第10話 指導と快楽の境界線
九月に入り、夏期講習の熱気が未だ校舎の隅々に残る中、放課後の進路指導室には張り詰めた緊張感が漂っていた。窓の外では秋の気配を含んだ風が木々を揺らし、夏の間支配的だった蝉の声に代わって静寂が学校を包み込み始めているが、室内には紙をめくる乾いた音だけが響いている。机の上には、瀬尾悠真が夏休みの間に積み重ねた成果物である分厚い問題集と模試の成績表が置かれ、新海雫はそれを一枚一枚、まるで宝石の鑑定でもするかのような真剣な眼差しで確認していた。その視線には、悠真の努力の痕跡を何一つ見逃すまいとする意志と、予想以上の結果に対する驚きが混在している。
やがて彼女は顔を上げ、黒縁眼鏡のブリッジを人差し指で押し上げると、感嘆を隠しきれない声で口を開いた。
「……驚いたわ。ここまでやり切るとは思わなかった」
彼女は数学の偏差値が六十まで上昇していることや、英語の文法問題がほぼ満点であることを指先で示し、成績表を悠真の方へと押し戻した。
「これなら、推薦入試の条件もクリアできるかもしれない」
その提案に対し、悠真は即座に首を振った。
「推薦は受けません」
拒絶の意を示すその頑なな態度に、雫は怪訝そうな顔を向けた。だが悠真にとって、それは譲れないこだわりだった。実力で勝ち取り、一般入試という正面突破を果たさなければ、彼女が提示した「条件」を真の意味で満たしたことにはならないという、強迫観念にも似た誠意が彼を突き動かしているのだ。
「……頑固ね。誰に似たのかしら」
呆れたようにため息をつく雫の口元はしかし、微かに緩んでいるようにも見えた。
「先生ですよ。あなたも相当、頑固だ」
悠真が軽口を叩くと、彼女は軽く睨み返したが、そこには以前のような拒絶の険しさはなく、共犯者のような親密な空気が流れていた。
雫は姿勢を正し、一枚のプリントを取り出して本題へと移った。
「……で、本題に入りましょうか。志望学部の最終確認よ。教育学部、国語科で間違いないわね?」
「はい」
事務的な問いに対し、悠真は短く肯定する。続けて問われた志望動機について、彼は少しの間沈黙し、彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて答えた。
「先生と同じ場所に立ちたいからです。……先生が見ている世界を、僕も理解したい」
それは面接用の模範解答などではなく、純粋な愛の告白であり、同時に彼女の領域に踏み込みたいという知的な欲求の表れでもあった。雫はプリントにペンを走らせながら小さく頷き、国語教育の意義や責任の重さを説きながらも、その表情には同志を迎えるような熱が宿り始めていた。
「あなたが本気なら、私も全力でサポートする。小論文の指導も、面接対策も、私が責任を持って見るわ」
彼女の力強い宣言に対し、悠真は一歩踏み込んで答えた。
「お願いします。……先生の『指導』なら、どんなことでも耐えられます」
その言葉に含まれた意味深な響きに、雫の表情が一瞬だけ曇った。彼女は視線を逸らし、手元のペンを弄びながら、どこか湿り気を帯びた声で問いかけた。
「……指導、ね。悠真くん。あなたは、私のことを……どう思ってるの?」
唐突な質問に悠真は一瞬戸惑ったが、すぐに彼女が教師としての自分と一人の女性としての自分の間で揺れ動いていることを察した。
「どうって……好きですよ。愛してます」
「……そうじゃなくて」
直球の答えを遮るように、彼女は言葉を継いだ。
「教師としての私を、どう見ているかってことよ」
悠真は嘘偽りなく尊敬の念を伝えたが、それだけでは自分の内面にある歪んだ感情を説明しきれないことも自覚していた。だからこそ彼は、恐れることなく告白した。
「尊敬してます。……厳しくて、でも優しくて。生徒のことを第一に考えてくれる、理想の先生です。でも、それだけじゃありません。……先生の『指導』を受けている時、僕は……興奮します」
その言葉に雫は息を呑み、顔を赤く染めた。
「……どういう意味?」
「先生に管理されること。先生の言葉に従うこと。……それが、たまらなく快感なんです」
悠真にとって、学習計画表に従って勉強している時間は、常に彼女の支配下にあるという感覚に浸れる至福の時であり、それが勉強への集中力を高めると同時に歪んだ充足感を与えていたのだ。
雫は言葉を失っていたが、その瞳の奥には嫌悪感ではなく、共鳴するような暗い色が宿っていた。
「……あなた、やっぱり変態ね」
吐き捨てる彼女の声には甘い響きがあり、悠真はそれを肯定するように指摘した。
「先生もですよ。……僕を管理することに、快感を覚えてるんじゃないですか?」
雫は反論しなかった。彼女は立ち上がって窓際へ歩み寄り、ブラインド越しに差し込む光に照らされながら、静かに自身の内面を吐露し始めた。
「……否定はしないわ。生徒を指導して、成長させること。それが教師の喜びよ。……でも、あなたに対しては、それ以上の感情がある」
彼女は振り返り、悠真を見据えた。
「あなたを自分の色に染めたい。私の言葉で、あなたの人生を決定づけたい。……そんな、醜い独占欲が私の中にもあるの」
その告白は悠真にとって最高の福音であり、二人の欲望が形こそ違えど根底で繋がっていることの証明だった。支配したい女と、支配されたい男。その共犯関係が、この進路指導室という密室で完全に成立した瞬間だった。
悠真は椅子から立ち上がり、引き寄せられるように彼女に近づいた。
「……いいじゃないですか。先生の色に染めてください」
彼は彼女の目の前まで歩み寄り、誓うように告げた。
「僕は、先生の作品になります。最高傑作に」
その宣言を聞いた雫は、震える手で悠真の頬に触れた。
「……後悔しても知らないわよ」
「しません。……一生、先生についていきます」
二人の視線が熱く絡み合った。触れ合う肌の熱さが理性の壁を溶かしていく感覚があったが、二人はそれ以上の行為には及ばなかった。まだ、その時ではない。この焦燥感こそが、今の二人にとって最大のエネルギーであり、目的を達成するための燃料なのだから。
雫はゆっくりと手を離し、深呼吸をして教師の顔に戻った。
「……さあ、指導の続きよ。小論文のテーマ、決めるわよ」
だがその瞳には、先ほどまでとは違う情熱的な炎が燃えており、悠真もまた席に戻ってペンを握りしめた。これからの勉強は単なる受験対策ではなく、彼女との愛を深め、歪んだ欲望を満たすための神聖な儀式となるだろう。
指導と快楽の境界線。その曖昧な領域の上で、二人は密かに、しかし激しく愛を育んでいくことを無言のうちに誓い合ったのだった。
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