第8話 孤独な試練の始まり
八月の太陽は慈悲など持ち合わせておらず、東陽県立翠洋高等学校の校庭には暴力的なまでの日差しが降り注いでいた。夏休みに入り生徒たちの喧騒が失われた学び舎は、乾ききった砂埃とアスファルトから立ち上る陽炎によって歪み、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。蝉時雨が脳髄を直接揺さぶるようなノイズとなって降り注ぐ中、遠くプールの方角から間延びした部活動の掛け声だけが響いていたが、今の瀬尾悠真にはそれら全てが別の世界の出来事のようにしか感じられなかった。彼は職員室の重い引き戸の前に立ち、じっと自身の掌を見つめていた。今日から夏期講習が始まるという事実は、同時に新海雫から課された「最初の試練」が本格化することを意味している。背中を伝い落ちる汗の不快感とは裏腹に、悠真の胸の内にあるのは暑さへの苛立ちではなく、冷たく研ぎ澄まされた緊張感だった。この扉の向こうに、愛しい人であり、同時に自分の人生を査定する冷酷な試験官でもある彼女がいるのだと認識するたび、心臓が早鐘を打つ。彼は深く息を吸い込み、肺の中に溜まった熱気を吐き出すと、意を決して引き戸に手をかけた。
ガラガラと音を立てて扉が開くと、途端に冷房の効いた人工的な冷気が肌を包み込み、外気との温度差に汗ばんだ皮膚が一瞬で粟立った。夏休み中の職員室は閑散としており、数人の教師がデスクワークをしているだけで独特の倦怠感が漂っている。コピー機の駆動音と、誰かが氷入りの飲み物をかき混ぜる音だけが静寂を際立たせる中、悠真の視線は迷うことなく国語科のデスクへと吸い寄せられた。そこに新海雫はいた。彼女はいつもの白衣姿ではなく、冷房対策と思われる薄手のサマーニットにカーディガンを羽織っており、その姿は彼女の華奢な身体をより一層儚げに見せていた。眉間に深い皺を寄せ、手元の書類に没頭するその表情には、教師としての厳しさと隠しきれない疲労の色が滲んでいる。悠真が足音を忍ばせて近づくと、気配を察した彼女が顔を上げ、眼鏡の奥の瞳で悠真を捉えた。その瞬間、彼女の瞳孔がわずかに収縮し、事務的な「教師の目」へと切り替わるのを悠真は見逃さなかった。彼女のデスクの上にはいつもの乱雑なプリントの山はなく、代わりに整然と置かれた一冊の分厚い青いファイルと、その上に載せられた小さな銀色の鍵だけがあった。
悠真がデスクの前に立つと、彼女は無言のままそのファイルを彼の方へ滑らせた。机の上を滑るプラスチックの擦れる音が、乾いた警告音のように響く。
「……これ、あなたのための夏休み学習計画表よ」
雫の声は氷のように冷徹で、感情の起伏を一切排除していた。悠真はファイルを手に取り、そのページを開いた瞬間、息を呑んだ。そこには狂気的とも言える密度でスケジュールが構築されていたからだ。八月一日から三十一日まで一日たりとも空白はなく、朝六時の起床から始まり夜十二時の就寝に至るまで、一時間刻みで科目が割り当てられている。食事、入浴、そしてわずかな休憩時間さえも分単位で厳密に管理されており、さらにページをめくると、各教科ごとの詳細な課題リスト、使用すべき参考書のページ数、達成すべき目標偏差値までもが、彼女の几帳面な文字でびっしりと書き込まれていた。
「基礎固めは、この八月中にすべて終わらせるわ。英語は単語帳二冊と文法書を徹底的に暗記すること。数学は数ⅠAの教科書レベルからやり直し。現代文は、論理的読解力を鍛えるために、私がリストアップした新書を毎日一冊読みなさい」
彼女は淡々と告げた。その内容の過酷さは、通常の受験生の倍以上の負荷を強いるものだったが、悠真はそこに彼女の歪んだ「愛」を見た。これだけの計画を立てるのにどれだけの時間を費やしただろうか。彼女自身の業務や縁談というプライベートな悩みを抱えながら、彼女は悠真のために時間を削り、思考を巡らせたのだ。この文字の羅列は単なる学習計画ではなく、彼女が悠真に託した未来への希望の重さそのものである。
「これだけの量をこなさなければ、E判定からの逆転なんて夢物語よ。……できる?」
雫が問いかけるその瞳には、挑発と、そして「できないと言ってほしい」という微かな弱気が同居しているように見えた。もし悠真がここで怖気づけば、彼女は傷つかずに済み、期待を裏切られる恐怖から解放されるからだ。だが、悠真は彼女の逃げ道を塞ぐように、ファイルを強く握りしめて即答した。
「やります。……全部、完璧にこなしてみせます」
迷いなどなかった。ファイルの重みが心地よい負荷となって腕に伝わり、彼女からの愛の鞭として悠真の独占欲をさらに昂らせる。悠真の答えを聞いて、雫は小さく息を吐いた。安堵か、それとも覚悟か、彼女の表情筋がわずかに緩んだように見えた。そして彼女は、ファイルの横に置かれた小さな鍵に指を触れた。蛍光灯の光を反射して冷たく光る、銀色のシンプルな鍵だ。
「……それと、これ」
彼女の声が少しだけ震え、周囲の教師たちに聞こえないよう意識的に声を潜めた。
「図書室の、特別閲覧室の鍵よ」
悠真は目を見開いた。特別閲覧室とは図書室の奥に位置する、本来なら教員の研究や特別な許可を得た論文執筆中の生徒しか使用できない個室スペースだ。防音扉で閉ざされ、冷房が完備された、校内で最も静寂が保証された聖域である。それを一介の受験生に貸し出すなど異例中の異例であり、彼女は悠真の実家からの通学時間の長さを考慮してくれたのだと理解した。これは教師としての倫理規定ギリギリの行為であり、あるいは既に一線を越えているのかもしれない。彼女は自分の立場を危険に晒してまで、悠真に「場所」を提供しようとしている。それは彼女なりの精一杯の支援であり、ある種の共犯関係への勧誘でもあった。
悠真が鍵に手を伸ばそうとした瞬間、雫はその鍵の上に自分の手を重ねて覆い隠した。白く細い指が鍵を守るように机に押し付けられ、彼女は上目遣いに悠真を見上げた。その瞳は湿り気を帯び、縋るような色が浮かんでいる。
「約束して。……この鍵は、勉強のためだけに使うこと。私を呼び出したり、密会場所にしたり……そういう不純な目的では、絶対に使わないこと」
彼女の言葉は震えていた。それは悠真への警告であると同時に、自分自身の理性が崩壊することへの恐怖の表れだった。誰も来ない密室、鍵のかかる部屋で二人きりになれば何が起こるか、彼女はそれを誰よりも恐れ、そして誰よりも鮮明に想像してしまっているのだ。悠真は鍵の上に置かれた彼女の手を見つめ、その手ごと鍵を握りしめたいという暴れ出しそうな衝動を奥歯を噛み締めて堪えた。今、彼女の信頼を裏切るわけにはいかない。この鍵は情欲を満たすための道具ではなく、未来を切り開くための武器なのだから。
「……約束します。この鍵は、四年後の再会へのパスポートだと思って、大切にします。……合格通知を手にするまでは、先生を困らせるようなことはしません」
悠真は彼女の目を見て、静かに、しかし力強く告げた。「再会へのパスポート」という言葉の意味を噛み締めるように雫の瞳が揺れ、彼女はゆっくりと、名残惜しそうに鍵から手を離した。残された鍵を悠真は慎重に摘み上げた。金属特有の冷たさが指先から全身へと伝播していくが、そこには確かに彼女の手のひらの熱が微かに残っており、それは言葉にできない彼女の想いの温度そのものだった。
「……そうね。四年後、あなたが立派な男になって戻ってくるための、最初の鍵よ」
彼女は少しだけ口角を上げ、微笑んだ。それは教師としての仮面の下から一瞬だけ覗いた、一人の女性としての儚くも美しい笑顔だった。その笑顔を見た瞬間、悠真の胸の奥で愛おしさが奔流となって溢れ出しそうになり、抱きしめたい、守りたい、この笑顔を誰にも渡したくないという感情が渦巻く。その激情を必死に理性で抑え込み、悠真はファイルを胸に抱いた。
「行って。……時間は、待ってくれないわ」
雫に促され、悠真は一礼して背を向けた。職員室を出るまでの数メートルがひどく長く感じられ、背中に彼女の視線が突き刺さっているのがわかる。それは戦場へ赴く恋人を見送るような、切実な祈りを帯びた視線だった。
廊下に出ると再び蒸し暑さが襲ってきたが、悠真はそれを心地よくさえ感じていた。掌の中の鍵を痛いほどに握りしめると、金属の角が皮膚に食い込む感触が現実感を伴って彼を鼓舞する。特別閲覧室は図書室のさらに奥、渡り廊下を越えた別棟にある。悠真は人気のない廊下を歩きながら窓の外を見た。空には巨大な入道雲が聳え立ち、その白さは眩しく、圧倒的な質量で夏を主張していた。これから始まる孤独な戦い。誰とも会話せず、社会との接点を断ち、ただひたすら文字と数字の羅列に向き合う日々。それは十七歳の少年にはあまりに過酷で色のない時間になるだろう。だが、怖くはなかった。この鍵がある限り、このファイルの計画表がある限り、彼女と繋がっていると感じられるからだ。彼女が引いてくれたレールの上を走ることは束縛ではなく、彼女との一体感を得るための儀式なのだ。
悠真は特別閲覧室の重厚なドアの前に立ち、鍵穴に銀色の鍵を差し込んだ。カチャリという乾いた金属音が静寂な廊下に響き、錠が外れる感触が指先に伝わる。それは彼の未来への扉が開く音でもあった。ドアノブを回し中へと足を踏み入れると、埃っぽい古書の匂いとひんやりとした静謐な空気が彼を迎えた。窓のない閉鎖的な空間、壁一面の本棚、そして部屋の中央には使い込まれた木製の机と椅子が一つだけ置かれている。そこは完全なる孤独の空間だった。悠真は机にファイルを置き、椅子に深く腰を下ろした。静かだ。自分の心臓の音さえ聞こえてきそうだ。彼はファイルを広げ、今日やるべき課題のページを開いた。びっしりと書き込まれた彼女の文字。その一つひとつから、彼女の几帳面さと不器用な優しさ、そして隠しきれない愛情が伝わってくる。愛されている。歪で、条件付きで、計算高い形ではあるけれど、確かに彼女は自分を見てくれているし、自分の未来に賭けてくれている。その確信が、悠真の胸に消えることのない青い炎を灯した。
「……見てろよ、雫」
初めて彼女の名前を呼び捨てにした。誰もいない部屋でその背徳的な響きは甘く、そして力強く反響し、壁に染み込んでいった。悠真はシャーペンを握りしめ、最初の一文字をノートに刻みつける。芯が紙を削る音が戦いの合図となって静寂を切り裂き、孤独な試練の夏が、今、始まった。
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