第13話 境界線を越える接触(お姫様抱っこ)


 秋晴れのグラウンドに渦巻く熱狂は、二人を包囲する檻のようでもあり、同時に二人だけを隔離する結界のようでもあった。借り物競争のコース上、瀬尾悠真は新海雫の手首を掴んだまま疾走していた。繋がれた掌から伝わる湿った熱と、背後から聞こえる彼女の荒い息遣い。そのすべてが悠真の脳髄を痺れさせ、理性のタガを外していく。本来なら教師と生徒が手をつないで走るなどという行為は、体育祭という非日常の祝祭空間においてのみ許容されるギリギリの境界線上にある。だが、悠真にとってそれは単なる競技の一幕ではなかった。これは全校生徒という証人の前で行われる、既成事実の構築であり、彼女に対する公然たる所有宣言に他ならない。「好きな先生」というカードの指令は大義名分に過ぎず、その実、彼はこの瞬間を利用して彼女の領域に土足で踏み込み、その身を拘束することに強烈な背徳の喜びを感じていた。風を切る音と心臓の鼓動が混ざり合い、世界が狭まっていく。ゴールラインまではあと数十メートル。だが、悠真の欲望は単にゴールテープを切ることでは満たされなかった。もっと深く、もっと決定的に、彼女との間にある「一線」を物理的に踏み越えなければならないという衝動が、彼の中でどす黒い炎となって燃え盛っていた。


 その時、繋がれた手から急激な重みが伝わった。限界を超えたスピードに追随しようとした雫の足がもつれ、身体のバランスが大きく崩れたのだ。「あっ」という短い悲鳴と共に、彼女の身体がグラウンドの砂地へと沈み込んでいく。普段運動とは無縁の生活を送っている彼女にとって、現役の男子高校生の全速力に付き合うことは肉体的な限界を超えていたのだ。転倒すれば怪我をするかもしれない。教師としての威厳が地に落ちる無様な姿を晒すことになるかもしれない。だが、悠真の反射神経はそれを許さなかった。彼は瞬時に足を止め、倒れかかる彼女の身体を支えるために腕を伸ばした。砂埃が舞い上がり、視界を白く染める中、悠真の腕は彼女の背中と膝裏に滑り込んだ。思考よりも早く、身体が動いていた。支えるだけではない。彼はそのまま腰を落とし、全身のバネを使って彼女の身体を宙へとすくい上げた。


「……きゃっ!」


 雫の口から驚愕の声が漏れると同時に、世界が反転した。いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢である。彼女の華奢な身体が、悠真の腕の中にすっぽりと収まった。視界の高さが変わり、足が地から離れる浮遊感。反射的に彼女は悠真の首に腕を回し、しがみつくしかなかった。至近距離に迫る悠真の顔。汗ばんだ首筋の血管が脈打つのが見える。荒い息遣いが頬にかかり、男の匂いと熱気が彼女の思考を真っ白に塗りつぶした。「……な、何するの! 下ろして!」と顔を真っ赤にして抗議の声を上げたが、それは形ばかりのものだった。彼女の身体は恐怖と羞恥で硬直していたが、同時に、鋼鉄のように硬い彼の腕に抱きしめられることへの、抗いがたい安心感を覚えてしまっていたからだ。悠真は彼女の抗議を無視し、腕に込める力を強めた。「このままゴールします」と短く宣言する彼の声は、低く、腹の底に響くような強制力を持っていた。


 悠真は再び走り出した。腕の中に感じる彼女の重みは、想像していたよりもずっと軽く、そして柔らかかった。太ももに触れる左手と、背中を支える右手。薄いジャージ越しに伝わる女性特有の肉感と体温が、悠真の掌を焼き、理性を焼き尽くしていく。これは単なる救助ではない。公衆の面前での略奪だ。周囲の生徒や教師たちは、この光景をどう見ているだろうか。ハプニングとして笑っているか、それとも教師と生徒の許されざる距離感に息を呑んでいるか。だが、そんなことはどうでもよかった。今、悠真の腕の中に彼女がいる。彼女の心臓の鼓動が、自身の胸板を通して直接伝わってくる。トクン、トクンと激しく波打つそのリズムは、彼女もまたこの異常な状況に高揚していることの証左だった。雫は抵抗をやめ、悠真の胸に顔を埋めた。これ以上、周囲の視線に晒されることに耐えられなかったのと、自分の顔に浮かんでいるであろう、教師にあるまじき「女」の表情を見られたくなかったからだ。守られているという安堵と、支配されているという屈辱。相反する感情がない交ぜになり、彼女の身体の芯を甘く疼かせていた。


 ゴールラインが迫る。悠真はスピードを緩めることなく、雫を抱いたままトップスピードで駆け抜けた。ゴールテープが切れ、視界が開ける。わっと沸き起こる歓声と拍手、そして冷やかしの口笛が、二人を包み込むシャワーのように降り注いだ。放送席の実況が何かを叫んでいるが、耳鳴りがして聞き取れない。悠真はゴールを過ぎても、しばらく彼女を下ろさなかった。余韻を味わうように、その温もりを自身の記憶に刻み込むように、強く抱きしめ続けた。彼女の石鹸の香りと、微かな汗の匂いが鼻腔を満たす。このままどこか誰もいない場所へ連れ去ってしまいたい。そんな衝動を必死に抑え込み、審判の教員に促されてようやく、彼はゆっくりと彼女を地面に下ろした。


 足が地についた瞬間、雫は膝から崩れ落ちそうになり、慌てて悠真の腕に掴まった。顔は熟れたトマトのように赤く、目は潤んで焦点が定まっていない。乱れた呼吸を整えながら、彼女は恨めしそうに、しかしどこか熱っぽい瞳で悠真を見上げた。


「……バカ」


 震える唇から漏れたその言葉は、罵倒というよりは、懇願に近い響きを帯びていた。


「……本当に、バカなんだから……教師の私に、こんなことして……」


 悠真は満足げに笑った。やり遂げた。彼女の理性の壁に、修復不可能な風穴を開けたのだ。この「お姫様抱っこ」という事実は、もう誰にも消せない。何百人もの目撃者がいる中で行われた、肉体的な接触。それは二人の関係を、単なる「指導する者とされる者」から、「触れ合い、求め合う男と女」へと不可逆的に変質させた。悠真は彼女の腕を支え、並んで退場門へと向かった。手は繋がれていなかったが、その距離は以前よりもずっと近く、親密な空気が漂っていた。夕陽がグラウンドを赤く染め始め、二人の影を長く伸ばしている。その影が一つに重なる様を見ながら、悠真は確信した。あと少しだ。あと少しで、彼女は完全に自分のものになる。その時まで、この手綱を絶対に離しはしないと、彼は心に誓った。

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