第2話 沈黙と放課後の誘惑


 放課後を告げるチャイムの音が、鼓膜の奥で不快なほど甲高く反響していた。

 日常へと回帰する合図は、教室内の空気を一瞬で弛緩させる。友人たちが交わす談笑や、机を動かす摩擦音。それらが波のように押し寄せてくるが、瀬尾悠真の感覚は水底に沈んだように鈍いままだ。

 彼の意識は、依然としてあの瞬間に釘付けになっていた。新海雫が残していった、微かな石鹸の香り。そして、彼の言葉に動揺し、理性の仮面を揺らがせた瞬間の、あの潤んだ瞳。


「おい、瀬尾。お前、さっきのあれ、マジかよ」


 クラスメイトの軽い調子の声が、悠真の思考に割り込む。


「新海ちゃん相手に『愛の責任』とか、お前、チャレンジャーすぎるだろ。顔真っ赤にして怒ってたじゃん」


 悠真は無言で教科書を鞄に放り込んだ。彼らには、あのやり取りが単なる「生意気な生徒と、それに手を焼く新任教師」という構図にしか見えていないのだ。だが、悠真だけが知っている。彼女の頬を染めていた赤色の正体が、怒りなどという単純な感情ではないことを。あれは、図星を突かれた人間が見せる狼狽であり、踏み込まれてはならない領域を侵された女の、本能的な反応だった。


「……ただの、議論だよ」


 短く吐き捨て、悠真は席を立った。

 教室を出ると、廊下には西日が長く伸びている。運動部の掛け声や吹奏楽部のチューニング音が遠くから響き、青春という名の明るく健康的なノイズが校内を満たしていた。だが、悠真の足取りは、それらとは無縁の、もっと重く、湿度を帯びた場所へと向かっている。

 職員室。

 それは生徒にとって管理と指導の場であり、教師にとっては聖域とも言える場所だ。しかし今の悠真にとっては、理性の檻に囚われた彼女と、公的な監視の目を掻い潜って接触できる唯一の「密室」だった。


 一歩進むごとに、心臓の鼓動が重くなる。

 恐怖ではない。これは、獲物に近づく捕食者の興奮に近い。あるいは、禁じられた果実に手を伸ばす背徳感か。

 階段を降り、渡り廊下を抜ける。空気が徐々に冷たく、無機質になっていくのを感じた。職員室の前まで来ると、悠真は一度足を止め、深く息を吸い込んだ。肺の奥まで、消毒液と古びた紙の匂いが満ちる。

 ここから先は、生徒である自分と、教師である彼女との「境界線」が最も明確に引かれた場所だ。だが、だからこそ燃える。その堅牢な境界線を、指先一つで触れて確かめたいという欲求が、彼の理性を焦がしていた。


「失礼します」


 重い引き戸を開けると、雑多な喧騒と静寂が入り混じった独特の空気が流れ出してきた。電話のベルの音、コピー機の駆動音、教師たちの低い話し声。それらが混然となって、一種の結界を作っている。

 悠真の視線は、迷うことなく部屋の隅へと吸い寄せられた。

 国語科のデスク。積み上げられたプリントの山の向こうに、彼女はいた。

 新海雫は、赤ペンを握りしめ、一心不乱に何かを書き込んでいた。白衣の背中は丸まり、どこか小さく見える。教室で見せた凛とした立ち姿とは違う、等身大の二十三歳の女性の姿がそこにあった。

 悠真が近づくと、気配を感じたのか、彼女の肩がビクリと跳ねた。

 顔を上げた彼女と、視線が絡む。

 その瞬間、彼女の瞳孔が微かに収縮するのが見えた。教室での動揺を必死に押し殺し、再び「教師」という鎧を纏おうとする緊張が、その表情を硬くさせている。


「……来ましたね、瀬尾くん」


 彼女の声は、意識的に低く抑えられていた。だが、その声の端には、隠しきれない震えが混じっている。

 悠真は彼女のデスクの横に立った。ここなら、周囲の教師たちの視線は書類の山に遮られる。公的な空間の中に生まれた、奇妙な死角。


「授業での発言について、ですね」


 悠真が問いかけると、雫は短く頷いた。彼女は手元のプリントに視線を落としたまま、顔を上げようとしない。


「ええ。あなたの解釈は……あまりに主観的で、独断に過ぎます。『こころ』のテーマを、現代的な、それも極めて個人的な感情論で歪めるのは感心しません」


 彼女の言葉は論理的であろうとしていた。だが、それはあまりに早口で、まるで自分自身に言い聞かせている呪文のようだった。彼女はペンを置くと、両手を膝の上で固く組み合わせた。その指先が白くなっている。


「先生は、僕の考えが間違っていると言いたいんですか」

「間違っている、とは言いません。ですが、不適切です」

「何がですか。愛に責任を持つことが、不適切なんですか」


 悠真は一歩、彼女に踏み込んだ。

 物理的な距離が縮まる。五十センチ、三十センチ。

 彼女の身体から漂う、あの微かな石鹸の香りが、再び悠真の鼻腔を刺激した。それは教室の時よりも濃厚で、彼女の体温を伴って生々しく迫ってくる。


「……近いです」


 雫が小さく警告を発した。だが、その体は椅子に縫い付けられたように動かない。逃げられないのだ。教師としての立場を守るためには、生徒の前で狼狽して逃げ出すわけにはいかない。その「責任感」こそが、彼女をこの場に縛り付ける鎖となっている。

 悠真はその矛盾を残酷なほどに理解していた。

 彼はわざとらしく、デスクの上に置かれたプリントの束に手を伸ばした。


「このプリント、提出すればいいんですよね」


 それは授業で回収された課題だった。彼の手が、彼女のデスクの領域へと侵入する。その時、意図したわけではない偶然が、あるいは悠真の無意識の渇望が、事態を引き起こした。

 プリントの端を整えようとした雫の手と、悠真の手が触れ合ったのだ。

 一瞬。

 時間の流れが止まったかのような錯覚。

 悠真の指先が、彼女の手の甲、その薄い皮膚の下にある血管の脈動を捉えた。

 冷たい。

 緊張で冷え切った彼女の皮膚。だが、その奥底からは、確かに生きている人間の熱が伝わってくる。触れた箇所から、電流のような痺れが悠真の腕を駆け上がった。

 それは単なる接触ではない。教師と生徒という、決して触れ合ってはならない二つの存在が、物理的に接続された瞬間だった。


「っ……!」


 雫が弾かれたように手を引っ込めた。

 その反動で、積まれていたプリントの山が雪崩を打って崩れ落ちる。

 バサバサという乾いた音が、静かな職員室に響き渡った。周囲の教師たちが、何事かと視線を向ける。


「あ……ご、ごめんなさい……」


 雫の声が裏返った。彼女は顔面を蒼白にし、慌てて床に散らばったプリントを拾い集めようとかがみ込む。その姿は、もはや威厳ある教師のものではない。予期せぬ接触に理性を焼かれ、パニックに陥った一人の若い女性そのものだった。

 悠真もまた、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

 散らばった紙を拾うふりをして、彼女の顔を覗き込む。

 至近距離。

 彼女の睫毛の震え、乱れた呼吸に合わせて上下する胸元、そして髪の隙間から覗く耳が、熟れた果実のように赤く染まっているのが見えた。

 彼女は怯えている。

 悠真という、自分の制御下に置けない異物の存在に。そして何より、彼に触れられた瞬間に自分の内側で生じた、正体不明の熱に。


「先生」


 悠真は囁いた。周囲の喧騒に紛れるほどの、低い声で。


「手が、震えてますよ」


 指摘された瞬間、雫の動きが止まった。彼女は床に膝をついたまま、凍りついたように悠真を見上げる。その瞳には、涙膜が張り、恐怖と、そして抗いようのない「期待」の色が混在していた。

 彼女もまた、感じているのだ。

 この接触が、単なる事故ではないことを。二人の間に引かれた境界線が、今まさに音を立てて崩れ始めていることを。


「……早く、拾って。……戻りなさい」


 彼女は必死に声を絞り出した。それは命令というよりも、懇願に近かった。これ以上ここにいたら、自分が自分でなくなってしまう。そんな悲痛な叫びが聞こえてくるようだった。

 悠真は無言で残りのプリントを拾い集め、彼女のデスクの上に揃えて置いた。

 立ち上がり、彼女を見下ろす。

 彼女はまだ床に座り込んだまま、乱れた呼吸を整えようと肩を震わせている。その無防備な姿に、悠真の独占欲が疼いた。今ここで彼女を抱き上げ、どこか誰もいない場所へ連れ去ってしまいたいという衝動。

 だが、彼はそれを理性でねじ伏せた。

 今はまだ、その時ではない。

 彼は残酷なほどの冷静さで、彼女に一礼した。


「失礼しました。……続きは、また」


 「また」という言葉に、明確な意図を込める。これは終わりではない。始まりに過ぎないのだという宣言。

 悠真は背を向け、職員室を後にした。

 重い引き戸を閉めた瞬間、遮断された静寂の中で、彼は自分の右手を見つめた。

 指先に残る、彼女の冷たくて熱い感触。

 石鹸の残り香が、皮膚に染み付いているように感じられた。悠真は衝動的に、その指先を唇に押し当てた。

 間接的な接吻。

 その行為の幼さと、そこに込められた執着の深さに、自分でも戦慄する。

 廊下の窓の外では、太陽が沈みかけていた。校舎を赤く染める夕陽は、まるで二人の行く末を暗示するように、美しく、そして不吉なほどに鮮烈だった。

 悠真の中にあった迷いは、完全に消え失せていた。

 彼女のあの震え。あの動揺。

 それは、彼女の理性の壁が、決して難攻不落ではないことの証明だ。

 責任という名の武器を使えば、彼女を攻略できる。

 悠真は拳を強く握りしめた。爪が皮膚に食い込む痛みすら、今は心地よかった。彼は薄暗くなり始めた廊下を、確かな足取りで歩き始めた。次なる一手、彼女を「逃げられない契約」へと誘い込むための言葉を探しながら。

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