旋風の孤次郎(KAZENO KOJIROU)

小崎信裕 KOZAKI NOBUHIRO

(1) 宿場町




 信州の空は澄み渡り、谷を渡る風が旅人の笠を揺らしていた。孤次郎が中山道、塩尻宿についたのは、日がちょうど真上に来た頃だった。


 いつものように孤次郎は道端に茣蓙を敷き、腰をおろす。肩に掛けた帆布の行商袋から、蝦蟆の油、竹筒入りの七味唐辛子、各地の民芸品を数個、茣蓙に並べ、三度笠を傍らに置いた。


「さあ、お立合い。万能の妙薬、蝦蟆の油。江戸、深川の七味唐辛子。そして、これは珍しい、会津若松の名工が作ったと伝え聞く牛の張子人形、赤べこ。これは魔除け、厄除けの御利益ありとの縁起物。今日は大安売りだよ」


 茣蓙の上の赤べこの頭が、孤次郎の口上に合わせるように揺れる。道行く人々は忙しそうに往来し、町の遠くには湯煙の立つ温泉街も見えた。旅人がひと息つくには絶好の地である。 孤次郎は口上を一通りやったが、すぐにやめ、懐から蘭学書を取り出して頁をめくった。商売は元々、好みではない。 彼は江戸・深川の雑穀商の跡取り息子だったが、商売には興味がなく、平賀源内に憧れて蘭学を志した。小石川の山川源馬に師事し、学問に勤しむ日々。しかしある日、深川で悪党を斬り、旅に出たのだった。行商は、賞金稼ぎをかく乱する方便でもある。孤次郎は本を眺め、小さくため息をつく。


 その時、声がした。

「おっちゃん、いまどき蝦蟆の油なんて売ってるのかい?」


 振り向くと、十歳ほどの男の子が、茣蓙の後ろに立てた蝦蟆の描かれた旗を見て吹き出していた。


「蝦蟆の油なんてインチキだってさ。この町の子供でも知ってるよ。売れるわけないって」


「ぼうや、ずいぶん失礼だな」


 孤次郎は蘭学書を閉じ、茣蓙の上に置いてにやりと笑った。

少し考えてからこう言った。

「じゃあ、お前さん、もし本当に効くと証明できたら、どうする?」


 子供は目を丸くし、肩をすくめる。


「そりゃ驚くけど、そんなのありえないよ」


「絶対だな」


「そうだよ」


「絶対ってのは、この世にあり得ないぜ」


 孤次郎は笑い、茣蓙の上の蝦蟆の油を手に取った。


「ほれ、ちょっとだけ試してみるか」


 子供は後ずさりしたが、好奇心に勝てず手を伸ばす。


「でも、本当に効くの?」


「嘘は言わねえ。ぼうや、どこか痛いところはないかい?」


「うん、さっき坂道で転んで、右膝がちょっと痛い」


 孤次郎が膝を見ると、赤く擦り剝けていた。


「よし、とりあえずそこに塗ってみな」


 子供は手に蝦蟇の油を取り、孤次郎に促されるまま擦り剝けた膝に一滴落とした。


「ほんとだ、痛みが引いていく」


   通りすがりの人々も足を止め、次第に人だかりができる。 孤次郎は立ち上がり、旗の前で両手を広げる。


「さあ、これが本物だ。万能の妙薬、蝦蟆の油!」

 人だかりの中から一人の若い男が出てきて、蝦蟆の油が入った蛤の貝殻を指さした。


「おいら、これを買うぜ。おいらのおっかさんが、最近肩が痛いって言ってたんだ。これで治るかな?」


 その一言をきっかけに、蝦蟆の油はあっという間に売り切れた。 人だかりが消え、孤次郎は大きくため息をつく。


「ぼうや、大したもんだろ?」


「おっちゃん、案外商売上手だね。驚いたよ。気に入った。おっちゃん、今の金でうちの店に来ないかい?」


「うちの店って何だい?」


「その角を曲がったところにある蕎麦屋さ」


「蕎麦か、いいなあ。ちょうど腹が減ってきたところだ」


「それに、おっちゃん、まだ今日の宿、決まってないだろ?うちだったら安く泊まれるよ」


「おいおい、客引きだったのかい。気がつかなかったなあ。商売上手とは俺じゃねえ。お前さんのことだ」


 二人は顔を見合わせ、孤次郎は少年の目をじっと見つめながら、小さく笑った。その目の奥に、少し翳があった。 吹き抜ける風が旗を鳴らす。赤べこの首がまだわずかに揺れていた。 孤次郎は笠を手に取り、空を見上げた。信州の空は、どこまでも澄んでいた。

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