第9話 図書館の沈黙と手の触れ合い
夏休みも折り返し地点を過ぎた八月下旬、瀬尾悠真の生活は新海雫が構築した学習計画表によって完全に支配されていた。朝六時の起床から始まり、食事、入浴、そしてわずかな睡眠時間を除いた全ての時間が勉強に費やされる過酷なルーチン。友人からの誘いは全て断り、スマートフォンも机の引き出しの奥深くに封印して、彼は世間から隔絶された孤独な時間を過ごしていた。唯一の例外として許されているのは、雫との連絡手段である一日一度の進捗報告メールだけだ。特別閲覧室は、悠真にとって第二の家と化していた。防音扉によって外界の喧騒が遮断された室内には、エアコンの低い駆動音だけが響き渡り、その無機質な静寂の中で彼はひたすら知識を脳に詰め込み続けていた。単語帳は手垢で黒ずみ、数学の問題集は書き込みで埋め尽くされていく。肉体的な疲労はピークに達していたが、不思議と苦痛ではなかった。解けなかった問題が解けるようになる快感や、E判定だった模試の結果が少しずつ上昇していく確かな手応えが、彼を突き動かす原動力となっていたからだ。そして何より、この部屋には彼女の残り香があるような気がしていた。彼女が管理するこの場所で努力を重ねることは、間接的に彼女に触れていることと同じだという甘美な錯覚が、孤独を癒やし、乾いた心を満たしていた。
ある日の午後、特別閲覧室のドアが音もなく開いた。集中を乱された悠真が顔を上げると、そこには新海雫が立っていた。彼女はいつもの白衣やスーツ姿ではなく、白いブラウスに淡いベージュのロングスカートという私服姿だった。髪は緩く巻かれ、普段の厳しい教師の顔とは違う、どこか柔らかく無防備な雰囲気を纏っている。学校以外で、しかも私服姿の彼女を見るのは初めてだったため、悠真は一瞬言葉を失い、幻覚を見ているのではないかと疑った。
「……先生?」
「驚かせてごめんね。ちょっと、様子を見に来たの」
彼女は申し訳なさそうに微笑み、手に持っていた紙袋を差し出した。
「これ、差し入れ。……お疲れ様」
紙袋の中には、汗をかいた冷えたペットボトルのお茶と、駅前にある有名店のシュークリームが入っていた。甘いバニラの香りが漂い、無機質な部屋の空気を優しく書き換えていく。
「ありがとうございます。……でも、いいんですか? ここでこんなことして」
悠真が少し意地悪く尋ねると、雫は視線を泳がせ、少しだけ頬を染めた。
「今日は非番なの。たまたま近くまで来たから、ついでに寄っただけよ」
嘘だ、と悠真は直感した。彼女の自宅は学校から遠く離れており、休日にわざわざ学校の近くまで来る用事などないはずだ。彼女は悠真のためだけに来たのだ。その事実が、悠真の胸を熱くさせ、勉強で張り詰めていた神経を甘く解きほぐしていく。
「……座ってください」
悠真は自分の隣にある、荷物置き用の椅子を引いた。本来なら誰も座ることのない場所だが、今は彼女のために用意された特等席だ。雫は少し躊躇ったものの、やがて静かに腰を下ろした。距離が近い。彼女のスカートの裾が悠真のズボンに触れそうになり、清潔な石鹸の香りに混じって、普段は嗅ぐことのない甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「勉強、進んでる?」
彼女は身体を傾け、悠真のノートを覗き込んだ。
「はい。計画通り、基礎はほぼ終わりました。今は応用問題に入ってます」
「へえ……すごいじゃない」
雫は感心したようにノートのページをめくった。その白く華奢な指先が、悠真が書いた数式の上を滑っていく。
「この問題、解き方がすごく綺麗。論理的に整理されてるわ」
「先生の指導のおかげです」
「ふふ、お世辞が上手になったわね」
彼女はくすりと笑った。その笑顔は教師として生徒に向けるものではなく、年上の姉のような、あるいは恋人のような親密さを帯びており、悠真の心臓を高鳴らせた。彼は鼓動の音が聞こえてしまわないよう呼吸を整えながら、別の参考書を取り出した。
「あの、ここなんですけど……解説読んでもよくわからなくて」
それは古文の文法書で、助動詞の活用表が複雑に入り組んでいる箇所だった。
「どれ?」
雫がさらに身を乗り出した。彼女の顔が悠真の肩のすぐ近くまで寄り、髪の毛先が彼の頬を掠める。くすぐったいような、それでいて愛おしい感触。
「ああ、これはね……」
彼女は指先で参考書の文字を指し示した。
「この『る』は、自発の意味よ。文脈から判断するの」
彼女の指が動くたびに、悠真の視線もそれを追う。爪は綺麗に切り揃えられ、薄いピンク色のマニキュアが塗られた指先は、芸術品のように美しかった。
その指が、ふと止まった。悠真の手が、無意識のうちに彼女の指に触れていたのだ。参考書の上で、二人の指先が重なる。一瞬の静寂が訪れ、エアコンの音さえも消え失せたかのような真空の時間が流れた。悠真は指を引こうとはせず、雫もまた動こうとしなかった。触れた箇所から微弱な電流が流れ、全身の神経を痺れさせていく。冷房で冷えているはずの彼女の指先は、火傷しそうなほどの熱を帯びているように感じられた。悠真はゆっくりと、彼女の指に自分の指を絡ませた。
「……っ」
雫が小さく息を呑む気配がした。だが、拒絶はしない。彼女の視線は参考書に落ちたままだが、その横顔は夕焼けのように赤く染まり、長い睫毛が激しく震えている。悠真はさらに大胆に、彼女の手の甲を覆うように握りしめた。柔らかい。今まで知らなかった、大人の女性の手の感触。骨の細さ、皮膚の滑らかさ、そして皮膚の下で脈打つ血管の鼓動。そのすべてが悠真の独占欲を刺激し、理性のタガを外しにかかる。
「……先生」
悠真は掠れた声で囁いた。
「ダメよ……」
雫の声は、拒絶の言葉とは裏腹に甘く蕩けていた。
「ここは、学校よ……」
「誰もいません」
「鍵を……かけたでしょ?」
「かけました。だから、誰も入ってきません」
悠真は彼女の手を引いた。雫の身体が抵抗なく悠真の方へ傾き、二人の距離がゼロになる寸前まで近づく。彼女の瞳が潤んで悠真を見つめ返した。そこにあるのは教師としての理性ではなく、ただ一人の男を求める女の情欲だった。悠真は顔を近づけ、彼女の唇まであと数センチという距離に迫る。石鹸と香水の香りが濃厚に絡み合い、互いの吐息が混じり合う。キスができる。そう確信し、悠真が目を閉じた瞬間――。
コンコン。
乾いたノックの音が、静寂を無慈悲に切り裂いた。二人は弾かれたように身体を離した。心臓が早鐘を打ち、冷や水を浴びせられたような衝撃が走る。雫は慌てて立ち上がり、乱れた衣服を整えた。顔色は瞬時に蒼白になり、先ほどまでの陶酔は嘘のように消え失せている。悠真もまた、激しく波打つ動悸を抑え込みながら、平静を装って参考書に向き直った。
「……はい」
雫が震える声で応答すると、ドアが開き、図書委員の女子生徒が顔を出した。
「あ、新海先生。いらっしゃったんですね。……鍵の確認に来ました」
「ええ、ご苦労様。……大丈夫よ、私が責任を持って管理しているから」
雫は完璧な教師の顔で対応した。その声音には微塵の動揺も感じさせず、凛とした響きを取り戻している。生徒が一礼して去った後、重苦しい沈黙が部屋を満たした。雫は大きなため息をつき、崩れ落ちるように椅子に座り込んだ。
「……危なかった」
彼女は両手で顔を覆った。
「私、何を……生徒相手に、こんな場所で……」
自己嫌悪に陥る彼女を見て、悠真は申し訳なさと同時に、サディスティックな喜びを感じていた。彼女をここまで狂わせたのは自分だ。あの冷静沈着な新海雫が、理性を失いかけ、快楽に溺れそうになったという事実は、どんな合格判定よりも確かな「愛の証明」だったからだ。
「……ごめんなさい、先生。僕が、無理やり」
悠真が謝ると、雫は首を振った。
「ううん。……私も、どうかしていたわ」
彼女は顔を上げ、悠真を真っ直ぐに見つめた。その瞳には、もう迷いの色はなかった。
「悠真くん。……やっぱり、四年間は必要よ」
「え?」
「今のままじゃ、私はあなたに甘えてしまう。教師としての自分を保てなくなる。……それが怖いの」
彼女は立ち上がり、悠真の手を強く握った。今度は恋人としてではなく、教師として生徒を導くように、力強く。
「だから、お願い。……合格して。立派な男になって。私を、この『迷い』から救い出して」
それは彼女からのSOSだった。理性の限界を悟った彼女が、唯一の希望として悠真に託した切実な願い。悠真はその手を痛いほどに握り返した。
「任せてください。……絶対に、迎えに行きます」
二人の間で、新たな契約が結ばれた瞬間だった。指先の熱はもう冷めることはない。この熱を胸に、悠真は残りの夏を駆け抜けることを誓った。図書館の静寂の中、二人の心は言葉以上の何かで深く、強く繋がっていた。
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