第7話 四年間の誓いと微かな震え
七月の湿った空気が、期末テスト前の緊迫感と混ざり合い、教室全体を気だるい熱気で包んでいた。瀬尾悠真は数学の教科書を開きながらも、視線は黒板の文字を素通りさせている。頭の中を占めているのは、昨日の雫との会話だった。『私の我慢にも、限界はあるのよ』という言葉が、呪いのように思考に絡みついている。
縁談相手の存在。見知らぬライバルの影。焦燥感が胃の腑を焼き、じっとしていられない衝動に駆られる。このまま机に向かっているだけでいいのか。もっと直接的に、彼女に自分の存在を刻み込む必要があるのではないか。だが、どうすればいい。悠真はシャーペンを回しながら、答えのない問いを反芻し続けた。
放課後、悠真は親友の斎藤陽太を捕まえた。
「陽太、ちょっと付き合えよ」
「はあ? テスト前だぞ。まさかゲーセンか?」
「違う。……話があるんだ」
悠真の真剣な表情に、陽太は怪訝そうな顔をしつつも、鞄を持って立ち上がった。二人は校舎裏の自動販売機コーナーへ向かう。ここは人目につきにくく、男子生徒たちの溜まり場になっている場所だ。悠真は缶コーヒーを二本買い、一本を陽太に投げた。
「で、なんだよ。改まって」
陽太はプルタブを開けながら、ベンチに腰を下ろした。悠真は立ったまま、一口コーヒーを啜る。苦味が口の中に広がった。
「俺、国立の教育学部受ける」
「ぶっ……マジで!? お前、この前の模試E判定だったじゃん」
陽太が吹き出しそうになる。
「本気だ。……教師になる」
悠真は陽太の目を見て断言した。陽太はしばらく悠真の顔をまじまじと見つめていたが、やがて呆れたように笑った。
「新海ちゃんか?」
図星を突かれ、悠真は言葉に詰まる。
「わかりやすいんだよ、お前。最近、やたらと職員室行ってるし、授業中の熱視線もヤバいぞ。で、どうなんだよ。脈ありなのか?」
「……条件付きだ」
「条件?」
「大学出て、教員になって、一人前の男になったら……考えてやるってさ」
悠真は少し脚色して伝えた。陽太は「うわあ」と声を上げた。
「きっつー。四年間お預けかよ。新海ちゃんもドSだなあ」
「ドSじゃない。……真面目なんだよ、あの人は」
悠真はムキになって否定した。
「自分じゃ決められないんだ。責任とか、世間体とか、そういうのに縛られてる。だから俺が、その縄を全部解いてやるんだ」
「へえ、かっこいいじゃん」
陽太は感心したように言ったが、すぐに真顔に戻った。
「でもな、悠真。四年は長いぞ。その間に新海ちゃんが他の男と結婚しちまう可能性だってある。ていうか、普通そっちの方が高いだろ」
悠真の心臓が嫌な音を立てた。
「……わかってる。だから、釘を刺しに行くんだ」
「釘?」
「俺の覚悟を見せて、逃げられないようにする」
悠真は空になった缶をゴミ箱に投げ入れた。乾いた音が響く。それは、自分自身への宣戦布告の音だった。
職員室は、テスト作成に追われる教師たちの殺気立った空気に満ちていた。コピー機の音が絶え間なく響き、電話のベルが鳴り止まない。悠真はその喧騒を縫って、新海雫のデスクへと向かった。
彼女はパソコンの画面を睨みつけながら、猛烈な勢いでキーボードを叩いている。眉間に深い皺が刻まれ、余裕のなさが全身から滲み出ていた。
「失礼します」
悠真が声をかけると、雫はビクリと肩を震わせ、顔を上げた。
「……瀬尾くん。また来たの?」
その声には、明らかに疲労の色が濃い。目の下には薄く隈ができている。
「質問があります。……進路のことで」
悠真は嘘をついた。進路のことなど、今はどうでもいい。ただ、彼女の顔を見て、自分の決意を伝えたかったのだ。
「今は忙しいの。テスト期間中でしょ」
雫は冷たくあしらおうとしたが、悠真は引かなかった。
「一分だけでいいです」
その強い口調に、雫は小さくため息をつき、椅子を回転させて悠真に向き直った。
「……何? 手短にお願い」
悠真は周囲を見回した。教師たちはそれぞれの仕事に没頭しており、こちらを気に留める様子はない。彼は一歩踏み出し、彼女のデスクに手を置いた。
「先生」
声を低くする。
「僕、決めました」
「……何を?」
「先生の責任になること」
雫の瞳が揺れた。
「……どういう意味?」
「先生が言った条件、全部クリアします。大学も、教員採用試験も。全部です」
悠真は彼女の目を真っ直ぐに見つめた。
「その代わり、先生も責任取ってください」
「責任って……」
「僕を、ここまでその気にさせた責任です」
悠真はさらに顔を近づけた。
「僕の人生、全部先生に捧げます。だから先生も、僕から逃げないでください」
それは、プロポーズにも似た、重く、そして狂おしい宣言だった。雫は言葉を失い、ただ悠真を見上げていた。
その時、悠真の視線が、彼女の袖口に留まった。白衣の袖から、細い手首が覗いている。その手首には、安っぽい腕時計が巻かれていた。悠真は衝動的に、その手首に手を伸ばした。
「……っ!」
雫が息を呑む。悠真の指先が、彼女の袖口に触れた。冷たい。彼女の肌は、冷房のせいか、それとも緊張のせいか、氷のように冷たかった。だが、その冷たさの下に、確かに脈打つ熱を感じる。ドクン、ドクンと、速いリズムで打つ脈拍。それが、彼女の動揺の証拠だった。
「……離して」
雫が震える声で言った。だが、抵抗する力は弱かった。彼女の手は、悠真の手に捕らえられたまま、小さく震えているだけだった。
「先生」
悠真は囁いた。
「手が、冷たいです」
「……冷房が、効きすぎてるからよ」
苦しい言い訳だった。悠真は彼女の手首を、包み込むように握りしめる。自分の掌の熱を、彼女に分け与えるように。
「僕が、温めます」
「……馬鹿なこと言わないで」
雫は顔を伏せた。耳まで赤くなっているのが見える。彼女は拒絶しない。教師という立場も、大人の理性も、今のこの瞬間だけは機能していない。ただ、一人の男と女として、そこに存在している。
「……悠真くん」
彼女が、蚊の鳴くような声で言った。
「……困るの。こういうことされると」
「困ればいいです」
悠真は残酷に告げた。
「もっと困らせます。先生が、僕以外何も考えられなくなるくらい」
雫は顔を上げ、潤んだ瞳で悠真を睨んだ。その瞳には、怒りよりも、どうしようもない愛おしさと、恐怖が入り混じっていた。
「……本当に、悪い生徒ね」
「先生が育てたんですよ」
悠真はそう言って、ゆっくりと手を離した。名残惜しさを指先に感じながら、一歩下がる。
「……テスト勉強、頑張ります。先生のために」
悠真は最後にそう言い残し、背を向けた。
職員室を出る時、背中に視線を感じた。振り返らなくてもわかる。彼女はずっと、自分を見送っているはずだ。あの袖口の感触。冷たさと、その奥にある熱。それを思い出すだけで、悠真の身体は熱く火照った。
四年間。長い。長すぎる。だが、耐えられる。あの震える手を、いつか堂々と握りしめることができる日が来るなら。そのために、自分はどんな苦痛も甘んじて受け入れるだろう。
悠真は拳を握りしめ、廊下を歩き出した。その足取りは、以前よりも強く、確かなものになっている。責任という名の誓いは、少年の衝動を、男の覚悟へと変えていく。その変化こそが、雫を最も追い詰め、そして惹きつける最大の武器になることを、悠真は本能的に悟っていた。
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