第11話 学校イベントの密かな共闘
九月も下旬に差し掛かると、翠洋高校の校舎全体が一種独特の熱気に包まれ始めていた。文化祭まであと一週間。普段は静謐な進学校の廊下も、この時期ばかりは段ボールやベニヤ板、ペンキの缶といった無骨な資材によって占拠され、行き交う生徒たちの足音もどこか浮ついたリズムを刻んでいる。教室からは演劇の練習をする声や、模擬店の宣伝用ポスターを描く生徒たちの笑い声が絶え間なく響き渡り、学校という規律の空間が、祝祭という名の混沌へと変貌を遂げようとしていた。
そんな喧騒の中、瀬尾悠真は三年生のクラス委員として、教壇の前に立ち尽くしていた。彼の目の前では、クラスの出し物である「喫茶店兼演劇」の内装工事を巡って、男子生徒たちと女子生徒たちの間で激しい議論が勃発していた。予算の配分と作業の優先順位。限られた時間と資源の中で、理想と現実が衝突するのは世の常だが、青春の只中にいる彼らにとってそれは世界の終わりにも等しい深刻な問題だった。悠真は額に滲む汗を拭いもせず、飛び交う意見をホワイトボードに書き出しながら、落としどころを探っていた。彼の脳裏には、この混乱をどう収拾するかという実務的な思考と同時に、教室の後方で腕を組み、静かに戦況を見守っている担任教師、新海雫の存在が常に意識されていた。
雫は教師としての立場上、生徒たちの自主性を尊重するという名目で直接的な介入を控えていたが、その瞳の奥には隠しきれない焦燥が見え隠れしていた。進学校である以上、勉強時間を削って行われる文化祭準備が長引くことは避けたいというのが本音だろうし、何よりクラスの雰囲気が悪化することは担任として看過できないはずだ。悠真は議論の合間に、ふと視線を雫の方へと向けた。彼女もまた、まるで合図を待っていたかのように悠真を見た。一瞬の視線の交錯。言葉は交わしていない。だが、その瞳の色だけで、悠真は彼女の思考を読み取ることができた。『時間を区切りなさい。このままでは結論が出ないわ』という、無言の指示。そして、『あなたならできるはずよ』という、教師から生徒への、あるいは女から男への信頼。その不可視のメッセージを受け取った瞬間、悠真の中でスイッチが切り替わった。
「……一旦、止めよう。このまま言い合っていても時間が過ぎるだけだ」
悠真はホワイトボードのペンを置き、声を張り上げた。教室が一瞬静まり返る。彼は全員の視線を集めた状態で、冷静に、しかし断定的に提案した。
「内装班のこだわりたい部分はわかる。でも、予算オーバーは絶対に認められない。だから、資材は倉庫にある演劇部の廃棄分を流用しよう。ペンキ代だけなら予算内で収まる。その代わり、衣装班は布のグレードを一つ下げてくれ。照明効果でカバーできるはずだ」
それは妥協案というよりも、悠真が独断で決定した業務命令に近かった。普段の彼ならもっと周囲の顔色を窺ったかもしれないが、今の彼には「新海雫の期待に応える」という絶対的な行動原理がある。その自信に満ちた態度は、迷走していたクラスメイトたちに奇妙な安心感を与えたようだった。文句を言いかけたた生徒もいたが、具体的な代替案が出せない以上、悠真の提案に従うしかない空気が醸成されていく。
「……瀬尾の言う通りかもな。とりあえずそれで進めようぜ」
男子の一人が賛同したのを皮切りに、教室の空気は再び作業へと動き出した。悠真は安堵の息を吐き、再び雫の方を見た。彼女は腕を組んだまま、微かに、本当に微かに頷いてみせた。誰にも気づかれないほどの小さな動作。だがそれは、二人だけの秘密のサインであり、悠真にとってはどんな褒め言葉よりも甘美な報酬だった。公的な空間の中で、周囲には教師と生徒という関係性しか見せていないにもかかわらず、水面下では意思を通わせ、共犯関係のように事態をコントロールしている。この背徳的な快感が、悠真の背筋をゾクゾクと震わせた。
放課後になり、生徒たちが下校した後も、悠真は実行委員の仕事で教室に残っていた。資材の在庫確認と明日の作業工程表の作成。地味で孤独な作業だが、これを完璧にこなすことが、雫への「愛の証明」の一部であることを彼は理解していた。窓の外はすでに藍色に沈み、校舎には静寂が戻ってきている。シャーペンを走らせる音だけが響く教室のドアが、音もなく開いた。
「……お疲れ様。まだ残っていたのね」
入ってきたのは雫だった。彼女は手に見回りのための懐中電灯を持っていたが、それを消して教卓の上に置いた。
「先生こそ。見回りですか?」
「ええ。戸締まりの確認。……でも、ここだけ電気がついていたから」
彼女は悠真の机のそばまで歩み寄ると、彼が作成していた工程表を覗き込んだ。石鹸の香りがふわりと漂い、作業で乾いた悠真の脳髄を潤していく。
「……よくまとまっているわね。今日のクラスの仕切りも見事だった。正直、あなたがここまでリーダーシップを発揮できるとは思わなかったわ」
「先生の目配せのおかげですよ。あのタイミングで介入しろって、目で言ってましたよね」
悠真が指摘すると、雫は驚いたように目を瞬かせ、それからくすりと笑った。教師としての仮面が外れ、共犯者としての顔が覗く。
「……バレてたのね。怖いわ、あなた。私の考えていることが筒抜けみたいで」
「四年間かけて先生を攻略すると言いましたからね。思考パターンくらい読めますよ」
生意気な口調で返すと、雫は「減らず口」と言いながらも、その表情は満更でもなさそうだった。彼女は誰もいない教室を見渡し、ふと声を潜めた。
「……実はね、悠真くん。困ったことが起きているの」
「何ですか?」
「PTAからのクレームよ。演劇の内容が少し過激じゃないかって。修正を求められているんだけど、脚本担当の子が頑固で……私が直接言うと角が立つし、かといって無視もできない」
それは担任教師としての悩みだった。生徒の自主性を守りたい気持ちと、大人の事情との板挟み。彼女はその弱音を、同僚の教師ではなく、生徒である悠真に吐露している。それは彼女が悠真を、単なる教え子ではなく、共に問題を解決できる「パートナー」として認め始めている証拠だった。悠真は胸の奥が熱くなるのを感じた。彼女の役に立ちたい。彼女の負担を取り除き、その笑顔を守りたい。
「……僕が話します」
悠真は即答した。
「脚本のアイツとは中学からの付き合いです。先生が言ったんじゃなくて、実行委員としての意見として、うまく修正案を飲ませます。大人の事情じゃなく、演出上の都合ということにすれば、アイツも納得するはずです」
「……いいの? あなたが悪者になるかもしれないわよ」
「構いません。先生が困るよりはずっといい」
悠真の言葉に、雫は息を呑んだ。彼女の瞳が潤み、街灯の光を反射して揺れている。
「……ずるいわ。そんなこと言われたら、私は……」
彼女は言葉を濁し、机の上の悠真の手に、そっと自分の手を重ねた。ひんやりとした指先。だが、そこから伝わる体温は、言葉以上に雄弁に彼女の感情を物語っていた。感謝、信頼、そして抑えきれない好意。教師と生徒という絶対的な境界線の上で、二人の手は確かに触れ合っていた。
「……ありがとう。頼りにしてるわ、悠真くん」
「任せてください。先生のクラスの文化祭、絶対に成功させますから」
悠真は彼女の手を握り返したかったが、理性を総動員してそれを堪えた。今、ここで一線を越えてしまえば、築き上げてきた信頼関係が崩れてしまう。この禁欲的な緊張感こそが、二人の絆をより強固なものにするのだ。
雫は数秒間、名残惜しそうに手を重ねていたが、やがてゆっくりと離れた。
「……さ、早く終わらせて帰りなさい。受験生なんだから、体調管理も仕事のうちよ」
彼女は再び教師の顔に戻り、懐中電灯を手に取った。だが、教室を出て行く間際、彼女は振り返り、悪戯っぽく微笑んだ。
「成功したら……ご褒美、考えておくわね」
その言葉を残し、彼女は闇の中へと消えていった。
残された悠真は、しばらくの間、彼女が触れた手の甲を見つめていた。ご褒美。その甘美な響きが、疲労した身体に新たな活力を注入していく。文化祭の準備、PTAへの対応、そして受験勉強。山積みの課題は依然としてそこにあったが、今の彼にとってそれらは苦痛の種ではなく、彼女との距離を縮めるための階段でしかなかった。
誰もいない教室で、悠真は小さく拳を握りしめた。この文化祭は、単なる学校行事ではない。二人が公然と協力し合い、成功という果実を分かち合うための、秘密の共闘作戦なのだ。その高揚感が、彼を突き動かしていた。
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