見知らぬライバルにか、それとも自分自身の弱さにか。答えは出ないまま、悠真は夜の静寂の中で、ひたすらにペンを走らせ続けた。窓の外では春の月が冷ややかに彼を見下ろしており、その光は彼が選んだ修羅の道を静かに照らし出していた。
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