『嫉妬の重さは0.0kgでした』 ——測れない感情が、私を食い尽くすまで
ソコニ
第1話『嫉妬の重さは0.0kgでした』 ——測れない感情が、私を食い尽くすまで
第1章:0.0kg
美咲は体重計に乗る。
ディスプレイが点滅する。数字が表示される。
0.0kg
もう一度乗る。
0.0kg
彼女の部屋には、体重計がある。ベッドがある。窓がある。すべてが——軽い世界の中にある。
美咲は鏡を見る。そこに映っているのは、骨と皮だけの女性。頬が窪み、鎖骨が浮き、肋骨が数えられる。確かに存在している身体。でも——重さはゼロ。
診断書の文字は、軽かった。
「心因性身体症状」——六文字。
美咲は紙を持つ。紙の重さは、測れない。いつから測れなくなったのか? 昨日か、先週か、それとも——もっと前か。
窓の外では十一月の風が吹いている。
葉が舞う。
軽そうだ。
すべてが軽そうだ。
美咲は床に座る。フローリングが冷たい。でも沈まない。
以前は沈んだ。床が、椅子が、階段が——彼女の重さに耐えられなかった。
今は何も沈まない。
彼女がゼロだから。
携帯電話が鳴る。画面には「坂井」の名前。
美咲は電話に出ない。
呼び出し音が五回鳴って、止まる。
坂井隆史。
彼の名前を思い出すと、何かが——重くなりそうになる。
でも、ならない。
美咲の中には、もう何も残っていない。
それは月曜から始まった——いや、もっと前か。
美咲が「測る」ことを仕事にした日からか。
それとも、坂井に初めて会った日からか。
彼女は目を閉じる。
記憶が、逆流する。
第2章:48kg
美咲が「測る」仕事を選んだのは、母のせいだった。
中学生のとき、母は毎朝美咲の体重を測った。
「四十二キロ。ちょうどいいわね」
母の声は明るかった。美咲は何も言わなかった。
高校生のとき、美咲の体重は四十八キロになった。
「重いわね」
母は眉をひそめた。美咲は夕食を半分残すようになった。
大学で栄養学を学んだ。カロリー計算、栄養素の測定、身体組成の分析。すべてが数字だった。数字は嘘をつかない。数字は感情を持たない。
美咲はそれが好きだった。
就職したのは食品検査センター。計量室の担当。
彼女の仕事は「重さ」を証明すること。グラム単位の誤差も許されない。
美咲は優秀だった。正確で、几帳面で、ミスをしなかった。
坂井が配属されてきたのは、三年前の春だった。
彼は技師として採用された。専門は質量分析。美咲と同じく「測る」人間だった。
初めて会ったとき、坂井は言った。
「正確な測定を心がけます」
それだけだった。自己紹介も、雑談も、笑顔もなかった。
でも美咲は——彼に惹かれた。
理由は分からない。容姿が優れているわけでもない。会話が上手いわけでもない。
ただ、彼が検体を測るとき——その指先が容器に触れるとき——美咲は目が離せなくなった。
彼の指は、何かを測っている。
重さを測っている。
それだけを測っている。
美咲も同じだった。だから——同じだと思った。
三年間、美咲は坂井を観察し続けた。
彼の昼食(おにぎり二個、サラダ、お茶)。
彼の退勤時刻(18時15分)。
彼の休日(土日は出勤しない)。
そして——彼に恋人がいることは、知らなかった。
月曜日の朝、美咲は計量室にいた。
電子天秤の校正作業。標準分銅を乗せて、誤差を確認する。
50.00g。正確だ。
坂井が検体を持ち込む。
「おはようございます」
彼はいつも通りに言う。美咲は答える。
「おはようございます」
坂井が容器を天秤に乗せる。
美咲はディスプレイを見る。
100.0g
彼女は瞬きをする。おかしい。この検体は50gのはずだ。
「あの……」
坂井は記録用紙を見ている。
「50g、ですね」
美咲は再びディスプレイを見る。
50.0g
数字が戻っている。
彼女は息を吐く。見間違いだ。
でも——午後も同じことが起きた。
200gの検体が、美咲の目には400gと映った。
坂井が確認すると、200gに戻った。
美咲は何も言えなかった。
帰宅して、体重計に乗る。
48kg。
いつも通り。
鏡を見る。痩せている。母が見たら「ちょうどいいわね」と言うだろう。
でも——何かが重い。
身体の中に、何かが溜まっている。
第3章:彼女を持つ
水曜日、美咲の膝が重くなった。
歩くたびに床が軋む。階段を降りるとき、一段ごとに身体が沈む。
計量室で、坂井が検体を測る。
美咲が見る数値:300g
実際の数値:100g
三倍。
昼休み、給湯室で田中が話しかけてきた。
「美咲さん、最近疲れてる?」
「いえ」
「顔色悪いよ。ちゃんと食べてる?」
美咲は紙コップにコーヒーを注ぐ。手が震える。
「そういえば」田中が言う。「坂井さん、彼女と別れるらしいよ」
美咲の手が止まる。
「……彼女?」
「知らないの? 二年も付き合ってたのに」
紙コップが落ちる。
コーヒーが床に広がる。
「あ、ごめん」
田中が拾う。美咲は動けない。
坂井に、彼女がいた。
二年も。
私は知らなかった。
その日の午後、坂井が持ち込んだ検体は500g。
美咲が見た数値:2500g
五倍。
彼女は声を出せなかった。
夕方、美咲はロッカー室に行った。
誰もいない。
坂井のロッカーを開ける。鍵はかかっていない。
中には作業服、マニュアル、スマートフォン。
画面を見る。ロックなし。
メッセージアプリ。
最新のメッセージは三日前。送信者「彩」。
『もう無理。あなたは何も感じていない』
返信はない。
美咲はスマホを戻す。ロッカーを閉める。
彼女の手が震えている。
坂井は——感情を測れない。
彼は重さを測る。グラムを測る。それ以外は測れない。
彩という女性は、それに耐えられなかった。
美咲は——自分も同じだと気づく。
私も、彼と同じだ。
感情より、数字を信じてきた。
でも——今は違う。
私の中に、何かがある。
それは数字にならない。測れない。
嫉妬。
美咲は給湯室に戻る。椅子に座ると、脚が軋む。
体重計に乗る。
150kg
田中が見る。
「48kgじゃん。いつも通りだよ」
美咲の目には、150kgと見える。
誰も気づかない。
この重さは——私だけのもの。
第4章:測ることでしか
金曜日、美咲は坂井を観察した。
彼は検体を測る。
その指が容器に触れる。
慎重に、正確に。
美咲は思う——その指が、彩に触れたのだろうか?
触れ方を知っていたのだろうか?
それとも、検体と同じように「測って」いたのだろうか?
美咲の身体が沈む。
床が割れる音がした——気がした。
午後、坂井が話しかけてきた。
「美咲さん」
「はい」
「最近、体調悪そうですね」
「大丈夫です」
「無理しないでください」
彼は去る。
美咲は——彼の背中を見る。
その背中は軽そうだった。
何も背負っていない。
何も抱えていない。
私と——違う。
体重計:200kg
土曜日、美咲の膝が砕けた。
計量室で坂井が検体を測っている。
美咲は天秤に——自分を乗せた。
ディスプレイ:200kg
「美咲さん?」
坂井が声をかける。
「48kgですね。標準値内です」
「嘘! 200kg! 見えないの!?」
坂井は首を傾げる。
「見えません」
「私は」
美咲の声が震える。
「私は、あなたに——」
言葉が出ない。
何を言おうとしていた?
好き?
嫉妬している?
それとも——あなたは軽すぎる、と?
美咲の膝が崩れる。
骨が床を打つ。
坂井が手を伸ばす。
でも——触れない。
いや、触れ方を知らない。
救急車。
病院。
診断:心因性身体症状。
医師が言う。
「骨に異常なし。体重48kg」
美咲が見る数値:200kg
誰も——気づかない。
*
それから、美咲は坂井の夢を見るようになった。
夢の中で、坂井は検体を測っている。
でも検体ではない——美咲だ。
彼は美咲を天秤に乗せる。
ディスプレイには何も表示されない。
坂井が言う。
「測れません」
「なぜ?」
「あなたには、重さがないから」
美咲は目を覚ます。
汗をかいている。
体重計に乗る。
250kg
彼女は——もう立てない。
第5章:測ることの終わり
診断書の文字は、軽かった。
「心因性身体症状」——六文字。
美咲は紙を持つ。紙の重さは、測れない。
彼女の部屋には体重計がある。ベッドがある。窓がある。すべてが——軽い世界の中にある。
美咲はベッドに横たわる。天井を見る。
食事が運ばれてくる。母が作った雑炊。
「食べなさい」
母の声。
美咲は首を振る。
「あなた、痩せすぎよ」
母は心配そうに言う。
美咲は——笑いたくなる。
私は重い。
250kgもある。
でも誰も——測れない。
ある日、インターホンが鳴った。
美咲は這ってドアまで行く。
坂井が立っていた。
「お見舞いです」
果物の詰め合わせ。
「……ありがとう」
「復帰、待ってます」
坂井は言う。
美咲は何も答えない。
「美咲さん」
坂井が言う。
「僕は、測ることでしか——世界と繋がれないんです」
美咲は彼を見る。
「彩さんも、それが嫌だったんだと思います」
坂井は続ける。
「僕は彼女を測ろうとした。体重も、食事の量も、睡眠時間も。でも——彼女が求めていたのは、そういうことじゃなかった」
沈黙。
「美咲さんは、僕と似ていると思っていました」
坂井が言う。
「でも——違いましたね」
彼は頭を下げて、去る。
美咲は果物を見る。
りんご。バナナ。みかん。
それぞれ何グラムだろう?
測れない。
もう——測れない。
翌朝、美咲は体重計に乗った。
ディスプレイが点滅する。
0.0kg
彼女は息を呑む。
もう一度乗る。
0.0kg
嫉妬は、彼女をすべて食い尽くした。
身体は残っている。骨も、肉も、皮膚も。
でも——彼女自身は、測定できない。
いや。
嫉妬が、彼女の全重量になった。
彼女は「嫉妬そのもの」になった。
だから——自分自身は、0.0kg。
美咲は鏡を見る。
痩せた女性が映っている。
確かに存在している。
でも——ゼロ。
二週間後、美咲は職場に復帰した。
同僚たちが「おかえり」と言う。
田中が笑う。山岸が声をかける。
坂井は変わらず検体を測っている。
美咲は計量室に入る。
白い天秤が彼女を待っている。
坂井が検体を持ち込む。
「お願いします」
「はい」
美咲は容器を天秤に乗せる。
ディスプレイが数字を刻む。
0.0g
別の検体を乗せる。
0.0g
何を乗せても、ゼロ。
「美咲さん?」
坂井が声をかける。
「数値は?」
美咲はディスプレイを見る。
坂井の目には、正しい数値が見えているのだろう。
彼女の目には、ゼロしか見えない。
「50g、です」
美咲は嘘をつく。
坂井は記録する。気づかない。
美咲は測定を続ける。
すべてがゼロを示す世界で、彼女だけが——何かを測っている。
それが何なのか、彼女は知らない。
知る必要も、ない。
窓の外では十一月の風が吹いている。
葉が舞う。
軽そうだ。
美咲は思う。
もし嫉妬に重さがあるなら、世界中の人間は立っていられない。
でも、みんな立っている。
重さを測れない人間だけが——重さに潰される。
そして、ゼロになる。
美咲は天秤に向き直る。
次の検体が運ばれてくる。
ディスプレイには、ゼロ。
いつも、ゼロ。
彼女は測定を続ける。
終わりのない、計量。
*
その日の夕方、美咲は自分を天秤に乗せた。
誰もいない計量室で。
ディスプレイ:0.0kg
彼女は降りる。
また乗る。
0.0kg
美咲は笑う。
声が出ない。
涙も出ない。
ただ——ゼロだけが、点滅している。
彼女は窓を開ける。
風が入ってくる。
冷たい。
美咲は——測ることをやめない。
測れないのに、測り続ける。
それが彼女の仕事だから。
それが彼女の存在だから。
そして——それが、彼女の罰だから。
ディスプレイの光が、白い計量室を照らす。
0.0kg。
0.0kg。
0.0kg。
数字は、嘘をつかない。
(完)
『嫉妬の重さは0.0kgでした』 ——測れない感情が、私を食い尽くすまで ソコニ @mi33x
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