第15話 合格通知と下宿の現実
一月に入り、東陽県は記録的な寒波に見舞われていた。鉛色の空からは絶え間なく粉雪が舞い落ち、凍てつく風が受験生たちの不安を煽るように吹き荒れている。センター試験当日の朝、瀬尾悠真はかじかむ手をコートのポケットに突っ込み、会場へと向かう人波の中にいた。その手の中には、あの夏に新海雫から渡された図書室の鍵が、お守り代わりに握りしめられている。冷たい金属の感触だけが、彼と彼女を繋ぐ唯一の物理的な接点だった。結果はボーダーラインぎりぎりという厳しいものだったが、悠真の心は折れなかった。むしろ、追い込まれれば追い込まれるほど、彼の集中力は研ぎ澄まされていった。二次試験までの残り一ヶ月、彼は死に物狂いでペンを走らせ、知識を脳に刻み込んだ。雫もまた、彼の小論文を添削し、面接練習に付き合い、精神的な支えとなり続けた。教師と生徒という立場を超え、二人は受験という名の戦場を二人三脚で駆け抜けたのだ。
そして迎えた合格発表の日。掲示板の前に群がる人だかりを掻き分け、悠真は自分の受験番号を探した。心臓の鼓動が痛いほどに響き、視界が揺れる。数秒の探索の後、彼の目に飛び込んできた数字の羅列。それを認識した瞬間、悠真の頭の中は真っ白になった。歓喜よりも先に、重い枷が外れたような深い安堵が押し寄せてくる。彼は震える手でスマートフォンを取り出し、雫にメッセージを送った。『合格しました』という、たった六文字の報告。送信ボタンを押してから数秒も経たないうちに、返信が届いた。
『おめでとう。……信じてたわ』
その短い言葉に込められた想いの重さに、悠真は人目も憚らず涙した。それは単なる教師からの祝福ではなく、共に戦った「戦友」からの、そして愛する女性からの承認の言葉だった。
三月、卒業式を間近に控えたある日、悠真は大学近くのアパート探しを始めた。両親との約束通り、一人暮らしを始めるためだ。不動産屋に案内されたのは、大学から徒歩十分という好立地ではあるものの、築三十年を超える木造アパートだった。六畳一間、風呂トイレ別とは名ばかりの狭いユニットバス、そして一口コンロしかない簡素なキッチン。壁は薄く、隣の住人の生活音が筒抜けになりそうな古びた部屋だ。だが、悠真は内見を始めてすぐに即決した。家賃が安いことが表向きの理由だったが、何よりこの部屋が持つ「孤独の匂い」が気に入ったのだ。華やかなキャンパスライフとは無縁の、ストイックな修行僧のような生活空間。ここで四年間、自分を磨き上げる。誰にも邪魔されず、雫への愛を純粋培養するための、最高の隠れ家になる予感がした。
引越しの日、手伝いに来てくれた親友の斎藤陽太が、家具の少ない殺風景な部屋を見渡して呆れたように声を上げた。
「……随分とまあ、殺風景な部屋だな。お前、ここで四年間も耐えられるのか?」
陽太は経済学部に進学が決まっており、実家から通う予定だ。彼には、悠真があえて過酷な環境を選んだ理由が理解できないようだった。悠真は段ボールを開梱しながら、淡々と答えた。
「耐えるんじゃない。楽しむんだよ」
「楽しむ? この何もない部屋で?」
「何もないからいいんだ。余計な誘惑がない分、目標に集中できる」
陽太は呆れたように肩をすくめ、冷蔵庫にペットボトルのお茶を詰め込みながら言った。
「相変わらずストイックだなあ。……でもさ、寂しくねえの?」
寂しさ。それは、この部屋に入った瞬間から、悠真の肌にまとわりついている感覚だった。実家の温かさも、母親の手料理も、ここにはない。夜になれば、この部屋は完全な闇と静寂に包まれるだろう。物理的な距離は、心の距離をも遠ざけるかもしれないという不安が、常に付きまとっている。
「……寂しいに決まってるだろ」
悠真は作業の手を止め、正直に認めた。
「でも、その寂しさが俺を強くするんだ。……雫先生に会えない時間、声を聞けない時間。その空白が、俺の愛を育ててくれる」
「うわ、ポエマーかよ」
陽太は茶化したが、その表情はどこか真剣だった。友人の覚悟の深さを、彼なりに感じ取っているのだろう。
「まあ、お前がそこまで言うなら応援するけどさ。……無理すんなよ。たまには遊びに来いよ」
「ああ。ありがとな」
陽太が帰った後、悠真は一人で部屋に残された。西日が差し込む六畳間は、埃と新しい畳の匂いが入り混じっていた。段ボールの山に囲まれ、彼は床に座り込んだ。静かだ。あまりにも静かで、自分の呼吸音さえもが耳障りに感じる。これが、一人暮らしの現実か。自由と引き換えに手に入れた、圧倒的な孤独。悠真はポケットからスマートフォンを取り出し、雫の連絡先を表示させた。『引越し、終わりました』というメッセージを打ち込み、送信ボタンを押そうとして、指を止めた。甘えてはいけない。寂しいから連絡するなんて、子供のすることだ。彼はスマートフォンを置き、代わりに鞄から一冊のノートを取り出した。
それは、卒業式の日に雫に渡すつもりで用意していた、自作の「未来計画ノート」だ。大学での履修計画、教員採用試験までのロードマップ、取得すべき資格、そして将来設計。彼が四年間で成し遂げるべき全てが、そこに記されている。悠真はペンを取り、最初のページに新たな一文を書き加えた。
『一日一回、必ず彼女を想うこと』
それは計画というよりは、誓いだった。新しい環境、新しい人間関係。それらが二人の絆を希薄にさせる可能性は否定できない。だからこそ、意識的に想い続ける必要があるのだ。この孤独な部屋で、彼女の幻影と共に生きる。それが、これからの四年間、悠真に課せられた新たな試練だった。窓の外では、カラスが鳴きながら夕焼け空を飛んでいく。悠真は立ち上がり、カーテンを閉めた。遮断された空間の中で、彼は深く息を吸い込んだ。
「……待っててくれ、雫」
誰もいない部屋で、彼は呟いた。その声は以前よりも低く、そして深い決意を帯びていた。合格通知はゴールではない。本当のスタートラインに立っただけだ。悠真は部屋の電気をつけ、まだ開梱していない段ボールの中から参考書を取り出した。大学入学前から、彼の戦いはすでに始まっていたのだ。孤独と静寂を友とし、愛を燃料に変えて、彼は机に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます