第3話 距離を測る定規
放課後の進路指導室は、外界から切り離された真空地帯のようだった。
分厚い扉が廊下の喧騒を完全に遮断している。室内には、古びたエアコンが吐き出す低い駆動音だけが、重苦しく響いていた。窓は閉め切られている。循環することのない空気が、澱のように溜まっていた。
瀬尾悠真は、パイプ椅子に浅く腰掛けていた。対面に座るのは、新海雫だ。
二人の間には、スチール製の無機質な長机が横たわっている。それは単なる家具ではない。教師と生徒、大人と子供、守る者と守られる者。二つの異なる世界を隔てる、冷たく強固な境界線として機能していた。
先日の職員室での出来事以来、雫の態度は明らかに変化していた。
彼女は徹底して「教師」という役割に徹しようとしている。白衣の襟を正し、黒縁の眼鏡の奥から、感情を削ぎ落とした眼差しを悠真に向けていた。だが、その完璧な防御態勢こそが、悠真には彼女の動揺の裏返しに見えてならなかった。
机の上に広げられているのは、悠真の成績表と進路希望調査票だ。
「……瀬尾くん。あなたの成績なら、県内の国立大学は十分に狙えます」
雫が事務的な口調で切り出した。彼女の視線は、悠真の顔ではなく、手元の書類に固定されている。
「文学部への進学を希望しているようですが、具体的な将来のビジョンはありますか。ただ何となく、では困ります」
彼女はボールペンを走らせながら、淡々と問いかける。その指先は、微かに白く変色していた。ペンを握る力があまりに強すぎるのだ。
悠真は黙って彼女を見ていた。
彼女が必死に築き上げようとしている「指導」という名の防壁。それを崩す言葉を、彼はすでに用意していた。
将来のビジョン。そんなものは明確だ。
彼女だ。
彼女を手に入れること。彼女の人生に食い込むこと。それ以外に、今の彼を突き動かす衝動など存在しない。
「先生」
悠真が口を開くと、雫の肩がピクリと反応した。
「進路の話じゃありません。僕が話したいのは」
「今は進路指導の時間です。私的な話なら聞きません」
彼女は顔も上げずに遮った。その頑なな拒絶が、悠真の導火線に火をつける。
彼は身を乗り出した。スチール机に両手をつき、物理的な距離を強制的に縮める。
「僕を見てください」
命令に近い懇願だった。
雫が息を飲み、ようやく顔を上げた。
視線が絡み合う。
彼女の瞳が揺れていた。理性の檻の中で、不安と、そして隠しきれない「熱」が暴れているのが見えた。職員室で触れた時の、あの震えが蘇る。
「……座りなさい。近すぎます」
「先生は、僕を子供扱いして逃げているだけだ」
「教師が生徒を指導するのは当たり前です。逃げてなどいません」
「なら、なんでそんなに震えてるんですか」
悠真の指摘に、雫は言葉を詰まらせた。彼女は自分の手を隠すように、デスクの下へと滑り込ませる。
逃がさない。
悠真は確信した。彼女は鉄壁ではない。むしろ、脆い。二十三歳という年齢は、大人ぶるには若すぎた。女子校育ちで免疫のない彼女にとって、異性からの直接的な好意は、恐怖であると同時に、抗いがたい甘美な毒なのだ。
悠真は、深呼吸をした。
肺の奥まで、彼女の香り――清潔な石鹸の匂いと、微かな汗の匂いが入り混じった、生身の女性の匂い――を取り込む。
「好きです、先生」
言葉にした瞬間、部屋の空気が凍りついたように静まり返った。
エアコンの音さえも遠のく。
雫の時間が停止した。
彼女の白い頬が、瞬く間に朱に染まっていく。それは羞恥や怒りではない。予想していたけれど、実際に突きつけられた「愛の言葉」に対する、純粋な高揚反応だった。彼女の唇が半開きになり、言葉を探してパクパクと動く。
その無防備な表情は、教師のものではない。初めて男に愛を告げられた、一人の少女の顔だった。
「あ……、あ、なた……何を……」
彼女の声は掠れていた。
「生徒とか、教師とか、そんなの関係ない。僕は、一人の男として、新海雫という女性が欲しいんです」
悠真は畳み掛けた。
独占欲が言葉となって溢れ出す。彼女の視線、彼女の時間、彼女の心。そのすべてを自分だけのものにしたい。誰にも渡したくない。
雫は椅子に背中を押し付けた。悠真の言葉の熱量に圧倒され、物理的に後ずさろうとしている。だが、彼女の瞳は悠真から離れない。いや、離せないのだ。
沈黙が落ちた。
数秒、あるいは数分にも感じられる時間。
やがて、雫は大きく息を吐き出した。
彼女は目を閉じ、自身の胸元に手を当てて、激しく打つ心臓を落ち着かせようとする。そして、再び目を開けた時、そこには先ほどまでの「怯える少女」はいなかった。
代わりに現れたのは、冷徹な計算機の目をした「大人の女性」だった。
「……嬉しいわ。正直に言うと」
彼女の声は、驚くほど冷静だった。だが、それは氷のように冷たい理性の膜で覆われた声だ。
「異性として好意を持たれること。それは、誰だって悪い気はしないものよ。ましてや、私は……こういう経験に慣れていないから」
彼女は自嘲気味に笑った。それは悠真にとって、予想外の反応だった。拒絶されるか、激昂されるかと思っていた。だが、彼女は受け止めたのだ。その上で、何か別のものを突きつけようとしている。
「でもね、瀬尾くん。愛だの恋だのと言っていられるのは、あなたがまだ『守られている側』の人間だからよ」
雫は立ち上がった。
ヒールの音が、コンクリートの床に硬質な音を立てる。彼女は窓際へと歩き、ブラインドの隙間から外を覗いた。
「現実は、甘くないわ。愛だけでお腹は満たせない。情熱だけで屋根は作れない」
彼女は振り返った。逆光の中、その表情は影になって見えない。だが、声には明確な「拒絶の意志」とは異なる、重い響きがあった。
「私は二十三歳。もう社会人なの。結婚というものを、リアルな生活の契約として考えなければならない年齢なのよ」
契約。
その単語が、ロマンチックな告白の場に、冷や水を浴びせるように響いた。
「私の母は言っていたわ。結婚は、生活の安定だと。父は言っていたわ。責任のない男に、愛を語る資格はないと」
彼女は一歩、また一歩と悠真に近づいてくる。
それは、物理的な距離を詰める行為ではない。彼に「現実」という名の刃を突きつけるための接近だった。
彼女は机を挟んで、再び悠真と対峙した。
「あなたが私を欲しいと言うなら。……その感情に、責任を持てるの?」
雫の瞳に宿っていたのは、試すような光だった。
彼女は悠真の愛を否定しなかった。だが、その代わりに、途方もなく重い条件を提示しようとしている。
「大学を卒業しなさい。そして、定職に就きなさい」
彼女は指を四本立てた。
「四年。……四年間よ」
それは、悠真にとって永遠にも等しい時間の長さだった。
「あなたが社会に出て、一人前の男として自立し、経済的な基盤を確立するまで。私はあなたを『男』としては見ない。ただの『教え子』として扱うわ」
「……金と、地位ですか。それが先生の愛の条件なんですか」
悠真は低い声で唸った。屈辱感が胸を焼く。純粋な情熱を、経済的な秤にかけられたような気分だった。
だが、雫は動じなかった。
「ええ、そうよ。汚いと思う? でもね、これが大人の責任なの」
彼女は眼鏡の位置を直した。その指先は、もう震えていなかった。彼女は「現実」という最強の盾を手に入れたことで、悠真と対等、いや、優位な立場に立ったのだ。
「私は、自分のキャリアを大切にしたい。生活のレベルを落としたくない。そして何より……不安定な感情だけで、人生を棒に振りたくないの」
彼女の言葉の裏にある本音が、悠真には透けて見えた。
彼女は怖いのだ。
悠真という予測不能な存在に、人生をかき乱されることが。だからこそ、「経済力」や「社会的地位」という、数値化できる「定規」で彼を測ろうとしている。
それは拒絶ではない。
「ここまで登ってきなさい」という、挑発であり、懇願だった。
安全圏からしか愛せない彼女の、精一杯の妥協案。
悠真の中で、屈辱感が別の感情へと変質していく。
闘志だ。
彼女がそこまで言うなら、証明してやる。
愛は衝動だけではない。継続であり、責任であり、そして彼女の望む「現実」をすべて叶える力であることを。
「……わかりました」
悠真は立ち上がった。
パイプ椅子が床を擦り、不快な音を立てる。
彼は机に手をつき、彼女の顔を真っ直ぐに見据えた。
「四年間。……大学を出て、就職すればいいんですね」
「……国立大学よ。それも、教育学部」
雫が条件を吊り上げた。
「私の父は元校長よ。教育者として恥ずかしくない、立派な教員になりなさい。それが最低条件よ」
それは無理難題に近かった。今の悠真の成績では、地元の国立大教育学部はE判定だ。
だが、悠真は笑った。
口の端を歪め、獰猛な笑みを浮かべた。
難易度が高ければ高いほど、燃える。それが彼女を手に入れるための代償ならば、安いくらいだ。
「いいでしょう。……その条件、飲みます」
悠真の宣言に、雫の目が驚きで見開かれた。彼女は悠真が怖気づき、諦めることを期待していたのかもしれない。あるいは、それを恐れていたのか。
「その代わり、先生。……覚えておいてください」
悠真は机越しに、彼女のネームプレートに指を伸ばした。
「僕は、必ず戻ってくる。先生が作ったその『定規』の目盛りを、すべて満たして」
彼の指先が、ネームプレートの「新海」の文字をなぞる。
「その時、先生はもう逃げられない。僕の愛を、責任という形で受け取ってもらいます」
それは、愛の告白というよりは、宣戦布告だった。
そして、一方的な契約の締結でもあった。
雫は言葉を失っていた。彼女の計算を超えた悠真の覚悟に、理性の盾が再びヒビ割れそうになっていた。彼女の喉が動き、何かを言おうとして、結局は沈黙を選んだ。
その沈黙こそが、契約成立の証だった。
悠真は鞄を肩にかけ、進路指導室の扉へと向かった。
背中に感じる彼女の視線は、熱く、そして重かった。
扉に手をかけた時、悠真は一度だけ振り返った。
雫は、まだ机の前に立ち尽くしていた。西日がブラインドの隙間から差し込み、彼女の姿を縞模様に切り取っている。その姿は、まるで檻の中にいる囚人のように見えた。
理性の檻。
彼女は自らそこに鍵をかけ、悠真が入ってくるのを待っているのだ。
四年。
長い道のりだ。だが、ゴールは明確になった。
悠真は重い扉を開け、廊下へと出た。
閉ざされた扉の向こうに残した彼女の香りを、肺の奥で反芻する。
今日のこの屈辱と、そして興奮を、彼は一生忘れないだろう。愛が「契約」に変わった瞬間。少年が、男になるための残酷なレースのスタートラインに立った瞬間を。
廊下の窓から見える空は、血のような茜色に染まっていた。その色は、これから始まる過酷な日々と、彼の中で燃え盛る独占欲の色そのものだった。
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