第16話 別れを告げる進路相談
卒業式を翌日に控えた放課後、瀬尾悠真は最後の進路相談という名目で進路指導室を訪れていた。部屋の空気は以前と変わらず重く淀んでいたが、かつてのような息苦しさは感じられない。机の上に置かれた悠真の合格通知書と、それを眺める新海雫の穏やかな表情が、この部屋の意味を変えていたからだ。彼女は合格通知書を手に取り、まるで我が子を慈しむかのように愛おしそうに眺めていた。その瞳には教師としての賞賛だけでなく、一人の女性としての安堵の色が深く滲んでいた。
「……本当によく頑張ったわね」
彼女の言葉に、悠真は素直に頭を下げた。
「先生のおかげです」
「いいえ。あなたが自分で勝ち取ったのよ」
雫は首を横に振り、合格通知書を机に戻すと、姿勢を正して教師の顔になった。その声色が少しだけ厳しくなり、これから始まる話の重要性を示唆する。
「さて、悠真くん。……これで第一段階はクリアね。明日、あなたは卒業する。そして四月から、大学生として新しい生活が始まるわ」
彼女は指を一本立て、悠真の目を真っ直ぐに見据えた。
「覚えてる? 私が言った条件」
「忘れるわけありません。大学卒業と、定職。……教員になること」
悠真は即答した。それが二人の未来を繋ぐ唯一の架け橋であることを、彼は片時も忘れたことはない。
「そう。その約束を守るまで、私たちの関係は『教師と元教え子』のままよ」
雫は念を押すように言った。悠真は小さく頷いたが、胸の奥には拭い去れない不安が渦巻いていた。四年間という歳月は、若者にとっては成長の時間だが、二十四歳の女性にとっては結婚適齢期という重い意味を持つ時間でもある。その間に何が起こるか、誰にも予測できない。
「……でも、先生。四年間は長いです。……その間に、先生が心変わりしないという保証はありますか?」
それは、彼がずっと抱えていた恐怖の吐露だった。縁談の話もまた来るかもしれないし、大人の魅力を持った男性が現れるかもしれない。雫は少し驚いたような顔をしたが、すぐに寂しげに微笑み、窓の外へと視線を移した。
「……保証なんて、ないわ。人の心は変わるものよ。私だって、自分がどうなるかわからない。……もしかしたら、待ちきれなくなるかもしれない」
その言葉は鋭い刃となって悠真の胸を刺した。彼女は嘘をつかない。だからこそ、その残酷な可能性はリアルな重量を持って彼にのしかかる。だが、雫はすぐに悠真に向き直り、その瞳を射抜くように見つめた。
「だから、私を繋ぎ止めておきたいなら、あなたが頑張り続けるしかないの。……私が他の誰かを選ぼうとした時、それを力尽くで阻止できるくらいの男になりなさい」
それは彼女なりの最大の激励であり、同時に残酷な宣告でもあった。安心などさせない。常に危機感を持たせ、彼を走らせ続ける。それが、彼女の愛し方なのだ。悠真は拳を握りしめ、その痛みを覚悟に変えた。
「……わかりました。絶対に、後悔させません。先生が他の男を見向きもしないくらい、圧倒的な男になって戻ってきます」
その宣言を聞いて、雫は満足そうに頷いた。彼女は立ち上がり、机を回って悠真に近づいた。触れられそうなほど近い距離で、二人の視線が絡み合う。
「……最後のアドバイスよ。大学に行けば、たくさんの誘惑があるわ。可愛い女の子も、楽しい遊びも。……それに流されないで。常に、私を思い出して」
彼女は囁いた。それは教師としてのアドバイスではなく、嫉妬と独占欲に彩られた、一人の女としての本音だった。悠真は苦笑し、彼女の瞳を見つめ返した。
「先生こそ。……僕以外の男に、隙を見せないでくださいね」
「失礼ね。私はこれでも教師よ」
雫はふふっと笑った。二人の間に流れる空気は甘く、そして切なかった。明日になれば、この関係は終わる。教師と生徒という枠組みが外れ、ただの男と女になる。だが、それは同時に、四年間という長い空白期間の始まりでもあった。
「……卒業式、楽しみにしてるわ。あなたの晴れ姿、しっかり見届けさせてもらうから」
雫はそう言って、悠真の肩に手を置いた。その手の温もりを、悠真は心に刻み込んだ。これが最後の「指導」だった。これからは、自分の足で歩いていかなければならない。悠真は深く一礼し、進路指導室を後にした。扉を閉める瞬間、隙間から見えた雫は、一人で窓の外を見つめていた。その背中はどこか小さく、そして孤独に見えた。待っていてくれる。その確信だけが、悠真の心を支えていた。明日、卒業式。それは別れの日ではなく、約束の日となるはずだった。悠真は廊下を歩きながら、自分の胸ポケットに入っているある物を確かめた。明日の卒業式で、彼女に渡すもの。それは、彼の四年間の覚悟を形にした、小さな誓いだった。
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