第2話 絶望の計算
山田、39歳、無職、そして犯罪者
山田は薄暗いアパートの一室で、古い木製のテーブルに突っ伏していた。目の前には、電気もガスも水道も止まることを告げる督促状の山。そして、残りわずかとなった缶ビール。
39歳。妻子に逃げられ、最後の頼みだった派遣の仕事も、企業の業績悪化という一言で切り捨てられた。再就職先は見つからず、通帳の残高はついに三桁を切った。
「…もう、無理だ」
山田は呟いた。全てを失った。社会的な地位も、家族も、金も、そして生きる希望も。もはや、失うものは何もない。この絶望が、彼の思考を異常な方向へと導いた。
彼は、ふと手に取った新聞の隅にあるニュースを見つめた。それは、地方の小さな信用金庫が、警備を強化したという記事だった。
「警備?そんなもの、意味がない」
山田の脳裏に、突如として恐ろしい計画が浮かび上がった。
銀行強盗、計画始動
その夜から、山田は人が変わったように集中し始めた。
絶望を燃料に:彼は金が欲しいのではない。絶望的な状況から抜け出すための**「リセットボタン」**が欲しかった。それは、彼にとって、銀行強盗という形でしか存在しなかった。
場所の選定:彼は、地元の、警備が手薄そうな小さな信用金庫をリストアップした。大規模な銀行は警備が厳重すぎる。狙うは、地方の支店、あるいは平日の夕方。
資金の計算:必要な資金は、まず計画のための最低限の道具代。軍資金は、アパートの解約金と、僅かな所持金から捻出する。
彼は、机の上に広げた地図と、ネットカフェで印刷してきたらしい、銀行のフロア図を睨みつける。
「必要なのは…時間と、完璧なプランだ」
彼は孤独な部屋で、自らの人生を賭けた、あまりにも危険で、そして愚かな計画を、冷徹な目で練り始めた。
💥 計画の実行準備:催涙ガスの導入
山田の計画は、もはや「金」を得ることよりも、自らの人生を劇的に「リセット」することに焦点を定めていた。彼は完璧な強盗とは何かを考えた。それは**「無力化」**である。
「時間と、完璧なプラン」――このプランの鍵となるのは、警備員や行員を迅速かつ無傷で制圧し、騒ぎになる前に逃走するための「時間」を生み出すことだった。
無力化の手段: 彼は武器の使用を嫌った。人を傷つけるリスクは、計画の成功率を下げる。
「一発で全員の動きを止め、恐怖を与え、しかし致命傷を与えないもの」―その答えが、新聞記事を読んでいた時にふと脳裏に浮かんだキーワード、催涙ガスだった。
ガスの入手: ネット上を深く潜り、合法・非合法の境界線をさまようように検索を重ねた。彼は、護身用として販売されている強力な催涙スプレーを複数購入することに決めた。複数のスプレーを加工し、広範囲に噴射できる簡易なディスペンサーとして使う、というアイデアだった。
ターゲットの確定: 最終的に、彼は町の外れにある「東山信用金庫・中央支店」に狙いを定めた。平日の午後3時。客足が途絶え、警備員が巡回に出ていることが多い時間帯を狙う。彼にとって、これは銀行強盗というよりも、人生の最終局面を飾る「芝居」の舞台選びだった。
山田は、アパートの部屋で、作業用のゴーグルとマスクを着用し、買ったばかりの催涙スプレーの構造を解析し始めた。指先は震えていない。絶望は、彼から恐怖という感情を奪い去っていた。
⏳ 決行前夜:カウントダウン
決行予定日は、来週の火曜日。山田は、最後の夜を迎えた。
机の上には、計画の道具が並べられていた。
催涙ガス・ディスペンサー: 加工したスプレーと、広範囲に噴射するためのアタッチメント。
逃走用具: 盗難ナンバーをつけた中古のスクーター、着替え一式、そして逃走経路の地図。
証拠隠滅: 強盗時に着用する、全身を覆うフード付きの作業服と手袋。
金を入れるバッグ: ごく普通の地味なリュックサック。
彼は缶ビールを飲み干し、通帳を破り捨てた。過去を断ち切るように。
「これで終わりだ」
彼は独り言を言った。強盗に成功すれば、彼は一瞬の自由と金を手にし、そして逃亡生活が始まる。失敗すれば、社会からの永遠の隔離、つまり刑務所が待っている。どちらにしても、電気もガスも止まったこの絶望的な部屋からは解放される。彼にとって、それはどちらも「リセット」だった。
夜が明け、山田は静かにアパートを出た。誰にも気づかれないように。彼の顔は、39年の人生で最も無表情だった。彼は、自らの人生を、もはや戻ることのできない、一本の暗い道へと踏み出した。
🏃 逃走と予期せぬ出来事(次の展開へのフック)
山田が東山信用金庫に到着したのは、予定通り午後3時を少し回った頃だった。
彼は準備した服に着替え、顔を隠し、呼吸を整えた。
突入: 彼はドアを押し開け、大声で怒鳴った。「動くな!金を出せ!」声は震えていなかった。
実行: 警備員らしき姿は見えない。客はカウンターに一人、そして行員が数名。彼はカウンターの内側に駆け寄り、自作の催涙ガス・ディスペンサーを起動させた。
無力化: 白いガスが勢いよく噴出し、カウンター内に充満した。行員たちは咳き込み、顔を押さえ、パニックに陥る。まさに計画通り、時間は稼げた。
彼は現金をバッグに詰め始めた。その時、予期せぬことが起こった。
ガスの充満した奥の部屋から、一人の女性行員が、ハンカチで口を押さえながらも、必死にこちらへ向かってくるのが見えた。彼女の目に、恐怖よりも強い、何か別の感情が宿っているのを、山田はフードの隙間から見た。
「やめなさい!」
彼女は叫んだ。そして、その女性の顔に、山田はかつて妻に見せた、優しさと諦念が混じったような、自分と同じ種類の絶望の影を見た気がした。
山田は一瞬、硬直した。バッグを掴んだ手が、ぴたりと止まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます