悪食
鋏池穏美
五十を越えてからだろうか、急に疲れやすくなった。
ただ歩くだけで息が上がるし、出た腹が引っ込まない。鏡を見るたびに老けたなとも思うし、ちらほら亡くなる友人も増えた。
先月も、小学校から付き合いのある志村が心臓発作で死んだ。五十を過ぎればそんなことは珍しくないのだと、自分に言い聞かせている。
「明日は仕事か……」
布団の上でごろごろとするだけの日曜。休日に会う相手もおらず、仕事と家の往復だけを繰り返す。テレビを点けても見るものがない。サブスクも飽きた。趣味だったはずの釣りに出かけるのも億劫だ。
意味もなく時計に視線を向けると、まだ昼前。長い、長い暇な一日。私の人生なんてこんなものなのだろう。そう諦めるようになった。
することもなく散歩に出る。目的も目的地もない散歩なんて、ただの徘徊じゃないかと嫌になる。
家を出て数分、角を曲がったところでなんとなく見覚えのある顔が立っていた。と言っても見覚えがあるだけで、名前は出てこない。あっちも私の顔を凝視しているので、顔見知り──ではあるはず。
「……おい、中川。俺だよ俺。村田」
かけられた声で思い出した。
中学時代の同級生、村田だ。四十年ぶりくらいだろうか、胸の奥に懐かしさが込み上げる。
「変わらないなぁ、中川は」
「そうか? 腹も出たし白髪も増えたよ。そういうお前こそ全然変わってないって」
「いやいや、俺も最近ガタがきててさぁ、ついに老眼鏡に手を出したとこ」
そう言って笑う村田の額には、深い皺が刻まれていた。長い年月を生きた証。私の額にもしっかりとあるし、刻まれたそれは、もう消えることはないだろう。
「どこか出かけるとこだったのか?」
「そこのファミレスで遅めの朝ごはん食べた帰り。最近は飯食うか仕事するか寝るかの毎日で嫌になるよ。せっかくの日曜なのにすることなくてさぁ」
自分と同じようなことを言う村田に、少し笑ってしまう。
「立ち話もなんだし、うち寄ってけよ」
気付けばそう口にしていた。
生活感丸出しの部屋に村田を通し、コンビニ菓子と麦茶を出す。
「懐かしいなぁ」
座卓に座り、麦茶を飲む村田。お互いに老けてはしまったが、まるで当時に戻ったような不思議な感覚。
「そういやよく中川の家でさ、お菓子食べながらゲームしたよなぁ」
「やったやった。格ゲーが一番盛り上がったよな」
「俺はRPG作るやつが好きだったな」
「そういやみんなでストーリーとかキャラ考えたっけ」
取り留めのない昔話。
「ゲームに飽きたらしりとりもしたよなぁ。外出て鬼ごっことか缶蹴りも」
「結局さ、そういう遊びが一番面白かった気がする」
「中川、鬼ごっこは激強だったよな。足速くてさ」
「そうだっけ? 懐かしいけどよく覚えてないなぁ」
「まあ……、今はもう速く走れなさそうだけど?」
そう言って村田が私の肥えた腹を見る。なにもかもが輝いていた少年時代。あの頃の自分が今の私を見たら、どう思うだろうか。
「犬」
唐突な村田の言葉に面食らう。村田を見ると、「しりとりするぞ。犬だから『ぬ』」と言ってにやにやとしていた。
「急だなぁ」
「ゲームに飽きると急に始めてたじゃん」
「ああ、そういやそんな気がする」
「なんか懐かしくてさ、おっさん二人のしりとりとか笑えるけど、暇だし?」
「日曜に部屋でしりとりするおっさんとかキモすぎだろ」
私が自嘲気味に笑うと、村田が「いいから『ぬ』だ」と挑発的な顔で笑う。
「じゃあ……ヌートリア」
「阿部」
「おいおい、苗字もありか?」
「一般的なのはOKだったじゃん、昔」
なんとなく思い出してきた。たしか一般的な苗字や名詞、動詞、オノマトペもOKだった気がする。
「んじゃあ昔のルールでOKってことなら……、ベキベキ。あ、板が割れる音な?」
「北戸田」
「埼玉の?」
「そうそう」
「んじゃあ、ダックスフンド」
「土井」
「いくら」
「落雷」
「茨城」
「岸」
ぞくりと、唐突に悪寒が走った。理由はわからない。ただ猛烈な不安が押し寄せ、冷や汗をかく。なにか、私はなにか重大なことを忘れていないだろうか?
「な、なあ……そろそろやめないか?」
「降参か? じゃあ俺が続けるよ。岸の『し』だから……志村」
きんと、耳鳴りがした。
志村は先月亡くなった友人の苗字だ。そもそもさきほどから村田は、死んだ同級生の苗字を言っていないだろうか?
村田が言ったのは阿部、土井、岸、志村。岸は三ヶ月前に死んだ。土井は一年前。阿部はたしかその少し前。全員小学校からの付き合いで、村田とも友人だった。
高校は別々になったが、中学の時はよく一緒に遊んだ仲だ。
「よくしりとりしたよなぁ……」
村田がなんの感情もない声で呟く。
顔は俯き、陰になって表情が見えない。
「俺は絶対に忘れたりしない……」
低く唸るような村田の声。その瞬間、ある事実を思い出した。
そうだ。
私たちはよくしりとりをしていた。そうして──
村田がしりとり中に言った言葉を一つずつピックアップし、いたずらの道具にしていた。
鉛筆と言えば鉛筆で刺し、辞典で終わらせれば辞典で殴り、水と言えば水をかけた。
「覚えてるか? 俺につけたあだ名」
──悪食の村田。
いたずらに使えなさそうな言葉は、その辺の虫にその名前をつけて食わせた。ヨーロッパならヨーロッパと命名したトンボを。火星なら火星と命名した蜘蛛を。
村田が必死に考えて出した言葉を、私たちは笑いながら──。
遊びのつもりだった。
言い訳に聞こえるかもしれないが、遊びのつもりだったのだ。村田も「遊んでくれてありがとう」と言っていたし──、いや、言わせていたのか? だめだ、はっきり思い出せない。
「知ってるか、中川」
村田の口元から、ぽたりと黒い液体が垂れた。
「恨みってさ、寝かせれば寝かせるほど濃くなるんだよ。ヘドロみたいにさ。ようやく全員を引き摺り込めるくらいドロドロに熟成したんだ」
村田の首のあたりで、みちみちと肉が引き延ばされる音がした。見れば村田の首が伸びている。首筋に縄が食い込み、紫色に鬱血した皮膚。
ひっと短い悲鳴を上げた私に、「吊ったんだよ──首。呪ったんだよ、お前ら」と村田の首が揺れる。
「あ、そうだ。志村の『ら』だから……ラバ。馬とロバの交雑種な」
村田の目が、飛び出しそうに膨れていた。
「ラバの『バ』だから……バルセロナ」
首が、千切れて落ちた。
「バルセロナの『ナ』だから――」
落ちた村田の首が、どろりと血と言葉を吐き出す。
「……中川だァ?」
ぼとりと、村田の目が床に落ちる。
暗い、どこまでも暗い奈落の底のような眼窩。私はこれから村田の怨霊に殺されるのだろう。
私が最初に言った言葉は「ヌートリア」。いたずら──いや、いじめに使えなさそうな言葉。その場合、その辺の虫にヌートリアと名前をつけて食わせる。
カサカサと、視線の先でゴキブリが蠢いた。
「ヌートリアだぁ」
床に転がる村田の顔が、愉しそうに笑った。
──悪食(了)
悪食 鋏池穏美 @tukaike
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