第二十四話 静かな夜、進撃の道
夜明け前の空は、薄く白んでいた。
オリビアたちは夜明けとともに、スフォンジーの森へ向けて馬を走らせていた。
風を切る音と、蹄が土を叩く音だけが響く静かな道だ。
サンドが隣を並走しながら口を開く。
「……なあ、オリビア」
「ん?」
「悪い……あの時、お前の剣……持ってこられなかった」
言葉の端に、悔しさがにじむ。
あの飛空艦から気絶したオリビアを抱えて飛び降りたとき、剣に手を伸ばす余裕などあるはずもなかった。
オリビアは一瞬だけ目を細め、首を振った。
「いいの。……サンドがいなかったら、私は今ここにいない。剣より大事なものを拾ってくれた」
サンドは大きな手で後頭部をかき、気恥ずかしそうに顔を逸らした。
「……そう言ってくれると助かる」
エルドゥが前を向いたまま笑う。
「剣なんざまた拾えばいい。命は替えがきかねえからな」
その空気の中、サンドがふと声を落とす。
「……にしても、あれ……なんだったんだろうな」
馬上に一瞬、張りつめた空気が流れた。
「圧」――あの夜、飛空艦の甲板でオリビアの身体から溢れ出した、息もできないほどの異常な魔力。
サンドとエルドゥはあの場にいた。忘れられるわけがなかった。
オリビアは小さく息を吐く。
「……わからない。マイケルを倒したところまでは、なんとなく覚えてる。でもそこから先は真っ白。……ただ、自分の中から何かが溢れ出してくる感覚は、うっすらとあった」
ガレンが手綱を少し緩め、前を見据えながら言葉を添える。
「俺は実際には見ていないが……周りから聞いた話じゃ、飛空艦はあの瞬間に制御を失ったらしいな。魔力炉が暴発しかけた可能性もある。……それなら、あの現象にも一応、筋は通る」
オリビアはうなずきながらも、胸の奥に小さな違和感を覚える。
――あれは、外から来たものじゃない。
確かに、自分の中から“何か”が込み上げてきたのだ。
その思考を、エルドゥの大きな声が遮った。
「ま、どんな原因だろうが、今こうして生きてる。それで十分だろ? な、オリビア」
オリビアは思わず微笑んだ。
「……そうね。今は前を見なきゃ」
空はすでに西へと傾き始めていた。
馬の蹄が乾いた道を叩く音が夕空に響く。
スフォンジーの森までは、王都からおよそ150キロメディル。
前回の戦いの地がその中間――約100キロメディル地点。
このまま進めば、明日には森に到着する。
夕刻。赤い光が地平線の向こうに沈み、4人は小高い丘の上で馬を止めた。
「ここらで一泊しよう」オリビアが短く告げる。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立て、夜風が頬を撫でた。
サンドは鍋を火にかけ、エルドゥは枝を集め、ガレンは馬の世話をする。
それぞれが当たり前のように役割をこなす。
戦場をいくつも越えてきた者たちに、余計な言葉はいらなかった。
オリビアは火の向こうを見つめる。
焦燥も恐れも、不安もなかった。
――いや、正確には、それらすべてを“超えた”感覚があった。
「……進もう」
その声は炎の音に溶け、静かな夜へと消えていった。
誰もがただ、前を見据えていた。
火は小さくなり、音だけが残っていた。
サンドは鍋の底を水で流し、エルドゥは湿った薪の束を雨避けの布で包む。ガレンは馬の脚を確かめ、蹄鉄に緩みがないかを指で押していく。
オリビアは地図を膝に、指先で行路をなぞった。
「見張りは二刻で交代。サンド、最初頼む。次にガレン、最後は私。エルドゥは夜明け前に火起こしと湯を」
「了解」
「任せろ」
「おう、湯は濃いめにしてやる」
それだけを決めると、夜は静かに進んだ。誰も余計なことは言わない。言葉より、明日の足取りのほうが大事だった。
――夜明け前。
東の端が薄くほどけ、草葉の露が白く光る。湯気の立つ木椀を手に、ひと口ずつ喉を通す。温度が腹に落ちると、身体が自然に動く準備に入るのがわかった。
「出よう」
オリビアの合図と同時に、四騎は丘を下った。土は乾き、ところどころに古い車輪の跡。風向きは北東。鼻腔に、湿った木の匂いが混じりはじめる。
午前。
太陽が肩越しに移る頃、地平の黒が形を持った。盛り上がる樹海、スフォンジーの森。縁は深く、影は厚い。
サンドが手綱を軽く締める。「でけぇな、毎回思うけどよ」
エルドゥは短く息を吐いた。「入口は三つ。西の切れ目はぬかるむ。真ん中は獣道が多い。今日は北の尾根筋から入るのがいい。地が締まってる」
ガレンが頷く。
「合図は二吹きで停止、三吹きで退避だ。音は短く」
サンドが笑う。
「ガレンの合図は無駄がねぇから助かるぜ」
森縁に着く前、いったん下馬する。蹄に布を巻き、音を殺す。水嚢の残量、携行食、火打石、麻紐。
オリビアは全員の顔を順に見て、短く言った。「入る。列はエルドゥ、私、サンド、殿にガレン。声は落とす。迷ったら戻る。無理はしない」
ひと呼吸。
森から流れてくる温度が変わる。影の中はひんやりして、音が吸い込まれていくようだった。
足を踏み入れる前に、エルドゥがぽつりと告げる。
「尾根筋を二つ越えれば、見晴らしの利く小高い丘がある。今日はそこまで。荷を下ろしてから周囲一キロメディルを輪で偵察、痕跡がなければ仮拠点にする」
「了解」
「任せろ」
「行こう」
四人は、影の向こうへ溶けていった。
鳥の声が一度やみ、すぐに別の方角でまた始まる。
枝を踏む音は短く、呼吸は静かに。
背後には、夜を越えた小さな焚き火の跡だけが、丸い灰の輪になって残っていた。
――そしてその数百メディル先。
苔むした倒木の上に、黒い影がひとつ腰を下ろしていた。
長い耳が風に揺れ、琥珀色の瞳がわずかに光る。
四人の足跡を追うように、その視線が森の奥へと流れた。
静かな森は、沈黙しているようで……すでに“見られていた”。
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