第17話 卒業式の視線と指輪


 三月一日の翠洋高校体育館は、厳粛な空気と春の微かな予感に包まれていた。卒業式。それは瀬尾悠真にとって高校生活の終わりであると同時に、新海雫との「教師と生徒」という関係の終焉を意味する儀式だった。壇上では校長が式辞を述べているが、悠真の耳には届いていない。彼の視線は、教師席の最前列に座る雫の背中に釘付けになっていた。今日の彼女は黒のフォーマルスーツに身を包み、髪は綺麗にアップにされ、いつもより少し濃いめのメイクが施されている。その凛とした佇まいは美しく、同時にどこか遠い存在のように感じられた。彼女は微動だにせず前を見据えているが、悠真にはわかっていた。彼女の意識の一部が、背後にいる自分に向けられていることを。時折、彼女の肩が小さく動くのは、悠真の視線を感じ取った反応なのかもしれない。


 式が進み、卒業生退場の時間となった。吹奏楽部が演奏する『仰げば尊し』のメロディに乗せて、クラスごとに退場していく。悠真のクラスの番が来た。彼は立ち上がり、一歩一歩、花道を歩き出した。周囲には涙を流す女子生徒や、ふざけ合う男子生徒たちの姿があるが、悠真の世界にはただ一人、出口付近で見送る雫の姿しか映っていなかった。彼女は生徒一人ひとりに声をかけ、送り出している。悠真の番が近づくにつれ、心臓が早鐘を打つ。これが、学校という公的な場で彼女と交わす、最後の接触だ。悠真は彼女の前で足を止めた。雫が顔を上げ、その瞳が潤んでいるのが見えた。


「……卒業、おめでとう」


 彼女は唇を震わせながら、精一杯の笑顔を作った。


「ありがとうございます」


 悠真は短く答えた。言葉はいらなかった。二人の視線が絡み合い、膨大な感情の情報のやり取りが行われる。感謝、愛おしさ、そして四年後の再会への固い約束。悠真は胸ポケットからある物を取り出した。昨夜、徹夜で仕上げた「未来計画ノート」だ。そして、そのノートの表紙には、銀色の指輪がテープで貼り付けられていた。それは高価なものではない、雑貨屋で買った安物のファッションリングだ。だが悠真にとっては、魂を削って手に入れた婚約指輪以上の価値があるものだった。彼は周囲の目も憚らず、そのノートを雫に手渡した。


「……これ、宿題です。四年後に、採点してください」


 雫は目を見開いた。指輪の存在に気づき、息を呑む。教師が生徒から指輪を受け取るなど、あってはならないことだ。だが、彼女は拒絶しなかった。震える手でノートを受け取り、胸に抱きしめた。


「……預かるわ。大切に」


 彼女の声は涙で濡れていた。悠真は満足げに微笑み、再び歩き出した。背後ですすり泣くような声が聞こえた気がしたが、彼は振り返らなかった。振り返れば決意が揺らぐ。今はただ、前へ進むしかない。体育館を出ると、春の陽射しが眩しく降り注いでいた。桜の蕾が膨らみ始めている。これから始まる四年間、それは長く過酷な冬の時代になるかもしれない。だが、悠真の胸には確かな温もりが残っていた。彼女が受け取ってくれた指輪とノートの重み。それが、彼を支える道標となるはずだ。


 卒業式後のホームルームも終わり、生徒たちが三々五々と帰路につき始めた頃、悠真は一人、誰もいない教室に残っていた。黒板にはチョークで書かれた寄せ書きやイラストが残され、祭りの後のような寂寥感が漂っている。だが悠真が待っていたのは、感傷に浸る時間ではなかった。ガラリと教室のドアが開き、入ってきたのは雫だった。彼女は喪服のような黒いスーツを脱ぎ、普段の白衣姿に戻っていた。だがその表情は教師のものではなく、一人の女性としての素の表情だった。


「……待たせたわね」


「いえ。……来ると信じてました」


 悠真は机に腰掛けたまま答えた。雫は教壇に立ち、教室内を見渡した。


「……誰もいないわね」


「ええ。みんな、カラオケとかに行きましたよ」


「あなたは行かないの?」


「行くわけないでしょう。……僕には、もっと大事な用事がある」


 悠真は机から降り、雫に近づいた。夕陽が差し込む教室、オレンジ色の光が二人の影を長く伸ばしている。雫は後ずさりしなかった。彼女は悠真の胸元にある第二ボタンを見つめた。


「……それ、誰かにあげるの?」


「予約済みです」


 悠真は即答した。


「誰に?」


「決まってるでしょう。……世界で一番、愛している人に」


 悠真は第二ボタンに手をかけ、引きちぎった。糸が切れるプツンという音が、静かな教室に響く。彼はそのボタンを雫の手のひらに乗せた。


「……受け取ってください」


 雫はボタンを握りしめた。硬いプラスチックの感触、そして悠真の体温。


「……いいの? 私なんかで」


「あなたじゃなきゃ、意味がないんです」


 悠真は彼女の手を包み込んだ。


「先生。……四年間、浮気しないでくださいね」


「……バカ。それはこっちの台詞よ」


 雫は泣き笑いのような表情を浮かべた。


「大学生になったら、可愛い子がたくさんいるわよ。……私みたいなオバサン、すぐに忘れるんじゃない?」


「忘れません。……骨の髄まで、先生に毒されてますから」


 悠真は彼女の腰に手を回し、引き寄せた。抵抗はない。彼女の身体が柔らかく悠真に密着する。石鹸の香り、体温、鼓動。そのすべてが悠真の五感を満たしていく。


「……好きです、雫さん」


 初めて名前で呼んだ。雫の肩が震えた。


「……私も。……好きよ、悠真」


 彼女もまた、名前で呼び返した。教師と生徒という殻を破り、ただの男と女として向き合った瞬間だった。悠真は顔を近づけた。彼女が瞳を閉じる。震える唇。夕陽の中で二人の影が重なった。だが、唇が触れ合う寸前で悠真は止まった。


「……続きは、四年後です」


 彼は耳元で囁いた。雫が驚いて目を開ける。


「……え?」


「今はまだ、僕は半人前です。……このキスは、合格通知と一緒に、堂々と奪いに来ます」


 それは悠真なりのケジメだった。ここでキスをしてしまえば、なし崩し的に関係が進んでしまうかもしれない。それでは彼女が求めた「責任」を果たしたことにはならない。雫は一瞬呆然としていたが、すぐにふっと笑った。


「……本当に、生意気な生徒ね」


 彼女は悠真の首に腕を回し、額に軽くキスをした。


「わかったわ。……待ってる。あなたが一人前の男になって、私を迎えに来てくれるのを」


 それは契約の封印のような、優しいキスだった。悠真は彼女を抱きしめ返した。強く、壊れるくらいに強く。この温もりを四年間決して忘れないように。チャイムが鳴り響く。下校時刻を告げるメロディ。それは二人の別れの合図であり、新たな旅立ちのファンファーレでもあった。悠真はゆっくりと腕を解いた。


「……行ってきます」


「……行ってらっしゃい」


 二人は笑顔で別れた。振り返らずに教室を出る悠真の背中には、もう迷いはなかった。彼の手には未来への地図がある。そして心には、愛する人との誓いがある。四年間。長いようで短い、試練の季節が始まろうとしていた。

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