第14話 光と影の理科室
体育祭の喧騒が遠い夢のように消え去り、季節は晩秋へと移ろっていた。日没の時間は早まり、放課後の校舎は急速に深い藍色に染まっていく。瀬尾悠真は、人気のない理科室の実験台に腰掛け、窓の外を眺めていた。ガラスに映るのは、疲れ切った自分の顔と、背後で静かに佇む新海雫の姿だ。今日は模試の結果返却日だった。そして、悠真にとっては初めての「スランプ」を突きつけられた日でもあった。
机の上に広げられた成績表の数字は、残酷なほど横ばいだった。夏休みの猛勉強で急上昇した偏差値が、ここに来て停滞している。E判定からは脱したが、C判定の壁が分厚く立ちはだかっていた。焦りが思考を鈍らせ、問題文が上滑りしていく感覚。それを雫に見透かされるのが何よりも怖かった。
「……伸び悩みね」
雫が静かに言った。彼女は悠真の隣に立ち、窓ガラス越しに夜景を見つめている。その横顔は美しく、そしてどこか哀しげだった。
「基礎は固まった。でも、応用力とスピードが足りない。……焦ってるでしょう?」
図星だった。悠真は唇を噛み、小さく頷くことしかできなかった。体育祭でのあの一件以来、二人の距離は確実に縮まっていた。だが、それは同時に「受験」という現実の壁をより高く、険しく感じさせる要因にもなっていた。彼女に触れたい。もっと近くに行きたい。その渇望が強くなればなるほど、現状の自分への不甲斐なさが募る。
「……怖いです」
悠真は正直な気持ちを吐露した。
「このままじゃ、間に合わないんじゃないか。先生との約束を果たせないまま、時間だけが過ぎていくんじゃないか。……それが、たまらなく怖い」
雫はゆっくりと悠真の方を向いた。理科室特有の薬品の匂いと、彼女の石鹸の香りが混じり合う。
「私もよ」
彼女の声は震えていた。
「あなたが頑張っているのは知ってる。痛いくらいに伝わってくる。……でも、時々不安になるの。私があなたに課した条件は、厳しすぎたんじゃないかって。私のエゴで、あなたの青春を潰しているだけなんじゃないかって」
それは、彼女が抱え続けてきた罪悪感だった。教師として、年上の女性として、彼を導く自信が揺らいでいる。
「……そんなことない!」
悠真は実験台から降り、彼女の肩を掴んだ。
「先生のおかげで、僕は変われた。目標ができた。……先生がいなかったら、僕はただの空っぽな高校生で終わってた」
彼の掌から伝わる熱が、雫の身体に染み込んでいく。
「だから、迷わないでください。僕を信じてください。……僕が欲しいのは、同情じゃなくて、先生の『待ってる』って言葉だけなんです」
雫は悠真を見上げた。その瞳が潤み、月明かりを反射して揺れている。
「……待ってるわ。誰よりも、あなたを」
彼女は悠真の胸に額を押し付けた。
「でも、今だけは……教師じゃなくて、ただの女として言わせて」
彼女の手が、悠真の背中に回る。
「……抱きしめて。不安が消えるくらい、強く」
悠真は躊躇わなかった。彼女の細い身体を、腕の中に閉じ込めるように強く抱きしめた。柔らかい感触。温かい体温。そして、トクトクと伝わってくる鼓動のリズム。理科室の暗闇が、二人を優しく包み込んでいく。ここには誰もいない。誰の目も気にする必要はない。ただ、互いの存在を確かめ合うためだけの時間が流れていた。
「……悠真くん」
雫が顔を上げ、濡れた瞳で彼を見つめた。
「キスして」
それは懇願であり、命令でもあった。理性の糸が切れ、本能だけが裸になって求め合っている。悠真はゆっくりと顔を近づけた。彼女の吐息が頬にかかる。唇が触れ合う寸前、理科室の扉の向こうで、見回りの警備員の足音が響いた。
カツ、カツ、カツ。
冷酷な現実の音が、二人を引き裂いた。悠真は反射的に身体を離し、雫もまた慌てて衣服を整え、窓際から離れた。足音が遠ざかっていくのを確認するまでの数分間が、永遠のように感じられた。
「……帰ろう」
雫がポツリと言った。その声には、熱情の余韻と、深い諦めが混じっていた。
「これ以上ここにいたら、本当に戻れなくなる」
彼女は正しい。ここは学校だ。そして二人は、まだ「教師と生徒」なのだ。この一線を越えてしまえば、全てが崩壊する。悠真は拳を握りしめ、頷いた。
「……はい。送ります」
二人は理科室を出て、暗い廊下を並んで歩いた。手は繋いでいない。だが、その間にある空気は、抱き合っていた時よりも濃密で、切ないほどに張り詰めていた。プラトニックな関係の限界。肉体的な接触を禁じられたもどかしさ。それが、逆説的に二人の愛をより精神的で、強固なものへと昇華させていく。
校門の前で、雫は立ち止まった。
「……今日は、ありがとう。少し、楽になったわ」
彼女は寂しげに微笑んだ。
「焦らないで。スランプは、飛躍の前触れよ。あなたが一番よく分かってるはず」
教師としての言葉。だが、その響きは以前よりもずっと温かく、信頼に満ちていた。
「はい。……次は、もっといい報告をします」
悠真は力強く答えた。今日の未遂に終わったキス。その続きは、合格通知を手にしたその日まで取っておく。それが、彼なりの新たな誓いとなった。
雫の背中が夜の街へと消えていくのを見送りながら、悠真は夜空を見上げた。欠けた月が、冷たく輝いている。光と影。希望と不安。そのすべてを飲み込んで、彼は再び歩き出した。孤独な戦いはまだ続く。だが、その先には必ず、彼女という光が待っていることを信じて。
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