第3話 匿名掲示板という名の「知的な地下室」
金成夢太という名の「マネタイズの悪魔」が去った後、先生は激しく落ち込んだ。
「無料リソースだと?この猫の可愛さが、誰でも撮れるリソースだと?くそっ、彼は真理をついている。今の世の中、真に価値があるのは、深淵な知性ではなく、刹那的な注目なのだから。」
先生はそう嘆きながらも、すぐに別の光る刑務所――今度は大型の光る板(ノートPC)――を開き、特定の匿名掲示板のウィンドウを立ち上げた。そこには、彼の知人や、彼がかつて所属した業界の人間たちの悪口が、「論理的な批判」という名の衣を着て並べられていた。
吾輩の観察によれば、先生は自分の投稿に「いいね」がつかない日は必ずこの掲示板を覗き、匿名で誰かを批判したり、逆に自分を擁護する書き込みに安堵したりする。ここは、現実世界で承認されない知識人たちが集う、「知的な地下室」である。
その日、地下室の窓を叩いたのは、先生の大学時代の先輩である、御影 鋭二(みかげ えいじ)という男だった。彼は、近隣の大学で社会学を研究しているが、世間に知られるのを極度に恐れており、SNSはすべて鍵アカウント、公の場では一言も発しない。
御影は、コーヒーと煙草の匂いを身にまとい、猫である吾輩から見ても陰気な空気を醸し出していた。
「やあ、苦沙弥くん。あの、金成とかいう男、ずいぶん羽振りがいいようだね。君が彼に迎合するような記事を書かなければいいが…彼は学問的な議論をする資格すらない」
御影はそう言いながら、先生が先週投稿した「AI時代の知覚資本論」に、匿名で書かれた批判コメントをPC画面上で先生に見せた。
「これだよ。君の言いたいことはよく分かる。だが、この段落はア・プリオリ(先験的)な前提が甘い。彼の言う『デジタル・ヒエラルキー』の概念は、フーコーの権力論を参照せずに語るべきではない。」
先生と御影の議論は、誰も読んでいない匿名掲示板の書き込みを中心に進んでいく。彼らの会話の唯一の目的は、「自分たちが、他の人間よりも深く、正しく世界を理解している」という優越感の確認作業だ。
吾輩は、床の上で欠伸をしながら観察した。
彼らは、匿名掲示板では、「他者を論破すること」を、「自らの知性の証明」と信じている。その鋭い批判は、権力や社会の欺瞞に向けられているようでいて、結局は、現実の世界で自分の意見が無視されたことへの鬱屈した八つ当たりにすぎない。
「御影先輩は、なぜご自身の名前で論文を発表しないのですか?先輩の洞察は、匿名掲示板に閉じ込めておくには惜しい」先生が尋ねた。
御影は煙草を深く吸い込み、吐き出した煙を光る画面に吹き付けた。 「馬鹿を言うな、苦沙弥くん。実名で社会を批判するなど、今の日本では自殺行為だ。一度でもバッシングを受ければ、我々のようなアカデミアの人間は社会的な地位を失う。『炎上』とは、デジタル時代の魔女狩りだよ。」
彼らは、社会的な地位と安全を守るために、最も大切な「言葉の力」を匿名の闇に差し出している。彼らにとって、「実名での発言」よりも「安全な場所での陰口」のほうが、よほど価値があるのだ。
御影は続けた。 「金成のような俗物が跋扈するのは、彼らが『炎上を恐れない』からだ。彼らは失うものがない。だが、我々は違う。我々が真理を語るには、常に『皮を被る』必要がある。匿名という皮をね。」
その時、吾輩は部屋の隅で、御影のSNSの鍵アカウントが開かれたままになっているのを見た。アカウント名は、彼の研究テーマとは全く関係のない、猫の写真をアイコンにした偽名だった。
そして、そのアカウントの最新の投稿は、吾輩が先日先生に無理やり着させられた、読書に耽る猫のパロディ写真に、「いいね」をつけているという記録であった。
御影が、吾輩のファンだった。
先生を論理的に批判し、金成夢太を学問的に見下す御影鋭二という知識人が、匿名という皮を被った先で、結局は先生の「バズ要員」である吾輩の可愛さに「いいね」を押して安らぎを得ていたのだ。
吾輩は静かに立ち上がり、御影の足元を通り過ぎる際、敢えて「ニャー」と鳴いてやった。
御影は、その瞬間、一瞬で顔が赤くなり、慌ててPCを閉じた。まるで秘密を覗かれた少年のような顔だ。
匿名という鎧で武装し、他者を批判することでしか自らを肯定できない知識人たち。彼らの「真理の追求」の果てにあるのは、安全な場所での陰口と、猫の可愛さという刹那の癒しだけなのだ。
吾輩は、人間というものの虚勢と、その内側に潜む卑小さを、深く理解した。
――知識とは、匿名という名の「逃げ道」を得て、初めて成立するものなのか。
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