第12話 体育祭の指令:「好きな先生」
十月の空は抜けるように高く、翠洋高校のグラウンドは体育祭特有の熱狂と砂埃に支配されていた。クラス対抗のリレーや応援合戦の歓声が絶え間なく響き渡り、生徒たちのボルテージは最高潮に達しつつある。しかし、その熱狂の中心から少し離れた招集場所で、瀬尾悠真だけは冷ややかな緊張感を漂わせていた。彼の出番はプログラムの中盤にある「借り物競争」だ。スタートラインに立ち、深呼吸を繰り返しながらも、悠真の耳には隣のレーンの生徒たちが交わす「何が出るかな」「簡単なの頼むわ」といった軽口は届いていない。彼の視線は、グラウンドの反対側、本部席のテントの下に一点集中していた。
そこに、新海雫がいる。彼女は放送係の顧問として、マイクを片手に進行を見守っていた。今日はいつもの白衣やスーツ姿ではなく、学校指定のジャージ姿だ。普段の知的な装いとは違う、スポーティーで無防備な姿に悠真の胸がざわつく。ポニーテールに結い上げられた黒髪が風に揺れるたび、露わになった首筋の白さが強い秋の日差しの下で際立って見えた。もし、借り物の「お題」が彼女に関連するものだったら。そんな淡い期待と、同時に湧き上がるリスクへの恐怖。公衆の面前で彼女に関わることは教師と生徒という立場上リスキーだが、この非日常の高揚感の中でなら、一瞬の接触が許されるのではないかという甘い誘惑が彼の理性を揺さぶっていた。
「位置について、よーい……」
ピストルの乾いた音が思考を断ち切り、悠真は反射的に地面を蹴った。土埃を巻き上げながら、グラウンドの中央に置かれた指令カードの入った箱へと疾走する。心臓が早鐘を打ち、周囲の景色が流れるように後方へ飛び去っていく。箱に手を突っ込み、指先に触れた一枚の封筒を掴み取ると、彼は走りながらそれを破り捨て、中のカードを開いた。そこに書かれていた文字を見た瞬間、悠真の脳裏で何かが弾けた。
『好きな先生』
時間が止まったように感じられた。周囲の歓声が遠のき、自分の荒い呼吸音だけが耳に残る。「好きな先生」。それは一般的には単なる「お気に入りの先生」という意味だろう。だが、少なくとも今の悠真にとっては、それは恋情の対象そのものを指し示していた。これは運命の悪戯か、それとも神の啓示か。悠真は顔を上げ、迷わず本部席へと視線を向けた。そこに座る雫と目が合う。彼女は不思議そうな顔で、直立不動のまま動かない悠真を見ていた。悠真はカードをくしゃりと握りしめ、再び走り出した。ゴールに向かってではない。本部席に向かって、一直線に。
迷いなど微塵もなかった。このカードを引いた以上、他の選択肢など存在しない。グラウンドを横切る悠真の突飛な行動に、周囲がざわめき始める。「おい、瀬尾あっちじゃないぞ!」「どこ行くんだ?」という友人たちの声を無視して、悠真は本部席の目の前で急停止した。砂埃が舞い上がり、テントの中にまで入り込む。雫が驚いて立ち上がり、マイクを持ったまま目が点になっていた。
「……瀬尾くん? どうしたの?」
悠真は荒い息を整えながら、テントの支柱に手をかけて彼女を見上げた。汗が目に入り、視界が滲む。眩しい日差しと、目の前にいる愛しい人。彼は無言で、手に持っていたカードを突きつけるように彼女に見せた。『好きな先生』。その文字を見た瞬間、雫の顔色が劇的に変わった。最初は意味が理解できなかったのかきょとんとしていたが、次第にその意図を理解し、顔が瞬く間に真っ赤に染まっていく。
「え……ちょ、ちょっと……」
彼女は狼狽し、周囲の視線を気にしておろおろと視線を泳がせた。他の教師たちも何事かと注目している。放送席のマイクがオンになっていることに気づかず、彼女の小さな悲鳴がスピーカーを通してグラウンド中に響いた。
『ま、待って……私!?』
全校生徒が爆笑し、同時にどよめきが起こった。新任の美人教師と、男子生徒。その構図は、体育祭というイベントにおいて最高のエンターテインメントだった。悠真はニヤリと笑った。もう後には引けない。いや、引くつもりなど最初からなかった。
「行きますよ、先生」
彼はテントの中に手を伸ばし、強引に雫の手首を掴んだ。
「ちょっ、瀬尾くん! 離して!」
「借り物競争です。協力してください」
悠真は力任せに彼女をテントから引きずり出した。抵抗する雫だったが、悠真の力強い手と、周囲の「行けー!」という無責任な声援に押され、逆らうことができない。彼女は顔を真っ赤にしながら、悠真に手を引かれてグラウンドへと走り出した。
「信じられない……! あなた、後でどうなっても知らないからね!」
走りながら彼女は小声で抗議したが、繋がれた手は振りほどこうとしなかった。
「覚悟の上です」
悠真は前を向いたまま答えた。掌に感じる彼女の体温。緊張で少し湿った手汗。それらが混じり合い、何よりもリアルな「共犯」の証として悠真の感覚を刺激する。二人は並んで走った。風を切る音、激しく打つ心臓の鼓動、そして隣を走る彼女から漂う甘い石鹸の香り。公衆の面前で、堂々と彼女の手を引いて走る。それは悠真にとって最高の快感であり、まるで勝利の凱旋パレードのようだった。ゴール手前で審判の教員が判定のために待ち構えているのが見える。
「お題は?」
悠真は立ち止まり、息を切らしながらカードを高々と掲げた。
「『好きな先生』です!」
大声で宣言した。グラウンドが一瞬静まり返り、次の瞬間、割れんばかりの歓声と冷やかしの声が爆発した。「うおおお! 言ったーー!」「新海先生公認かよ!」という野次が飛び交う中、雫は両手で顔を覆い、その場にしゃがみ込みそうになっていた。耳まで真っ赤に染まり、教師としての威厳など見る影もない。審判の教員も苦笑いしながら、「……まあ、お題通りだな。合格!」と判定を下した。悠真は雫の手を離さず、そのままゴールラインを駆け抜けた。一位ではなかったかもしれないが、順位などどうでもよかった。彼は全校生徒の前で、そして何より彼女自身の前で、堂々と「好きだ」と公言したのだ。
ゴールした後、二人は人目を避けるようにグラウンドの端へと移動した。雫は肩で息をしながら、恨めしそうに悠真を睨んだ。その瞳は潤んでおり、怒りよりも恥ずかしさが勝っているように見える。
「……最悪」
彼女は呟いた。
「こんなの……教師として、示しがつかないわ」
「いいじゃないですか。生徒に好かれる先生ってことで」
悠真が悪びれずに言うと、雫は深い溜息をつき、それからふっと力が抜けたように笑った。それは怒りや呆れを超えた、諦めと愛おしさが混じった複雑な笑顔だった。
「……本当に、あなたは……私の人生を滅茶苦茶にする気ね」
「言ったでしょう。先生の全部を独占するって」
悠真は小声で囁いた。周囲にはまだ生徒たちの熱気が渦巻いているが、この瞬間だけは二人だけの世界だった。汗ばんだ肌、高揚した頬、そして繋がったままの手。体育祭という非日常の魔法が理性のタガを緩め、二人の距離を急速に縮めていた。この日の出来事は、後に「伝説」として語り継がれることになるだろう。だが悠真にとっては、伝説などではない。これは四年後の未来へ向けた、確かな既成事実の一つに過ぎなかった。彼はポケットの中で、くしゃくしゃになった指令カードを握りしめた。『好きな先生』。その言葉は、これから始まる長い試練の間、彼を支えるお守りとなるはずだった。
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