忠誠は甘く、主人を蝕む
星野 千織
【Ⅰ】静寂の檻
カインは、私の影だった。
常に背後に寄り添い、傍らに在りながら、気づかぬうちに私のそばに寄り添う存在。幼い頃に親より与えられた彼は、まるで足元から離れない闇のように常に共にいた。
それは私にとって、太陽の下でくっきりと伸びる、頼もしいもう一つの“私”だった。
朝、目覚めれば、まだ薄暗い寝室に彼の気配がある。
黒髪は夜の闇に溶け込み、その深い瞳だけが、かすかな光を宿していた。
「おはようございます、エリオット殿下」
「あぁ……おはよう」
彼は音もなく湯気の立つ紅茶を差し出し、私の身支度を完璧に整える。
その手はいつも穏やかで、決して私を急かすことはない。
私は彼に、全幅の信頼を置いていた。
幼い頃から護り、支え続けてくれたカイン。
彼がいなければ、私はきっと、この広大な城の中で迷子になってしまうだろう。
彼は私の言葉にならない願いさえも汲み取り、先回りして行動してくれる。
彼の存在は、私にとって空気のように当たり前で、水のように不可欠なものだった。
——けれど、時折、微かな違和感が胸をよぎることがあった。
ある日の夕食時、私が他の従者と笑い話に興じていると、ふとカインの視線を感じた。
彼の黒い瞳は、一瞬だけ、凍てつくような冷たさを宿しているように見えた。
それはすぐに、いつもの献身的な表情へと溶けて消えたが、私の心には小さな氷の粒が残った。
——ああ、彼は私が公務から離れて騒ぐのを良しとしないのだな。
そう思い、私はすぐにその違和感を打ち消した。
彼は真面目すぎるのだ。私のことを心から心配しているからこそ、少し厳しくなることもあるのだろう。
そう自分に言い聞かせ、私はカインに笑いかけた。
「カイン、君も何か話さないか?いつも働き詰めでは疲れてしまうだろう。」
彼は静かに微笑み、
「いえ、エリオット殿下の笑顔を拝見できるだけで十分でございます」と応えた。
その声は優しく、私の心は再び安心感に包まれた。
——それでも、あの冷たい視線が。
時折、夢の淵で私を捉え、胸を締め付けることがあった。
それは、遠い嵐の予兆のように、微かでありながら確かに存在していた。
◇
私の周囲の人々が、まるで枯葉のように――一枚、また一枚と散っていくのに、私はどこか鈍感だった。
まず、最も信頼していた顧問官が、故郷の母親の重病を理由に、急遽任を辞した。
次に、若い頃から親しくしていた友人が、遠方の領地の管理を任され、挨拶もそこそこに旅立っていった。
さらに、城内で私の世話をしてくれていた古参の侍女たちが、立て続けに体調を崩し、表舞台から姿を消した。
彼らが去るたびに、私は深い喪失感を覚えた。
けれどそのたびに、カインが傍らに寄り添い、優しく語りかけてくれた。
「殿下、ご心配召されることはございません。私がおります。殿下の重荷は、すべてこのカインがお引き受けいたします。」
その声は蜜のように甘く、私の心を癒した。
寂しさや不安が募るたびに、私はカインの広い背中に安心を覚えた。
まるで、嵐の海を漂う小舟が、唯一の灯台を見つけたかのように。
それ以降、カインは以前にも増して献身的に私の世話を焼くようになった。
私の食事は彼が自ら毒見を行い、公務の書類もすべて彼が目を通してから私に差し出す。
「殿下は細かなことに煩われる必要はございません。殿下は、ただ国の未来を見据えていればよいのです。」
私はその言葉を疑わなかった。
彼の選りすぐった情報だけが私のもとに届くようになり、私の世界は少しずつ、彼によって形づくられていった。
外の出来事や他の貴族たちの動向は、すべてカインの言葉を通して語られるようになり、私は次第に、彼なしでは何も判断できないような奇妙な依存を覚えるようになった。
私の自由も、知らぬ間に奪われていった。
城下町への外出は「最近、治安が乱れておりますゆえ」と諭され、夜の散歩も「殿下の御身に何かあっては」と止められた。
いつしか、私の世界は部屋の窓から見える景色だけになっていた。
それでも、私は彼を責める気にはなれなかった。
彼は心から私を案じてくれている。
その純粋な愛情ゆえに、少し過保護になっているのだ――そう自分に言い聞かせた。
夜、寝台でふと目を覚ますと、いつも彼の気配があった。
カインは温かいミルクを差し出し、私の髪を優しく梳く。
指先が頭皮を撫でるたび、心地よい痺れが全身に広がった。
その甘美な感触は、幼い頃に母にしてもらったように優しく、しかしどこか背徳的な響きを伴っていた。
私は目を閉じ、彼の指の動きに身を委ねる。
耳元で彼の息遣いが囁いた。
「殿下は、この世で最も尊いお方。どうかご安心ください。私が、殿下を永遠にお守りいたします。」
その言葉は私を安堵させる一方で、胸の奥に鉛の塊を落とすような重さを残した。
――私は一体、何に縛られているのだろう。
なぜ、こんなにも満たされているのに、息が詰まるような苦しさを覚えるのだろう。
カインの瞳は、かつて私が感じた冷たさの代わりに、私を深く、深く捉えて離さない黒曜石のような執着を宿しているように見えた。
彼は私が話す相手を注意深く選び、書く手紙の内容にも、さりげなく口を挟むようになっていった。
そして私は次第に、カイン以外の誰とも心を開いて話せなくなっていた。
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