31. 咆哮(後編)
熱いシャワーで汗を流しながら、深和は乱取りの内容を反芻していた。
深和が悠之歩の道着を掴もうとしても、柳に風と受け流された。ようやく袖や襟を握れても、悠之歩を投げようとする力さえ無効化された。全体重をかけて悠之歩を引きずり倒そうとしても、その体幹で耐えられた。受身を封じられ状態で、あわや頭から畳に落とされかねなかった。
流火で戦っていた時に近い感覚が、生身の悠之歩との乱取りにもあったのだ。
乱取りで頭から畳に落とされかけた時、流火が帯びていた妖しい鬼火のような竜胆色の導波動を、悠之歩自身の瞳の奥にに見た気さえした。
あれが、音斬を撃てる者の眼なのか。
流火を使っている時、悠之歩はいつもあんな眼をしているのか。
大した努力もしていないように見えたのに、深和とは異なる価値観で、他人の目には映らず思いもよらぬ努力を常に続けていた。流火と音斬によって光を浴び、露わにならなければ、深和は一生それに気づけなかっただろう。
しかも悠之歩は、自分が負かした深和に対して優越感を覚えている様子もなかった。
それどころか、深和を助け起こして見上げる悠之歩の表情には、気遣いか、罪悪感か、後悔か、はたまた苦悩のような色が見えた。
なぜ、勝者がそんな目で敗者を見上げるのだろう?
それとも、悠之歩は勝者ではないのか?
だとすれば、敗者にすらなれない深和は何者だというのか。
そう考えた途端、深和の土台が崩れ、地面だと思っていたものが大海に浮かぶ薄い氷のように頼りないものに思えてくる。
悠之歩は、誰かを負かすためでもなく、誰かに見せびらかすためでもなく、静かに、地道に鍛えてきた。
それに対し、深和はどうか。
勉強とトレーニングに励んだのも、警備特区内の高校を受験したのも、常に学年トップの成績を取り続けたのも、本当に「正しい行い」をしたかったからと言えるのか?
普遍的な分野で自分より劣った者を量産し、周囲に褒められることで「正しい」生き方をできていると安堵していただけではないか?
芸術やスポーツではなく勉強と体力作りに邁進したのも、最大多数の他者に妥当性を認められやすいからではないか?
努力しているという免罪符で他人との関わりを最小限にし、自分の性根から目を背けていただけではないか?
結局のところ自分は、敗者を作った気になって、自分が正しく生きていると思い込んでいただけではないか。
本当に「正しい」のは、悠之歩のような人間ではないか。
自己嫌悪で足元がぐらつくような心地を覚えながら、深和はシャワーを止めた。
それから彩音の研究室に行くと、彩音は「申請書を印刷してくるねー」と言い残し、深和と悠之歩を研究室に残して出ていってしまった。
悠之歩と2人きりで密室にいることに一方的な息苦しさを感じていると、ソファーに並んで腰かけていた悠之歩が言った。
「二冬って、高1の時から耐Gトレーニングをしてたんだよね?」
「……はい」
いきなりそんな確認をされ、先ほど深和が思い至った自分の性根に悠之歩も踏み込もうとしているのではないかと、警戒心が湧く。
「ということは、高1の頃から装骨格を使いたかったってこと?」
しとしとと降る雨のような悠之歩の声が、まるで死刑執行人の足音のように思えた。
「……骨格者じゃなきゃ、できない仕事ですから。備えてただけです」
「そっか……同じクラスにいたけど、全然知らなかったな」
「……千秋くんも、一人で鍛えていたんですよね。呼吸法、でしたか」
「うん」
「……だからあんなに強いんですね」
「強いかどうかは、自分でもよくわからないかな……所詮は一人稽古だし。誰かと比べたり、試したりすることもなかったから……だけど、二冬と同じクラスになれたのは、嬉しかった」
「……え?」
予期せぬ言葉に、深和は思わず悠之歩の方を見た。
悠之歩は、すっと背筋の伸びた美しい姿勢で座り、懐かしむように
「二冬はいつも教室で勉強しててさ。他にも1人で鍛えてる人がいるって知って……孤独じゃなくなった気がした。高1の時は、僕も一人稽古を始めたばかりだったから。それが本当に正しいかも、うまくできてるかもわからなくて……二冬がいて心強いというか、負けたくないって思った」
悠之歩の表情は今までとほとんど変わらず、どこか冷めた純朴さがあるが、その瞳には、乱取りの時と同じく鬼火のような妖しい光が灯っているように見えた。
明るいところではその光には気づけず、しかし闇の中で誘導灯のように存在感を発揮する何かが、悠之歩の中で静かに燃えている。
「だから、二冬には報われて欲しいと思ってるよ。二冬が目的を達成できたら、僕も嬉しい。二冬は今、何をできたら一番嬉しい?」
「それは、もちろん音斬を撃てたら……」
「本当に?」
聞き返されて、深和は言葉に詰まった。
詰まってしまった。
深和がすぐに答えられないでいると、悠之歩は重ねて聞いた。
「二冬は、音斬を撃つために鍛えてきたの? 高1の時から?」
淡々と、悠之歩の言葉が押し寄せてくる。
深海の海流のように冷たく、暗く、重く。
そう、悠之歩の気配はまるで海のようだ。
世界の7割を覆ってながら、そこにヒトは棲みつけないような、残酷で、過酷で、しかし厳然としてこの世に存在すると痛感させられる摂理。
流火で戦った時も、乱取りの時も、深く潜るほどに暗く、冷たく、重くのしかかるその術理に、溺れ、沈められたのだ。
悠之歩の血肉に、骨身には、深和が知ろうともしなかった、あるいは目を逸らした世界が刻み込まれている。
「別に、そういう訳では……」
吐いた息が気泡となるかのように、深和が漏らした声が意味もなく宙に浮く。
元々深和は、流火を使いたいとも音斬を撃ちたいとも思っていなかった。結果的に深層筋まで鍛えていたから、涼羽がそこだけ見て抜擢してきたたに過ぎない。
そもそも装骨格を使うために鍛えてきたのも、本当に装骨格を使って戦うためだったと言えるのだろうか?
元はと言えば、深和は先天的な体質ではなく、後天的に努力して自力で得た能力と精神性を他者に認めて欲しかったはずだ。であれば、骨格者でなければ操縦できない装骨格を使うことなど、むしろ避けねばならない。
それなのに、世間が求めているからと自分に言い訳して合同インターンに参加した。
所詮はポーズでしかない。
結局のところ、「正しい行い」という建前で社会に褒められることをしていただけだ。
これまで目を背けていた事実に背後から貫かれ、深和は息を詰まらせる。
「じゃあ、鍛え始めた時に、何かやりたいこととかあったとか?」
「……そんなの、千秋くんには関係ないじゃないですか」
深和は、自分が明言することから逃げたと自覚しつつ言った。
「今大事なのは、音斬を撃つことです」
「今撃てたって自慢にならないよ? いずれは、誰でも撃てるようになるんだから」
流火のテストは量産のために最適な構造を特定するためだと、矩場は言っていた。最も安価かつ効率的な設計が確定すれば、適切な箇所に上質な緋導鋼を使い、深層筋が特別発達していない骨格者の導波動波形でも音斬を撃てるようになるだろう。今まで音斬を一度も撃てていない深和でさえも。
「そうするために、今音斬のデータが必要なんでしょう!?」
「データを集めるだけなら、撃つのは二冬じゃなくてもいいよね」
悠之歩の言葉の流れに抗おうと、深和は声を絞り出そうとする。
「うるさい――さっきから偉そうに……!」
他人とのコミュニケーションを間違えまいと、正しくない振る舞いをしないようにと、他人との一線を明確に引くために被っていたベールが落ちる。
そして、乱れた口調で言ってしまってから、深和は気づいた。
高1の頃から鍛えていた真意が他にあるなら、それを恥じずに言えていたはずだ。音斬を撃ちたいと思い始めたことも、「流火のことを知ったから撃ちたくなった」と返せただろう。そう言えなかった時点で、それが本音ではないと明かすようなものだ。
吐いた唾を呑み込めず、深和は話の矛先を逸らそうとする。
「求められたからやる! それだけでしょ!? 自分がたまたま音斬を撃てたからって、いい気にならないで!」
そう言ってしまってから、言った本人である深和の方がはっと胸を衝かれる。
悠之歩が直向きに鍛えてきた事実は、流火を使いこなしていることや音斬を撃てたこと、そしてあの乱取りの立ち回りが証明している。それを思い知ったのに悠之歩の音斬をまぐれなどと貶めようとしてしまった。
本来尊ぶべき悠之歩の努力を未だ受け入れられていない自分の性根を、取り返しのつかない形で露呈させてしまった。
「うん、たまたまだよ」
だが、悠之歩はあっさりと深和の言葉を認めた。
肯定されると思っていなかった深和は面食らう。
「鳴気流と相性が良かったから、まぐれで撃てただけ。僕が撃てなくても、燎が早々に撃てたらしいし。その時点で、遅かれ早かれ流火の完成は確定したと思う」
冷たく静かな声で、悠之歩は深和の致命的なミスを流し去っていく。
ワイン樽に一滴の泥が混じると、その樽のワインはすべて泥として扱われる。しかし、大海を汚すには、深和が吐いた泥など到底足りないかのようだ。
「だから、音斬が貴重なのは今だけだよ。それでも二冬にとって、音斬を撃つことが大切なの? 音斬のためならどこまでやれる? 例えば――」
瞳に鬼火を宿した悠之歩が言う。
「――僕を殺すつもりで戦ってでも、音斬を撃ちたい?」
「殺すって、そんなこと――」
「僕はそれでもいいよ。本気の二冬に袋叩きにされて、踏み躙られて、今までの僕の稽古が全部間違いだったって突きつけられても」
なぜそんなことを言えるのだろう?
なぜそんなことを言おうと思えるのだろう?
深和にはわからない。
人の姿を取る彼の中に、異様な気配を感じる。
鬼ごっこをした時に深和の氾火の腕を破壊した直後、二本角の流火の姿に感じたものが、悠之歩の中にそのまま存在するかのようだ。
「二冬の努力が報われるなら、僕は餌になってもいい。二冬は僕にそう思わせた。これは、二冬が勝ち獲ったものだよ」
これは正気の人間の理屈ではない。
魔物の狂気か、獣の摂理だ。
「だから教えて。何をするためなら、二冬の全部を出し切れる?」
悠之歩の言葉の毒気に当てられ、思考が麻痺した深和の唇の隙間から、止めていた息と共に声が漏れた。
「……全員倒したい」
なぜそんな欲望が噴き出たのか、自分でもわからなかった。
正しいことをしたいのではなかったか。
自分のことを認めて欲しいのではなかったか。
悠之歩は何も言わず、深和の言葉の続きを待っている。
その沈黙が、足踏みする理性より先に、深和の獣性を剥き出しにした。
「千秋くんだけじゃ足りない……春日先輩にも、夏目くんにも勝ちたい」
元はと言えば、幻滅した両親を見返してやりたいと思ったのが始まりだ。そして奈笠高校に入ってからは、学校の成績という舞台で他の生徒全員に勝とうとして、勉強もトレーニングもしてきた。
それは紛れもない事実だ。
誤ったモチベーションかもしれない。本当に深和のためになるかもわからない。
それでも――
「みんな倒して……私の努力が――頑張ってきた私は間違ってなかったって、証明したい」
これは紛れもなく、深和の中で目を覚ましたばかりの、虚飾を知らぬ獣の咆哮だった。
「いいね」
温かさも柔らかさもない、ただ深く、奥行きのある優しい声で悠之歩が言う。
「僕ら全員ボコボコにしてガッツポーズする二冬は、ちょっと見てみたい」
「……何でボコボコにされるのを楽しみにしてるんですか」
ようやく追いついてきた自制心で、深和はいつもの口調に戻った。
「あ、手を抜いたりはしないから安心して」
「そこを心配したことはありませんが……」
「はは、そっか」
悠之歩はバツが悪そうに頬を掻いた。自分が手加減しなかったことで深和の氾火の腕を折ったと思い出したようだ。
そんな悠之歩から目を逸らし、深和は呟くように言った。
「あの……すみませんでした」
「へ? 何が?」
唐突な謝罪に困惑する悠之歩に、深和は言う。
「千秋くんのことを何も知らないのに、私は、その……千秋くんを軽んじていたので」
観念して打ち明けつつ、しかし未だに保身の意識が抜けない言い方をしてしまう。
深和は悠之歩のことを大した努力をしていない凡人として勝手に一括りにし、侮っておきながら、彼に負けると悠之歩自身は優秀ではないと思い込もうとした。だというのに、この期に及んでそんな自分本位な見解や感情、そして自分の過去や価値観など自分に不都合なものは相手に見せず、繕おうとする自分がいる。そんな自分への甘さを自覚していながら克服できない自責が、深和の胸を内側から掻き毟った。
しかし、悠之歩は変わらぬ声音で、慰めるでもなく、ただ真っ直ぐ言った。
「別に、見下してもいいんじゃない?」
「……え?」
ひりつくような言葉に、深和は視線を上げる。
「自分の価値を手軽に高めようとして、努力もせず他人を貶すのは悪いと思う。でも二冬は鍛えてたし、表面上はそう見えなかったから……ある意味、ラッキーかも」
「ラッキー?」
「僕は、自分が二冬に見下されてもムカつかないって知れた。二冬はそんな僕と話して、反省できた。これってお互いにラッキーなことだと思うけど……烏滸がましい?」
他人の過ちを赦せる包容力を持てていた幸運と、自分の欠点を受け容れて成長の機会を与えてくれる者と出会えた幸運。これらが重なり合ったからこそ、深和は悠之歩以外の者たちと申告な軋轢を生む前に自身を見つめ直す機会を得られた。
こういった運があると知っているから悠之歩は自らを高めてこられたのか、もしくは、直向きに自分を高めてきたからそんな考え方をできるようになったのか。
いずれにせよ、深和は心の底から悠之歩を羨ましいと思えた。
これから少し考え方を変えれば、深和も彼のようになれるだろうか。
今からでも人間として成長し、彼のような形質を獲得したい。
自分を負かしたのが悠之歩で良かった。
「いえ……素敵な考え方だと思います」
お年玉をもらった時のように、申し訳なさの入り混じった喜びで視線を合わせられないまま深和は言った。
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