第6話 夢の輪郭と愛の競合
六月の長雨が、校舎を灰色の檻の中に閉じ込めていた。
窓ガラスを叩く雨粒が、絶え間ないノイズとなって教室の静寂を侵食している。放課後の教室には、湿気を含んだ重苦しい空気が停滞し、瀬尾悠真の思考を鈍らせようと纏わりついていた。
机の上には、先月実施された全国模試の結果表が無造作に広げられている。
E判定。
志望校欄に印字されたそのアルファベットは、悠真にとって見慣れた記号でありながら、今では心臓に突き刺さる棘となっていた。以前なら笑い飛ばしてゴミ箱行きだった紙切れが、今は新海雫との「契約履行状況」を示す冷酷な通知表に見える。
「……現実は、数字ね。情熱だけでは覆せない」
背後からかけられた声に、悠真は弾かれたように顔を上げた。
いつの間にか、教室の入口に雫が立っていた。雨の湿気を帯びた白衣が、彼女の身体のラインにしっとりと張り付いている。手には分厚い資料の束を抱えていた。
彼女は悠真の机の横まで歩み寄ると、模試の結果表を覗き込んだ。その眼差しは冷徹で、感情の揺らぎを一切見せない「評価者」のものだった。
「偏差値、五十二。国語は悪くないけれど、英語と数学が壊滅的。……これで国立大学を目指すと言うのなら、狂気としか言いようがないわ」
「まだ六月です。これから上げます」
悠真は結果表を裏返し、彼女の視線から隠した。強がりだと分かっていても、彼女に自分の「無力さ」を見せつけられるのは、裸を見られる以上に屈辱的だった。
雫は小さく息を吐き、隣の空いている席に腰を下ろした。
教室には二人きり。雨音がふたりの世界を外界から遮断している。
彼女から漂う微かな石鹸の香りが、湿った空気の中でより濃密に感じられた。だが、今日の彼女が纏っているのは、甘い雰囲気ではない。もっと鋭利で、冷ややかな「現実」の気配だ。
「悠真くん。あなた、教員採用試験の倍率を知っている?」
彼女は抱えていた資料の中から、一枚のプリントを取り出して悠真の前に置いた。そこには、東陽県における過去十年の採用倍率と、合格者の平均年齢、そして出身大学のデータが羅列されていた。
「高校国語の倍率は、ここ数年でさらに上がっているわ。七倍から八倍。単純計算で、八人に一人しか受からない。しかも、その中には非常勤講師として何年も現場経験を積んでいるライバルも含まれているの」
彼女の指先が、無機質な数字の上を滑る。その指は白く、細く、しかし残酷なほどに現実を指し示していた。
「大学に受かるのは、スタートラインに立つための切符を手に入れるだけ。本当の地獄は、その先にあるのよ。……あなたは、その八分の一という狭き門を、ストレートでくぐり抜けられる保証があると思っているの?」
雫の声は低く、静かだった。だが、その言葉の一つひとつが、悠真の楽観的な未来予想図を切り刻んでいく。
悠真は黙って数字を見つめた。
八倍。
それは単なる確率の話ではない。自分の愛が成就する確率が、限りなく低いという宣告に等しい。
「……やってみなければ、わかりません」
「やってみてダメだったら? 浪人して、講師をして、気づけば三十歳。……その時、私はもう三十代半ばよ。出産のタイムリミットも迫っているわ」
雫の言葉が、鋭い刃となって悠真の胸を抉る。
彼女にとって、悠真との交際は「時間」という資産を投資するギャンブルなのだ。失敗すれば、彼女の人生設計は修復不可能なダメージを負う。その責任の重さを、彼女は突きつけている。
「私にはね、時間がないの。あなたのように、夢を追って輝いていられる猶予はもう残されていない」
彼女は窓の外に視線を移した。雨に打たれるグラウンドのアスファルトが、黒く濡れて光っている。
「……先日、父から縁談の話があったわ」
唐突な告白だった。
悠真の心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
縁談。
その古臭い響きが、現代の、それも目の前にいる二十三歳の彼女の口から出たことに、強烈な違和感と焦燥を覚える。
「相手は、三十歳の県庁職員。父の知り合いの息子さんで、家柄も確か。真面目で、誠実で……公務員として既にキャリアを積んでいる方よ」
雫は悠真を見ずに、淡々と語り続けた。まるで、他人事のように。しかし、その声には、悠真にはない「確かなもの」を持つ相手への、ある種の諦めにも似た評価が含まれていた。
「年収も安定している。福利厚生もしっかりしている。結婚すれば、私は安心して仕事を続けられるし、産休や育休の心配もいらない。……父も母も、乗り気だわ」
悠真の中で、どす黒い感情が渦を巻いた。
嫉妬。
会ったこともないその男の顔が、脳裏に浮かぶ。スーツを着こなし、落ち着いた大人の余裕を漂わせ、雫の隣に並ぶ男。悠真が持っていない「社会的信用」と「経済力」という武器で武装した、見えないライバル。
そいつは、今の悠真が喉から手が出るほど欲しいものを、全て持っている。
「……その人と、結婚するつもりですか」
悠真の声は震えていた。怒りか、惨めさか、自分でも判別がつかない。
雫はゆっくりと悠真に向き直った。眼鏡の奥の瞳が、冷ややかな光を宿して彼を見据える。
「条件だけで言えば、申し分ない相手よ。あなたと違ってね」
彼女は残酷な事実を口にした。
悠真は唇を噛み締めた。血の味が広がる。
彼女は比較しているのだ。
未来の不確かな「投資物件」である悠真と、既に完成された「優良物件」である縁談相手を。天秤にかけているのだ。そして今の時点で、天秤は圧倒的にあちら側に傾いている。
「でも、断ったわ」
雫の言葉に、悠真は顔を上げた。
彼女は自嘲気味に笑っていた。
「まだ、会う気になれなかったから。……今のところはね」
「今のところは」。
その留保条件が、悠真の心に突き刺さる。
それは猶予期間だ。悠真が結果を出せなければ、彼女はいつでもその安全な選択肢へと逃げ込むことができる。そのための保険を、彼女は確保しているのだ。
卑怯だ。
そう罵ることもできただろう。だが、悠真はそうしなかった。
彼女がその選択肢を選ばずに、ここで自分にその話をしている意味。
それは、挑発だ。
「私を繋ぎ止めておきたければ、この男を超えてみせろ」という、彼女なりの激しい叱咤激励なのだ。彼女は安全な道を選びたいという理性を、悠真という情熱でねじ伏せてほしいと願っている。
「……そいつより、僕の方がいい男になります」
悠真は机の下で拳を固く握りしめ、彼女を睨みつけた。
「公務員? 安定? そんなもの、四年後には僕が全部持っているものです。それに加えて、僕にはそいつが絶対に持っていないものがある」
雫が眉を上げた。「何?」と問いたげな顔をする。
「あなたへの執着です。その男は、条件であなたを選んだのかもしれない。でも僕は、新海雫という人間そのものに執着している。その熱量だけは、誰にも負けない」
悠真は身を乗り出した。彼女の顔が近づく。
恐怖に揺れる瞳。
彼女は、悠真の若さが持つ暴力的なエネルギーに怯えながらも、それに焦がれている。
「見ていてください。その縁談相手なんて、僕の引き立て役にしてみせます。先生が『あの時、あっちを選ばなくてよかった』と心底安堵するくらい、圧倒的な結果を出しますから」
宣言する悠真の瞳には、もはや迷いはなかった。
見えないライバルの存在は、彼の嫉妬心を燃料に変え、闘志という炎を爆発的に燃え上がらせていた。E判定の文字も、八倍という倍率も、今の彼には乗り越えるべきハードルの一部でしかない。
雫はしばらくの間、呆気にとられたように悠真を見ていた。
やがて、彼女はふっと息を吐き、口元を緩めた。それは教師としての仮面が外れた、素の表情だった。
「……口だけは、一人前ね」
彼女は立ち上がり、資料を胸に抱き直した。
「いいわ。その言葉、覚えておく。……でもね、悠真くん」
彼女は出口へ向かいながら、背中越しに言った。
「私の我慢にも、限界はあるのよ。……あまり、待たせないで」
最後の一言は、雨音にかき消されそうなほど小さかった。
だが、悠真の耳には確かに届いた。
それは脅しではなく、彼女の孤独な叫びだった。理性の檻の中で、社会的な圧力と戦いながら、ただ一人で悠真を信じようとしている彼女の、悲鳴にも似た祈り。
悠真は彼女の背中が見えなくなるまで見送った後、再び机に向き直った。
シャーペンを握る手に力がこもる。
プラスチックの軸がきしむ音がした。
縁談相手。見知らぬ男。
そいつの存在が、悠真の背中を蹴り飛ばした。
絶対に渡さない。
悠真は問題集を開いた。ページをめくる音が、宣戦布告の合図のように、静かな教室に響き渡った。窓の外では雨が激しさを増していたが、悠真の身体は、芯から熱く燃えていた。
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