吾輩は猫、名前はまだないが、先生はバズに狂っている。
@gokigen21
第1話 吾輩はSNSの道具である。名前はまだ映えない。
吾輩は猫である。名前はまだない。
その必要性を感じたことがない。そもそも吾輩が名付けられるとしたら、それは人間が勝手に吾輩の存在をカテゴリーに押し込めるという行為にほかならない。人間どもは万物に名前を付けたがる。まるで、言葉によって世界を支配できるとでも信じているかのように。愚かしい。
吾輩の飼い主、この家の家主は、自らを「フリーのデジタル・コンサルタント兼ライター」と名乗っている。面倒なので、以下「先生」と呼ぶ。年齢は三十代後半。元々は勢いのあるスタートアップで役員をしていたそうだが、「イノベーションとやらの失敗」で職を失い、今は自宅のリビングをオフィスと称して、一日中、光る板と睨めっこしている。
先生は、吾輩に話しかける回数よりも、その光る板――彼らが「スマートフォン」と呼ぶ小型の光る刑務所――に話しかける時間のほうが圧倒的に長い。その箱からは絶えず「ピロロン」「キュイーン」という、甲高い餌をねだる鳴き声のような通知音が発せられ、そのたびに先生は、獲物を見つけたハイエナのように飛びつく。
吾輩の観察によれば、その鳴き声によって先生の機嫌は二極化する。鳴り止まない時、彼は猫なで声で「バズっている。オレの視座が世間を変える」などと独り言を垂れ流し、まるで自らが世界の中心にいるかのように振る舞う。鳴らない時は、胃薬を飲みながら「レガシーな人間どもめ。オレの革新的な思想が理解できないか」と、八つ当たりにも似た悪態をつき、その怒りの矛先は時折、吾輩への撫で方に出る。撫でるというより、乱暴に掴む、といったほうが正確だ。
先日など、渾身の長文の投稿に「いいね」がひとつもつかなかったらしく、先生はリビングで絶望の雄叫びを上げた。
「チクショウ!オレの渾身の『AI時代の知覚資本論』より、隣の家の犬の『寝相』を撮った写真の方がフォロワーが多いだと?……クソッ、これがインプレッションの暴力か!」
先生は、自らの知性が認められないことに苛立つ一方で、隣家の犬のフォロワー数という、デジタルなカースト制度に屈している。この矛盾こそが、人間の滑稽さの源泉である。
そして、その絶望の果てに、先生はついに最終兵器を起動させた。
「おい、そこのバズ要員!」
先生は吾輩を乱暴に抱き上げた。吾輩は、彼の汚れたTシャツから発せられる酸っぱい汗の匂いに、静かなる不快感を覚えた。
「オレのコンテンツがダメなら、お前をコンテンツにする!お前は最高だ、フワフワだ、カワイイ!最高の『エンゲージメント・ファクター』だ!」
吾輩は、「コンテンツ」という言葉だけは理解した。つまり吾輩は、先生の虚栄心と承認欲求を満たすための道具に成り下がった、ということだ。
そこから、吾輩にとって受難の撮影会が始まった。
先生は、自らの映えない生活を隠すかのように、小道具を次々と持ち出してきた。まず、吾輩の横に開いたままの哲学書と、スタバ風の高級マグカップを置く。そして吾輩を、無理やり前脚で本に触れさせ、こちらを向くようにポーズを取らせる。
「そうだ、その顔だ!『読書に耽る知的クリエイター猫』! #うちの子天才 #朝活猫 #猫のいる暮らし」
吾輩は読書などせぬ。吾輩の唯一の学問は、先生という二足歩行の生態を理解することである。それに、この液体(コーヒー)は吾輩にとって毒である。先生がしつこくシャッターを切るたびに、吾輩は彼の行動を分析した。人間というものは、なぜ自分の理想とする虚像を他者に押し付けたがるのか?吾輩は本心では、ゴロゴロと日光浴をしながら、先生が無視して食べた床に落ちたビスケットのクズを舐めたいだけなのに。先生はそれを許さず、吾輩に「知的」という虚偽の仮面を被せようとする。
数十枚の試行錯誤と、吾輩の抵抗による無数の傷が先生の手についた後、先生はついに「神の一枚」をアップロードした。
「行け、オレの承認欲求!」
先生はスマホを握りしめ、まるで熱狂的な信者のように通知音を待つ。
そして、それは来た。「ピロロロン!」「ピロロロン!」
先生の投稿した、吾輩の写真には、たった数分で数百の「いいね」がつき、コメント欄には「可愛すぎる」「賢そう!」「癒されます」といった、心にもない鳴き声が並んだ。
先生は狂喜乱舞し、「最高のコンテンツだ!」と叫びながら、吾輩を撫でる手が、今度は奇妙なほど丁寧になった。そして満足げに、吾輩に新しい餌を少しだけ多めにやった。
吾輩は、光る画面に映る自分の姿を見た。そこにいるのは吾輩ではない。「#うちの子可愛い」というハッシュタグに閉じ込められた、先生の承認欲求を満たすための道具としての、コンテンツの亡霊である。
吾輩の魂は、この光る箱の中には存在しない。人間は、他者の可愛さや滑稽ささえも、己の承認欲求を満たすための道具としか見なせない哀れな生き物である。
――まあ、餌が増えるなら許してやるが。
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