第二十一話 怒りの果てに
最初に変わったのは、音だった。
操舵室に満ちていた細かな物音――計器のチリチリという針音、油の滴る微かな音、人の喉の乾いた鳴り――それらが一秒で「遠く」なった。代わりに、空気そのものがうなる。低く、重く、腹の奥で感じる音。
次に、色が変わる。
オリビアの周囲の光が密度を上げ、輪郭がわずかに滲み、景色がレンズ越しのように歪む。風の層が重なり、水の粒子が光を抱え込む。空気は見えないはずなのに、いまそこに「見える壁」がある。
彼女の胸腔がひとつ、深く沈み、吐息が出る。
怒りが核。
悲しみが炉。
軽蔑が触媒。
そこに、守りたいという意思が火を入れる。
風が膨張する――否、空気そのものが圧を持ちはじめる。
操舵室の床板が低く唸り、釘がきしみ、壁に固定された計器のガラスが微細に鳴った。
風が回る。だが流れていない。回転だ。一点を中心に、見えない車輪がいくつも生まれる。車輪は互いの縁を擦り合い、熱を帯び、そこで水が凝り始める。濡れた空気が厚みを増し、圧力はさらに上がり、外へ逃げる道が消える。
守備兵の一人が膝をつく。
「……っ」
肺が膨らまない。空気はそこにあるのに、喉が開かない。目の毛細血管がはじけ、耳が詰まり、鼓膜の内側で自分の鼓動だけが大きくなる。
もう一人が剣を落とす。落ちた剣は床で跳ねない。重く吸い付く。
マイケルだけが辛うじて立った。
立って――いるだけだった。
膝が笑い、手が震え、顔の脂汗が圧で眼窩へ流れ込む。
「や、やめろ……こっちは人質だぞ……助けてくれ、命だけは……!」
言葉の端が潰れ、舌がうまく回らない。舌すら重い。裾が濡れる音がして、失禁の臭いが油に混じった。
そして――少女。
人質の彼女は、いちばんオリビアに近い場所にいた。
圧の中心から半歩ずれた、その縁。
空気の車輪が外へ逃がすべきはずの力を、一瞬だけ撫でるように肩へ置いた。
「……っ」
彼女の瞳が大きく見開かれる。恐怖――だけではない。高圧に晒された肺が、反射で吸気を拒む。喉が細く鳴り、次の瞬間、瞼がすっと閉じた。
少女は意識を手放した。
倒れる前に、風の縁がそっと体を受け、静かに床へ横たえる。――殺さない。その線だけは、暴走の内側でさえ、彼女の意思が保っている。
オリビアが、一歩。
見えない床石がかちりと音を立て、足裏がその石の上を移動する。
目は冷たい。虫を見る目。
「――下衆が」
言葉はそれだけ。
双剣が、空気の層を一枚めくるように抜かれ、戻る。
音は遅れてやってくる。風が爆ぜ、抜刀と納刀の線が一つに重なった瞬間、マイケルの膝が折れ、身体は糸の切れた人形のように静かに崩れた。叫びもない。尊厳が剥がれる音は、いつだって小さい。
圧は、なおも広がる。
操舵室の隅に転がったヘルメットが凹む。壁の地図が波打つ。窓の外、朝の薄闇に見える雲が手を伸ばせば掴める気がするほど近い。
オリビアの髪が浮く。銀の束が水の中のように緩慢に踊る。
(――止めろ)
内側からの声が遅れて届く。
(ここで止めなければ、壊す)
床板、導管、甲板の人々、自分自身。
意思が、暴走に手綱を掛けにいく。
だが、炉の火はまだ高い。友の顔と貧困街と卑劣が、燃料を吐き続ける。
限界を越えた魔力は、内側から自分を空洞にする。
視界の縁が黒く、耳の奥が水に沈む。
圧の中心にいるのは、自分だ。中心は、空洞だ。
(――駄目、まだ)
届かない。
灯りが、ふっと遠のく。
オリビアの膝が、静かに床へ触れた。
圧が一段、抜ける。
その抜けた瞬間、操舵室に残っていた守備兵は一斉に失神し、床に倒れた。
*
「――今の、何……!」
ラウニィーは弓を構えたまま、背中に冷たい汗を感じていた。空気が一度、押し潰された。音が歪んだ。
「リヴィ……なの?」
呼びかけは、風にさらわれるように薄い。彼女の足もとで、縄を解かれたばかりの民がいっせいに肩をすくめ、同じ方向を見ていた。圧は操舵室だけのものではない。甲板の空気さえ、一瞬、重くなったのだ。
操舵室前で守備隊と押し合っていたサンドも、同じ圧を皮膚で感じていた。
「くっ!!なんだこの馬鹿げた魔力圧は!」
土の魔力を一段、強く踏み込む。床材が彼の重さに馴染み、戻りが早くなる。盾で三人を押し潰し、膝で一人の腹を撃ち、肩で扉へ突進した。
扉が開いた瞬間に、サンドは本能で息を絞った。
まだ、残り香がある。圧が薄く部屋の端に滞留し、金属の匂いに混じっている。
それでも、もう中心は沈静していた。
倒れた守備兵。縄から解かれ、気を失っている娘。
そこら中のガラスが破片となって飛び散っている。
その横には床に崩れたマイケルの死体。
そして、その死体の前に銀色の髪が流れている。
「……オリビア!」
サンドは膝をつき、頬に手の甲を当てる。冷たくない。
喉元、呼吸。弱いが、確かな上下。
「息はある」
安堵は一瞬。
艦全体が、低い唸りを上げた。計器の針が震え、窓の外の水平線が傾く。
「……落ち始めてる!」
サンドは反射で状況をまとめる。操舵は死んでいる。艦は風を掴めない。ただ、落ちる。
「悪い、少し我慢しろ」
オリビアを肩に担ぎ、もう片方の腕で気絶した娘を抱える。巨体が立ち上がる動きが、驚くほど滑らかだ。荷重が分散され、二人の体が揺れにくい。鉱山で覚えた「持ち方」は、人を運ぶためにあったわけではないが、今はそれが最善の技術だった。
通路に出る。揺れが増す。天井のランプが鎖でぶら下がり、左右に強く振られている。
角を曲がるたび、床が足をすくい、壁が肩を打つ。
「どけぇ!」
サンドの声に、味方の兵が即座に道を開ける。
(重さは俺が受ける。お前らは軽く動け)
言わずとも、その背は伝えるのだった。
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