第4話 結婚という経済的契約
翌日の放課後、瀬尾悠真は再び進路指導室の扉の前に立っていた。
手には、一枚の紙が握られている。昨夜、何度も書き直し、消しゴムの屑で机を白く染めながら完成させた進路希望調査票だ。
第一志望校の欄には、「東陽国立大学 教育学部」の文字が、筆圧強く刻まれている。現在の彼の偏差値からすれば、それは無謀な挑戦であり、教師たちから見れば悪い冗談にしか映らないだろう。
だが、これは単なる進学希望ではない。
新海雫という女性に対する、契約書の草案だった。
ノックをすると、昨日と同じ、少し緊張を帯びた声が返ってきた。
扉を開ける。
室内の空気は相変わらず重く、淀んでいる。だが、昨日と違うのは、新海雫の表情だ。彼女はどこか疲弊しており、その瞳には深い陰りが落ちていた。
悠真が無言で調査票を差し出すと、彼女はそれを受け取り、視線を落とした。
長い沈黙が流れる。
彼女の視線が「東陽国立大学」の文字の上で止まり、微かに揺れた。
「……本気なのね」
彼女は顔を上げずに呟いた。その声には、呆れと、そして隠しきれない戸惑いが混じっている。
「言われた通りにしましたよ。国立大学。教育学部。文句はないはずです」
「E判定よ。今のあなたの成績では、奇跡が起きない限り無理だわ」
「奇跡じゃありません。計画です」
悠真は椅子に座り、彼女を正面から見据えた。
雫は小さく溜息をつき、眼鏡を外した。素顔になった彼女は、教師というよりも、疲れ切った一人の若い女性に見える。彼女は指先で目頭を押さえながら、独り言のように漏らした。
「……沢村先生が、言っていたわ」
沢村理恵。雫の同僚であり、現実主義者として知られる国語教師だ。職員室で何度か、雫と親しげに話しているのを見たことがある。
「女の人生における結婚は、永久就職と同じだと」
雫は眼鏡を掛け直し、再び「教師」の顔を作って悠真を見た。だが、その口調は冷徹な講義のようでありながら、どこか自分自身に言い聞かせているような響きがあった。
「愛だの恋だのという感情は、採用面接における『熱意』のようなものよ。あれば評価はされるけれど、決定打にはならない。企業が本当に求めているのは、実務能力と、安定した実績。結婚も同じよ」
彼女は悠真の調査票を、指先で弾いた。乾いた音が室内に響く。
「あなたがどれだけ私を好きだと叫んでも、それは『熱意』に過ぎない。生活という現場では、何の役にも立たないの」
悠真は拳を握りしめた。
彼女の言葉は、愛という神聖な感情を、薄汚れた経済活動へと引きずり下ろすものだった。屈辱的で、あまりにも即物的だ。だが、悠真は怒鳴り散らす代わりに、彼女の瞳の奥にあるものを探った。
そこにあるのは、冷酷さではない。
怯えだ。
彼女は怖がっているのだ。感情という不確かなものに人生を委ねることを。だからこそ、数字や条件といった「目に見えるもの」でバリケードを築き、その内側に引きこもろうとしている。
「先生は、僕をリスクだと思っているんですね」
「ええ、最大のリスクよ。十七歳の男子高校生なんて、暴落する可能性が高い不良債権みたいなものだわ」
雫は自嘲気味に笑った。
「私の母は、父と結婚して幸せだったと言うわ。父には安定した収入があった。社会的地位があった。だから母は、安心して家庭を守れたの。……愛はね、悠真くん。経済的な土台があって初めて、花開くものなのよ」
彼女は初めて、悠真の名前を呼んだ。
その響きに、悠真の心臓が跳ねる。彼女は無意識のうちに、教師と生徒という枠組みを外し始めている。
雫は立ち上がり、窓際へと歩み寄った。ブラインドの隙間から差し込む西日が、彼女の白衣を黄金色に染める。その背中は、あまりにも華奢で、誰かに支えられることを渇望しているように見えた。
「私は、失敗したくないの。……キャリアも、人生も。だから、不確かなものは一切排除したい」
彼女の言葉は、悲痛な叫びだった。
沢村という同僚の言葉を借りてはいるが、それは雫自身の本音だ。女子校育ちの純粋さと、社会人としての現実的な責任感。その狭間で引き裂かれそうになっている彼女を、悠真は痛いほどに感じた。
愛を「就職活動」と定義することでしか、彼女は自分を守れないのだ。
ならば。
悠真がやるべきことは一つだ。
彼は立ち上がり、彼女の背後に立った。触れそうで触れない距離。彼女の髪から漂う石鹸の香りが、彼の嗅覚を甘く刺激する。
「なら、証明します」
悠真は彼女の背中に向かって告げた。
「僕が、先生にとっての『超優良企業』になります。絶対に倒産しない、一生安心して働ける、最高の就職先に」
雫の肩が震えた。
彼女はゆっくりと振り返る。逆光の中で、彼女の瞳が潤んでいるのが見えた。
「……馬鹿ね。そんなこと、誰にも保証できないわ」
「保証します。僕の人生を担保にして」
悠真は一歩踏み出し、彼女を壁際に追い詰めた。
逃げ場を失った雫は、壁に背中を押し付ける。悠真の手が、彼女の顔の横の壁につかれた。いわゆる「壁ドン」の形だが、そこに甘い雰囲気はない。あるのは、契約を迫る男の、容赦のない圧力だけだ。
「四年後、僕が教員採用試験に合格し、先生の前に立った時。……その時こそ、採用通知を出してください」
至近距離で見る彼女の肌は、緊張で蒼白になりながらも、紅潮した熱を帯びていた。唇が微かに震え、吐息が悠真の顔にかかる。
彼女は拒絶しなかった。
悠真の瞳から視線を逸らそうともしない。
彼女の理性は「ノー」と叫んでいるはずだ。だが、彼女の本能は、悠真の提示した「責任という名の愛」に、強烈に惹きつけられている。
「……不採用なら?」
「その時は、何度でも再応募します。先生が根負けするまで」
雫は小さく息を吐き、力の抜けたように微笑んだ。それは、諦めにも似た、しかしどこか安堵を含んだ笑みだった。
「……ブラック企業ね、あなたは」
彼女はそっと悠真の胸に手を当て、軽く押し返した。拒絶の力は弱々しい。
「いいわ。そのエントリーシート、預かっておく。……ただし、審査は厳しいわよ」
彼女は机の上の調査票を顎でしゃくった。
契約は成立した。
愛は、経済的な契約という歪な形をとって、二人の間に結ばれた。だが悠真にとって、形などどうでもよかった。重要なのは、彼女が「待つ」ことを承諾したという事実だ。
悠真は彼女から離れ、一礼した。
「期待していてください。新海面接官」
部屋を出る際、悠真は確かな手応えを感じていた。
彼女が提示した「経済的契約」というハードル。それは彼女を守る盾であると同時に、悠真を男として成長させるための、残酷で愛おしい試練となった。
彼女の不安をすべて喰らい尽くし、その人生を丸ごと背負う覚悟。
それが、今の悠真にある「愛」の正体だった。
廊下に出ると、夕闇が迫っていた。校舎の影が長く伸び、悠真の足元を覆い隠す。彼はその闇の中を、光の射す方へと向かって歩き出した。四年という長い旅路の、最初の一歩を踏みしめながら。
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