第18話 プラトニックな別れのキス


 三月中旬の職員室は、年度末の事務処理に追われる慌ただしさと、別れの季節特有の感傷が入り混じった独特の空気に包まれていた。放課後のチャイムが鳴り終わり、生徒たちの喧騒も遠のいてまばらになった頃、新海雫は片付けを終えた自分のデスクの前で深く息を吐いた。明日から春休みに入る。それは教師としての一年が終わる区切りであると同時に、瀬尾悠真という特別な存在がこの校舎から完全にいなくなり、物理的な接点を失うことを意味していた。卒業式のあの日、彼と交わした約束。四年間という空白。その重みが、夕暮れの静寂と共に改めて雫の肩にのしかかる。ふと気配を感じて顔を上げると、職員室の入り口に私服姿の悠真が立っていた。制服を脱ぎ捨て、少しラフなジャケットを羽織った彼は、数日見ない間にどこか大人びて見えた。周囲の教師たちが「お、瀬尾か。元気でな」「大学でも頑張れよ」と声をかける中、彼は礼儀正しく会釈を返し、迷いのない足取りで真っ直ぐに雫のもとへと歩いてきた。


「……先生」


 悠真が声をかける。その声は、今まで聞いたどの声よりも優しく、そして切なかった。雫は立ち上がり、デスクを挟んで彼と対峙した。周囲の視線があることは分かっていたが、もう気にならなかった。今日で最後なのだから、教師の仮面を完璧に被り続ける必要はない。


「……来たのね」


「挨拶に来ました。……明日、発ちます」


 悠真は短く告げた。明日、彼は一人暮らしをする大学近くのアパートへと向かう。電車で数時間の距離だが、それは心理的には途方もなく遠い物理的な断絶となる。


「そう……。気をつけてね。向こうに着いたら、ちゃんと連絡するのよ。……あ、でも、勉強の邪魔になるから、ほどほどにね」


 沈黙を恐れるように、わざと明るく振る舞おうとする雫の言葉を、悠真は静かに遮った。


「先生。……少し、外に出ませんか」


 それは、最後の「おねだり」だった。この場所では言えないこと、できないことがある。雫は少し迷ったが、彼の瞳にある真剣な光を見て小さく頷いた。


「……ええ。いいわよ」


 二人は職員室を出て、誰もいない渡り廊下を歩いた。夕暮れの校舎に、長く伸びる二つの影が並んで落ちている。たどり着いたのは、人気のない中庭のベンチだった。二人は並んで腰を下ろしたが、肩が触れ合うほどの距離ではない。その微妙な隙間が、これからの四年間を暗示しているようで切なかった。沈黙が流れる。だがそれは重苦しいものではなく、互いの存在を噛みしめ、愛おしむような穏やかな沈黙だった。


「……四年間、ですね」


 悠真がポツリと言葉を落とした。


「ええ。……長いわね」


「長いです。……でも、あっという間かもしれません。僕には、やることが山積みですから。……先生を迎えに行く準備で、休んでる暇なんてない」


 悠真は空を見上げて言った。その横顔は頼もしく、そして美しかった。少年の面影を残しながらも、男としての覚悟を宿した顔。雫は胸が締め付けられるような思いだった。この少年を、私は待つことができるだろうか。社会の波に揉まれ、大人の事情に翻弄されながら、この純粋な愛を守り抜くことができるだろうか。不安が黒い霧のように心に広がりかけたその時、悠真の手が雫の手に重ねられた。温かい。その熱が、冷え切った雫の不安を溶かしていく。


「先生」


 悠真が雫の方を向いた。その瞳は夕陽を映して燃えるように輝いている。


「……信じてください。僕を、そして自分を。僕たちは、離れていても繋がってます。……この指輪がある限り」


 悠真の視線が、雫の胸元に向けられた。ブラウスの下、チェーンに通された銀色の指輪が微かに膨らんでいる。卒業式の日に彼から渡された、あの安物のファッションリングだ。雫はそれを肌身離さず身につけていた。それは単なるアクセサリーではなく、彼との契約の証であり、心の拠り所だった。


「……うん。わかってる。信じるわ。……あなたのこと、誰よりも」


 雫は涙を堪え、頷いた。彼女は悠真の手を強く握り返した。二人の想いが指先を通じて交錯する。言葉などいらなかった。ただ互いの温もりを感じるだけで、魂が震えるほどの幸福感と、引き裂かれるような喪失感が同時に押し寄せてくる。この手を離せば、次はいつ触れられるかわからない。その恐怖と戦いながら、二人は刻々と過ぎていく時間を惜しんだ。


「……そろそろ、行きます」


 悠真が立ち上がった。別れの時が来たのだ。雫も立ち上がり、彼を見上げた。夕陽が彼の背後で燃えており、逆光の中で彼の表情が優しく影っている。


「悠真くん」


 彼女は一歩近づいた。


「……あなたの成長を、祈ってる」


 それは教師としての最後の言葉であり、愛する男への精一杯の祈りだった。悠真は微笑んだ。その笑顔は、自信に満ち溢れていた。


「行ってきます。……雫さん」


 彼はゆっくりと顔を近づけた。雫は目を閉じた。唇に、柔らかな感触が触れる。それは情熱的なディープキスではなかった。触れるか触れないかくらいの、淡く、優しいキス。理性と理性がぶつかり合い、ギリギリのところで踏みとどまった、プラトニックな愛の結晶。だが、その一瞬の接触がもたらした熱量は、どんな激しい行為よりも深く、雫の心と唇に刻み込まれた。電流のような痺れが走り、膝が崩れそうになるのを必死に堪える。


 悠真が離れる。名残惜しそうに、でも決然と。


「……また、四年後に」


 彼はそう言い残し、背を向けた。歩き出す背中。その姿が、夕闇の中へと溶けていく。雫はその場に立ち尽くし、彼が見えなくなるまで見送った。涙が頬を伝い落ちる。だが、それは悲しみの涙ではなかった。希望と、そして覚悟の涙だった。風が吹き抜け、校庭の桜の蕾を揺らした。春が来る。そして、二人にとっての冬の時代が始まる。だが、雫の心には確かな火が灯っていた。彼が残してくれた唇の熱。それを道標に、彼女もまた歩き出さなければならない。誰もいない校庭に、下校を告げるチャイムの音が響き渡った。それは一つの物語の終わりであり、新たな物語の始まりを告げる鐘の音だった。

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