禁域の初恋と、責任という名の誓約

舞夢宜人

第1話 渇望の授業


 六月の湿った風が、開け放たれた窓から教室へと流れ込んでくる。東陽県立翠洋高等学校の校舎は、梅雨の晴れ間特有の重苦しい熱気に包まれていた。天井で緩慢に回転する扇風機は、淀んだ空気をかき混ぜるだけだ。生徒たちの肌に張り付く制服の不快さを、取り除くには至らない。誰もが気怠げに教科書へ視線を落とす中、瀬尾悠真だけが違った。彼は教室の前方に存在する、一点の「清涼な異物」を凝視していた。


 教壇に立つのは、この春に着任したばかりの国語教師、新海雫だ。

 二十三歳という年齢は、十七歳の悠真にとって絶望的な距離にある。手が届きそうで届かない、大人の領域を意味していた。彼女は今日も、糊の効いた白衣を身に纏っている。その下には、淡いブルーのブラウスとタイトスカートが隠されていた。白衣の裾が揺れるたびに、知性的でありながらも抑制された色香が漂う。


 黒板に向かってチョークを走らせる彼女の背中は、華奢だが芯が強い。黒髪は首元で緩やかに束ねられているが、数本の後れ毛があった。それらが、汗ばんだうなじに張り付いている。白く滑らかな首筋に浮かぶ微かな汗の粒が、窓からの陽光を反射して煌めいた。

 悠真は無意識のうちに喉を鳴らした。教科書の活字など、彼には何の意味も持たなかった。彼の視界を占有しているのは、文学作品の解釈ではない。目の前に存在する「先生」という生身の女性のディテールそのものだった。チョークを握る細い指先。黒板の高い位置に文字を書くために伸びた腕のライン。そして時折響く、凛とした中にも甘さを秘めた声。


 思考は熱を帯び、妄想の淵へと沈んでいく。その白衣の下にある肌の温度を想像する。彼女が教師という仮面の下に隠しているであろう、「女」としての部分。それを暴きたいという衝動が、胸の奥でどす黒い渦を巻いていた。それは純粋な憧れであると同時に、強烈で身勝手な独占欲だった。彼女を自分だけのものにしたいという。


「……そこにあるのは、明治の精神とも呼ぶべき厳格な倫理観と、個人のエゴイズムの衝突です」


 雫の声が、悠真の意識を現実へと引き戻した。

 彼女は教科書を片手に持ち、生徒たちの方へ向き直る。その表情はあくまで理知的で、教師としての威厳を保とうとする緊張感が漂っていた。しかし、その瞳の奥には、まだ教壇に立つことに慣れていない怯えが見え隠れしている。まるで小動物のようだ。


「夏目漱石の『こころ』において、先生は親友であるKを裏切り、お嬢さんを手に入れました。しかし、その結果として彼は罪悪感に苛まれ、自ら死を選びます」


 雫は教壇を降り、ゆっくりと教室の中を歩き始めた。コツ、コツ、とヒールの音が静寂の中に響く。その音が近づくにつれて、悠真の心臓の鼓動は早鐘を打った。


「愛を手に入れるためのエゴイズム。そして、それを許せない倫理観。この二つの間で引き裂かれた先生の苦悩を、皆さんはどう読み解きますか」


 彼女が近づくにつれ、教室の埃っぽい匂いの中に、別の香りが混じり始めた。それは、清潔で、どこか懐かしさを感じさせる匂いだ。微かに甘い石鹸の香りがした。悠真の鼻腔をくすぐり、脳髄を直接刺激するようなその匂いは、彼の理性を麻痺させるには十分すぎた。

 雫が悠真の席の横で足を止める。

 至近距離で見る彼女の肌は、陶磁器のように白く、きめ細やかだった。ブラウスの第一ボタンの隙間から覗く鎖骨の窪みに、悠真の視線は吸い寄せられそうになる。彼女の体温が、空気を通して伝わってくるようだった。


「……瀬尾くん」


 不意に名前を呼ばれ、悠真は弾かれたように顔を上げた。雫の瞳が、彼を真っ直ぐに見下ろしている。その瞳には、生徒への問いかけ以上の、何かを探るような色が宿っていた。


「あなたなら、どう考えますか。先生の選択は、エゴイズムの結末として必然だったのでしょうか」


 教室中の視線が悠真に集まる。湿った空気と生徒たちの体温が、彼への圧迫感を高める。だが、悠真にとって、この世界には今、雫と自分しか存在していなかった。

 彼は机に置いた拳を握りしめた。掌に滲んだ汗が冷たく感じる。

 『こころ』の先生。エゴイズムで他者を踏みつけにし、その罪悪感から逃れるために死を選んだ男。それは今の悠真にとって、決して他人事ではない問いだった。教師である雫に欲情し、彼女を独占したいと願う自分の心は、まさに醜悪なエゴイズムそのものではないか。

 しかし、悠真はKのように潔癖に死を選ぶことも、先生のように罪に押し潰されることも拒絶したかった。彼の内側にある衝動は、もっと生々しく、もっと貪欲なものだ。


「……愛が、エゴイズムであることは、否定できません。先生」


 悠真は答えた。その声は意図せず低くなり、熱を帯びていた。周囲の生徒たちは、優等生的な回答を期待していただろう。だが、悠真の言葉は、教室全体に向けられたものではなく、ただ一人、目の前に立つ雫への告白のように響いた。


「誰かのすべてを求め、その心も身体も独占したいと願うのは、紛れもない自己の欲望です。綺麗事じゃ済まされない」


 雫の眉が微かに動く。彼女は教科書を持つ手に力を込め、その指先が白くなっているのが見えた。


「……それは、Kを裏切った先生の心理と同じということですか」

「いいえ、違います」


 悠真はさらに言葉を継いだ。彼女の瞳から逃げず、その奥にある理性の揺らぎを見据える。


「先生は死に逃げました。Kへの罪悪感を理由に、残された奥さん……お嬢さんを一人残して、自分だけが楽になろうとした。それは責任放棄です」


 教室の空気が張り詰める。生徒たちがざわめき始めるが、悠真には雑音にしか聞こえない。彼は椅子から立ち上がりたい衝動を抑え、雫を見上げた。


「本当のエゴイズムなら、最後まで貫くべきです。罪悪感さえも飲み込んで、奪った相手を一生守り抜くこと。その人の人生を背負い、墓場まで連れ添うこと。それが、奪う側の責任だと思います」

「……っ」


 雫が息を飲む音が、悠真の耳に届いた。

 彼女の表情から、教師としての余裕が剥がれ落ちる。その瞳が大きく見開かれ、唇が微かに震えている。悠真の言葉に含まれた、あまりにも直接的な「独占」と「責任」というメッセージが、彼女の防壁を突き刺したのだ。

 悠真の視線は、教卓の上に置かれた彼女の手に注がれた。白く華奢なその手が、微かに、しかし確実に震えている。それは恐怖によるものか、それとも予期せぬ言葉に対する動揺か。

 彼女は無意識のうちに、悠真が突きつけた「愛の正体」を理解してしまったのだ。論理や倫理で武装した大人の世界に、悠真という強烈な異物が侵入しようとしていることを。


「……結着は、理性の側にあるべきではありません」


 悠真はさらに一歩、言葉で彼女に迫った。


「衝動が、責任という形を取るならば……理性はそれに服従するしかない」


 沈黙が落ちた。

 扇風機の回転音だけが、虚しく響く。

 雫は数秒間、言葉を失っていた。彼女の首筋が、さっきよりも赤く染まっているのが分かる。彼女は必死に呼吸を整え、教師としての仮面を拾い上げようともがいていた。その姿は痛々しくもあり、同時に残酷なほどに魅力的だった。

 やがて、彼女は震える指先で眼鏡の位置を直すと、搾り出すような声で言った。


「……論理的な回答では、ありませんね。瀬尾くん」


 その声には、いつもの凛とした響きはなく、どこか湿り気を帯びた艶があった。彼女は視線を悠真から外し、逃げるように黒板の方へと向き直る。


「授業のテーマから逸脱しています。個人の感情論に終始するのは、学問的な態度とは言えません」


 早口で捲し立てる彼女の言葉は、誰の耳にも動揺の現れとして届いたはずだ。だが、彼女はそれを認めようとはしなかった。黒板に向かい、背中を向けたまま、チョークを握りしめる。


「……この部分については、時間が足りません。次は」


 カツ、と硬い音がして、チョークが折れた。

 その音に、教室中の空気が凍りつく。雫は折れたチョークを見つめたまま、肩を小さく上下させた。そして、深呼吸を一つすると、振り返らずに告げた。


「……放課後、職員室に来なさい。もう一度、あなたの考えを詳しく聞きます」


 それは指導という名目を借りた、二人だけの密室への招待状だった。

 キーンコーンカーンコーン。

 タイミングを見計らったように、授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 号令とともに生徒たちが席を立ち、喧騒が戻ってくる。だが、悠真の耳には、自分の心臓の音しか聞こえなかった。

 雫は逃げるように教室を出て行った。白衣の裾を翻し、廊下へと消えていくその後ろ姿を目で追いながら、悠真は深く息を吐き出した。

 鼻腔の奥には、まだ彼女の石鹸の香りが強く残っている。

 甘く、清潔で、それでいてどうしようもなく官能的な香り。

 放課後、あの香りにもう一度包まれることになる。今度は、教室という公衆の面前ではなく、閉ざされた空間で。

 悠真は自身の掌を見つめた。そこには爪が食い込んだ跡が赤く残っていた。

 もう後戻りはできない。彼女の心の防壁に、小さな亀裂を入れることには成功した。次は、その亀裂に指をかけ、こじ開ける番だ。たとえそれが、教師と生徒という一線を越える行為だとしても、彼は自分の衝動に「責任」を持つと決めたのだから。

 湿った六月の風が、再び悠真の頬を撫でた。その熱気は、先ほどよりもさらに重く、甘美な予感を孕んで彼の肌にまとわりついた。

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