第5話 責任という名の進路指導


 自宅の学習机に向かう瀬尾悠真の背中は、以前とは別人のような冷ややかな熱気を帯びていた。

 深夜二時。

 部屋の明かりは手元のスタンドライトだけに限られている。円錐形の光の中に浮かび上がるのは、赤本と参考書の山だ。シャーペンの芯が紙を走る音だけが、静寂を規則的に刻んでいる。

 数日前まで、彼の夜は新海雫への妄想で満たされていた。彼女の肌の感触、匂い、甘い声を想像し、自慰行為に耽ることも一度や二度ではなかった。だが今、彼の性的な衝動は、すべて異質なエネルギーへと変換されていた。

 数式を解く。古文の単語を覚える。現代文の論理構造を分解する。

 それら一つひとつの行為が、雫の身体に触れるための「手順」となっていた。偏差値を一上げることは、彼女の服のボタンを一つ外すことに等しい。合格判定のランクを一つ上げることは、彼女との距離を一歩詰めることと同義だ。

 不純で、しかしこれ以上なく純粋な動機。

 悠真はふと手を止め、窓の外を見た。郊外の住宅街は深い闇に沈んでいる。

 ここから大学までは、電車とバスを乗り継いで片道二時間近くかかる。往復四時間。その時間は、四年間という限られた「契約期間」において、致命的なロスになる。

 それに何より、実家という温ぬるい環境に身を置いていては、「自立した男」という彼女の提示した条件を満たすことはできない。親の庇護下で洗濯された服を着て、親が作った食事を食べているうちは、彼女にとって自分は永遠に「子供」のままだ。


 翌朝、悠真は朝食の席で両親に切り出した。

「国立大学の教育学部を受ける。……合格したら、大学の近くで一人暮らしをさせてほしい」

 味噌汁を啜っていた父の手が止まり、母が驚いたように箸を置いた。

「一人暮らしって……あんた、家から通えない距離じゃないでしょう」

 母の当然の指摘に、悠真は用意していた論理を淡々と述べた。

「往復四時間を勉強と研究に充てたいんだ。それに、教員になるためには自律的な生活能力が必要だと思う。家賃と生活費は、奨学金とバイトで何とかする。初期費用だけ、貸してほしい」

 父は黙って悠真を見ていた。今まで進路になど興味を示さず、何となく生きてきた息子が、突然見せた明確な意思表示。その瞳の奥に宿る、何かに取り憑かれたような光に、父は気圧されたように頷いた。

「……本気なんだな」

「ああ。人生を賭けてる」

 悠真の言葉に嘘はなかった。

 両親は、それが「教師になりたい」という夢への情熱だと解釈しただろう。だが、その「人生」の中心にいるのが、一人の年上の女性であることなど知る由もない。

 了承を得た瞬間、悠真の中で一つの楔が打ち込まれた。

 退路は断たれた。

 物理的な距離を置くことは、同時に孤独を選ぶことだ。だが、その孤独こそが、雫への愛を証明する祭壇となる。


     *


 昼休みの給湯室は、女性教師たちの束の間の聖域だ。

 新海雫は、自分専用のマグカップにインスタントコーヒーを注ぎながら、重いため息をついた。立ち上る湯気が、眼鏡のレンズを白く曇らせる。

「……あら、新海先生。お疲れのようね」

 声をかけてきたのは、同僚の沢村理恵だった。三十代半ばのベテラン国語教師で、雫が公私ともに頼りにしている先輩だ。既婚者であり、現実的な恋愛観を持つ彼女は、雫の潔癖すぎる理想論をいつも笑い飛ばしていた。

「沢村先生……。いえ、ちょっと、生徒のことで」

 雫は曖昧に濁したが、沢村の鋭い視線は誤魔化せなかった。

「例の、イケメンくん? 瀬尾悠真だっけ」

 心臓が跳ねる。雫は動揺を悟られないよう、コーヒーを一口啜った。苦味が舌を刺激し、少しだけ理性を覚醒させる。

「……彼が、志望校を変えたんです。東陽国立大の教育学部にするって」

「へえ! 大きく出たわね。今の成績じゃ箸にも棒にもかからないでしょう?」

「ええ。無謀です。でも……」

 雫は言葉を詰まらせた。

 昨日の放課後、進路指導室で見せた彼の目を思い出していた。

 『先生にとっての超優良企業になります』

 あの生意気で、不遜で、けれど痛いほど真っ直ぐな宣言。経済的な条件という、大人の汚い盾を突きつけたにもかかわらず、彼はそれを侮蔑するどころか、攻略すべき「ゲームのルール」として受け入れたのだ。

「……本気なんです、彼。ただの思いつきじゃなくて、何というか……執念のようなものを感じて」

 沢村は給湯器のボタンを押し、自分のカップにお湯を注ぎながら、面白そうに口角を上げた。

「若い男の子の情熱なんて、ガソリンみたいなものよ。着火すれば凄まじい爆発力を生むけど、燃え尽きるのも早いわ」

「そう、ですよね……」

 雫は自分に言い聞かせるように同意した。

 そうだ。一時の熱病だ。受験勉強の過酷さ、現実の壁、そして四年間という時間の重みに、彼の幼稚な恋心などすぐに磨耗して消え失せるはずだ。

 そうであってほしい、と思う反面、胸の奥底で別の感情が蠢くのを感じた。

「でもね」

 沢村はコーヒーの香りを楽しみながら、独り言のように続けた。

「もし、そのガソリンで最後まで走りきれたら……それは『本物』に化けるかもしれないわね」

「……化ける?」

「男はね、女のために変われる生き物なのよ。特に、手が届きそうで届かない『高嶺の花』を前にした時はね」

 沢村は悪戯っぽい目で雫を見た。

「あなたが彼を育ててあげてるのかもしれないわよ? 一人前の、いい男に」

 雫は顔が熱くなるのを感じた。

「そ、そんなんじゃありません。私はただ、教師として……」

「はいはい、そういうことにしておきましょう」

 沢村は笑って給湯室を出て行った。

 残された雫は、冷めかけたコーヒーを見つめた。水面に自分の顔が映っている。そこにあるのは、教師の顔ではない。不安と、そして認めたくないほどの「期待」に揺れる、一人の女の顔だった。

 もし彼が本当にやり遂げたら。

 私が課した無理難題をすべてクリアして、私の前に現れたら。

 その時、私はまだ「教師」という安全地帯に留まっていられるだろうか。それとも、彼という「責任ある愛」の腕の中に、堕ちてしまうのだろうか。


     *


 放課後の職員室。

 西日が差し込み、書類の山をオレンジ色に染め上げていた。生徒の出入りも減り、静けさが戻り始めた時間帯。

 「失礼します」

 聞き慣れた、しかし以前より低く落ち着いた声が響いた。

 悠真だった。

 彼は国語科のデスクへ真っ直ぐに向かってきた。その歩き方には、以前のような、雫の視線を意識した媚びや甘えは一切ない。目的を持った男の、無駄のない足取りだった。

 雫はペンを置き、彼を見上げた。

「……進路調査票の再提出と、あと、これをお願いします」

 悠真が差し出したのは、調査票と、もう一枚の書類だった。

 『下宿許可願』。

 雫は目を見開いた。

「下宿……? 瀬尾くん、自宅から通える範囲でしょう?」

「通学時間の無駄を省きたいんです。それに……」

 悠真は周囲に他の教師がいることを確認し、声を潜めた。だが、その視線だけは、強烈な熱を持って雫を射抜いていた。

「親元を離れて、一人で生活する。それが『自立』の第一歩だと判断しました」

 雫は息を飲んだ。

 彼は、昨日の会話を――「経済的な基盤」や「責任」という言葉を、即座に行動に移したのだ。

 単なる勉強のためではない。これは彼なりの、雫に対する「宣誓」だった。親の庇護下にある子供という立場を捨て、リスクを背負ってでも、雫と同じ「生活者」としての土俵に上がろうとする意志。

 書類を受け取る雫の指先が、微かに震えた。

 紙一枚の重さが、鉛のように感じられる。

「……ご両親は、許可されたの?」

「はい。説得しました」

 短く答える彼の顔には、以前のような少年っぽさが薄れ、精悍な影が落ちていた。

 たった数日で、人はこれほど変わるものなのか。

 雫は認めざるを得なかった。目の前にいるのは、もはやただの生徒ではない。自分の人生を脅かし、同時に彩ろうとする、「対等な愛の可能性」を持った存在なのだと。

「……わかりました。預かります」

 雫は事務的に答えようと努めたが、声が少し上擦った。

 彼女は判子を取り出し、許可願の確認欄に押印した。朱色の円が、書類に刻まれる。それは教師としての承認印でありながら、彼との契約更新のサインのようにも思えた。

「受験勉強、厳しくなるわよ。覚悟はいいわね」

 雫が顔を上げて言うと、悠真は薄く笑った。それは余裕の笑みではなく、困難を歓迎するような、肉食獣の笑みだった。

「望むところです。……先生も、覚悟しておいてください」

 何に対しての覚悟か。

 言葉にしなくても、二人にはわかっていた。

 悠真は一礼し、背を向けて歩き出した。

 その背中を見送りながら、雫は無意識に胸元を押さえた。動悸が激しい。

 恐怖。焦燥。そして、胸の奥底から湧き上がる、甘く疼くような感覚。

 彼女は自分が築いた「理性の檻」の鍵が、内側からではなく、外側からこじ開けられようとしている音を聞いた気がした。

 責任という名の進路指導。

 それは、悠真を縛る鎖であると同時に、雫自身を彼に繋ぎ止める、逃れられない運命の糸になり始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る