第2編 生命への反逆たるイキモノ
数週間ほど、その人間は目を覚まさなかった。
いや、研究員たちは彼の目を覚まさせなかった。多量の麻酔を打ち込み、継続的に眠らせていた。レートが決まっていなかったからだ。その生物の危険性の度合いを表す6段階のレートによって、就ける職や受ける措置、居住地が変わるのだ。最上級であるレートA+では国が認めた最大量の鎮静剤を定期投与され、身体の自由が奪われた後、隔離施設で余生を過ごすこととなる。レートはこの多様な種族で構成される獣人社会において、秩序を維持するための重要なものである。
5月29日 午後10時36分 東京帝国大学荻原キャンパス
「…疲れた…」
実験棟を抜け、犬飼環はため息をついた。実験が設備の不備で数時間ほど長引いたのだ。
(コトネさん、もういないかな、申し訳ないな)
唯一の友人に会うためにせっかく巻いた髪も、巻が取れ、元の跳ね毛のボブに戻っている。
環は気が沈んだ様子で、不慣れなヒールで銀杏並木を抜ける。
正門を抜けると、右脇に見慣れた大きな体躯が見える。
「あーっ…やっと来たぁ」
「こっ、コトネさん!?」
それは公安の同僚で唯一の友人、半獣の東雲コトネであった。
いつもの艶のある黒髪のショートヘアに、黒の合皮のジャケットがよく映える。黒髪と対照的な白くて大きな耳の毛並みは大きく乱れていて、少し息が切れている。
「お疲れ様、ほら」
というと、コトネは手に提げていたコンビニ袋から小さな菓子パンを取り出し、
「さっきコンビニ行ってきたの、たまちゃん疲れたでしょ。家まで送るからさ、一緒に食べよ」とそれを環へと差し出したのだった。
獣人と半獣…奇妙な組み合わせだ。しかも2匹とも同じ菓子パンを黙々と食べ歩いている。
「あ、おいしい…」
思わず声が漏れた。コトネさんが買ってきたのは、生地がサクサクとしたアップルパイだった。咀嚼する度に、シャキ、と煮りんごが潰れ、シナモンの香りとバターと砂糖のまろやかな甘みが疲れた体に染みる。
「これおいしいでしょ、新作。あと2つだったんだよ。私に感謝しな」
ニヤリと笑い、いつも通り、コトネさんはおちゃらけてくれてる。普段表には出せないが、私はそんなコトネさんの人柄が好きだ。
そんなことを思いながら、海辺の遊歩道を2人で歩く。しかし時々思う。私という獣人と関わって、彼女は辛くならないのだろうか。私の父は、あなたたち半獣を…
「あーちょっとちょっとっ、髪の毛口に入ってる」
「なーんでいっつも片目だけ隠してんの、口に入っちゃうじゃん」
やめて、と言いかけて、
私の左目を隠す髪が退かされた。
「…はーん、そういうことか」
私は俯くことしか出来なかった。コトネさんにだけは知られたくなかったのに。
しばらくは、無言で歩いていた。今日は波が少しだけ荒かったようで、漣の音と、ヒールと煉瓦がぶつかる音だけが耳に入ってくる。
「…あのっ、今日やっぱり、父の見舞いに行くので、ここまでで…」
いたたまれなくなって、返事も待たずに逃げるように横断歩道を駆け抜けた。
明日からまた独り、なんて思いながら、乱れた前髪を整えながら。
毎度恒例の手続きを済ませ、父の病室へと向かう。時間も時間だから、おそらく寝ているだろう。父をその場から逃げるための口実にしてしまった自分を憎たらしく思う。
しばらく廊下を直進して、突き当たり。508、脇に「犬飼 義丸」と書かれたプレートのみが縁にはめ込まれた病室がある。
大丈夫、私は父さんも母さんも、許してる…
深呼吸を繰り返し、ようやくドアをノックして、ドアをスライドした。
「…!?」
ドアと壁の隙間からでも分かる。嫌な予感がする。
恐る恐る、ドアをスライドしていく。
「…萩窪、冬海…?」
顕になったのは、眠っている父の病床の脇で、パイプ椅子に腰かける羊の半獣だった。
嫌でも忘れられない。10年前父の研究所で暴動を起こし、父の腕を食いちぎった張本人。
思わず呟いたその名前に気づき、萩窪冬海はゆっくりと振り返り、こちらを見たあとに、緩やかな動作で立ち上がった。
「ふふ、お久しぶりですね…」
街中に掲げられている指名手配ポスターでは分からなかったが、私より30cmは高く、完全にこちらが見下ろされている。その華奢な体躯でも、いざ襲われたら完全にこちらが不利になる。
「やだなあ、そんなにまじまじと…」
と不気味に首を傾げた。鎖骨までの亜麻色の髪が妖しく揺れ、白く大きな羊耳に付けられた痛々しい数のピアスが月光を反射する。
「父さんに何しに来たのかは知りませんが、即刻出ていってください…」
萩窪は耳を立て、腫れた細い目をぱちくりとさせると、
「出ていく?とっても面白い冗談を…僕はただ講釈を垂れに来てやったんです、生命への冒涜を働いちゃった彼にね…」
少しの間の後、私はその陳腐な言い草に息を呑んでしまった。
そうだ。目の前にいる萩窪、コトネさんは人工生命の半獣で、
その半獣を発明したのも、生命として形にしたのも、生きる傀儡としたのも、全部は父だ。
父が禁忌に触れたのは、私のせいだ。私がこんな姿で生まれてきてしまったせいなのだ。
それを目の前の、レートAの。反社会に生きる、18歳の食肉中毒の。自分とはかけ離れている存在に気付かされてしまった。
「…ああ、ごめんなさいね。僕には女性を泣かせる癖なんてないんですがね…」
「それでは僕はこの辺りでお暇します。どうか楽しんで、親子水入らずで…」
罪悪感と追憶で、きっと私の顔はぐちゃぐちゃだろう。隣では父が安らかに眠っていた。萩窪がドアの取手に手をかけようとしたが、手が虚空でピタッと止まり、ふいに、肩を乱暴に掴まれる。
掴まれた痛みと蛇が首に巻き付くような恐怖で思わず体が跳ねる。
掴まれて少しの間。萩窪の口が私の耳元に近づき、囁いた。
「僕はこの社会を恨んでますよ。科学技術なんて、バカ言えなくなるくらい。いつか貴女方公安を、徹底的に叩きのめす…」
ぱっ、と離された反動で少しよろめく。
じゃ、と手をヒラヒラと振り、軽やかに踵を返し、萩窪は病室を後にした。
解放された安心感と恐怖で、私はその場にへたり込んだ。
いつの日だろう。僕、晴海に使命が与えられた。兵器である僕が、生物たちを導くということらしい。
暖かい日差しの中、ドクターが車椅子を押しながら、そう語ってくれた。
暖かい日差しと対照的に、僕が次に目を覚ましたのは、無機質な白の中にコードが沢山埋め込まれ、青白い光が照りつける、知らない天井だった。
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