第十八話 「激突」
初手は風が速かった。
オリビアの双剣に沿って立ち上がった薄刃の気流が、夜靄を切り裂くように延びる。
マグナスは半歩、内へ沈む。手にあるのはミスリルのハルバード——斧刃と槍穂、そして鉤を備えた長柄武器。
柄の捌きで刃の腹をかすめ、受けた面に炎が走る。燐る熱が気流の稜線を焼き、風の刃は消えず、ただ撓んで回り込む。肩口を掠め—瞬時に噴き上がる炎の膜がそれを吹き飛ばした。
金属音は短い。しかし音の“厚み”が違う。
マグナスの一合は衝突であり、オリビアの一合は切断の連なり。
性質の異なる力が干渉し合い、土を持ち上げ、砂を散らし、視界の縁をざらつかせていく。
十合。風は舞い、炎は唸る。
二十合。オリビアは間合いを切り、呼吸を保ち、熱の層を読む。
三十合。マグナスの圧が一段、深くなる。
「……踏みとどまるか」
言葉が火花の間に挟まる。
オリビアの睫毛の先で小さな焦げが黒く固まり、喉に熱い空気が刺さった。
(炎の厚みが増している。火ではない——空気そのものの“沸点”を引き上げている)
足が焦げる前に、風が先に走る。
彼女は土に沿って風路を敷き、熱が滞留する層をすり抜けるように体重を移した。滑る。
双剣が連続し、片側の刃が胸甲の縁を叩く——火花。重い、厚い。表面を浅く削って止まる。
「軽いわけじゃない。だが——」
「決定打にならん」
低い声。
マグナスはハルバードを半円で回し、槍穂を前に出して一気に踏み込む。
長柄の利——間合いの主導権。
突きの“線”が風の“面”を穿ち、斧刃の返しが軌道を二段で折る。
オリビアは双剣を交差させ、受けず、撫でる。
衝撃を足裏から土へ落とし、返しの角度で肩の内へ潜る——
鉤が唸った。
ハルバードの背に隠れていた鉤爪が、双剣の片方を引っかける。
ミスリルの鈍い鈴のような音色。
一瞬、刃がきしんだ。
(引かれる——)
身体をわずかに回し、風で摩擦を殺す。
鉤の執拗な力が空を掻く。
オリビアは空いた半身で横薙ぎ、マグナスは柄で受け、回転の慣性を断ち切るように足を止めた。
火の粉が円を描き、黒い点々が視界に広がる。
四十合目を超える。
均衡は、わずかに傾く。
オリビアの脚に疲労の重さが増し、マグナスの肩はなお揺るがない。
炎魔法は熱だけでなく、意思の圧を纏う。
彼の長柄は時間が進むほど、正確に、重くなる。
(正面の力比べでは、まだ押し切れない。なら——読む)
風向きではない。
呼吸の節。熱の寄り。地面のわずかな隆起。
マグナスの踵が沈む瞬間、熱域が薄くなる。
そこへ双剣を差し込む——弾かれる。
即座に返して水平、さらに返して斜めへ流す。
三の斬糸が炎の鱗の間を掻き、鎧の留め金を雀斑のように弾いた。
返ってくるのは、斧刃の打撃。
風膜で角度を逸らし、足裏で衝撃を土へ落とす。
肺が焼ける。だが集中は切れない。
マグナスは柄を滑らせる。
槍穂が喉を狙い、即座に斧に戻り、柄尻で膝を払う。
一拍ごとに“形”が変わる。
斬、打、突、引。
それらが炎の脈動と同期し、剛と柔の境界が消える。
(——美しい、と思っている場合じゃない)
オリビアは地面の水分を拾った。
露が、霧が、彼女の意志で薄い膜になって絡みつく。
風だけでは滑らない角度が、いまは滑る。
刃が筋肉の流れに沿って抜け、炎の圧が薄い層へ逃げ、かろうじて均衡が保たれる。
だが、均衡は保つために削る。
体内の魔力の目盛りが、わずかに下がっていく。
*
視界の端で、稜線が揺れた。
——来た。
ラウニィー、サンド、エルドゥ。
その後ろに、黒髪紅眼の女——セレナ・エルンスト。
四つの影が本陣の緊張の外縁を切り裂くように駆け、砂煙を低く引いた。
同時に、オリビアは首を振った。
短い否。声にならない指示。
「……来るな」
四人の足が、ほぼ同時に止まる。
ラウニィーの喉が震える。「リヴィ——」
「下がって」
風が言葉に沿って弧を描き、四人と本陣の間に透明な境界線を引く。
マグナスの眉がわずかに動く。
「援軍を呼んだわけではないのだな」
「彼らは、彼らの戦いを終えてここへ来た。それだけ」
「ならばなおさら、ここは俺とお前の場であるべきだ」
「ええ。だから、下がってもらう」
ラウニィーは納得と葛藤の狭間で息を呑む。
サンドは無言で頷き、エルドゥは斧を立てて地に突き、セレナは刃を下げたまま周囲の導線を静かに観察して一歩退く。
四人は加勢できる距離にいながら、一歩、境界の外に残った。
兵たちは誰も動けない。
二人の周囲だけ、音が別の法則で鳴っている。
風の鳴り。炎の唸り。金属の啼き。
その三つが織り重なって、ただ「戦う」という行為の純度だけが剥き出しになっていた。
*
マグナスはちらりと横目で四人を量った。
顔に露骨な計算は出さないが、状況の理解は速い。
オリビアを倒すには、ここで全力を絞り切って刃を通すしかない。
——その直後に四人が踏み込めば、勝ちは消える。
盤面は冷酷だ。
“ここで仕留めれば相討ち。ここで仕留め損ねれば敗北。”
唯一、名誉を保つ退路は——まだある。
だからこそ、彼は前へ出る。
「最後に一つだけ確認しておこう、オリビア・エルフォード」
「何?」
「お前は、この場で俺を越えるつもりで来たのか。それとも、俺を止めるために来たのか」
「後者。——でも、“越えない”とは言っていない」
「上等だ」
大地が一拍、沈黙した。
露の玉が震え、草の先が音もなく折れる。
マグナスは炎を凝集させ、ハルバードの刃の内側に二重の環を走らせた。
赤と白の熱。
外殻が柔らかく、内が硬い。
切断ではなく、断熱で刃を通す構造。
対するオリビアは風を圧縮し、双剣の周囲に薄い渦膜を重ねる。
膨張と収縮の微差で相手の衝撃を滑らせる準備。
合図はない。
世界が一拍止まり——次の瞬間、二人は消えた。
*
刃が同時に現れる。
炎が円弧を描き、風が直線を数え、火花が糸となって空に撒かれる。
土は裂け、踏み石ほどの塊が宙に浮かぶ。
オリビアは浮石の上へ踏み直し、角度を変え、風の斜面でさらに一枚、見えない足場を作る。
マグナスは踏んだ浮石を一瞬で燃やし、空中の足場を消して追い込む。
外へ押し出すのではない。中央へ押し込む。
逃げ場を幾何学で封じ、最後の一合にすべてを集めるために。
——長柄が唸った。
槍穂が風膜を貫き、斧刃がその切り口を広げ、柄尻が脇腹を狙う。
三段折りの連携。
オリビアは双剣を縦に割って槍穂を弾き、斧刃を肘で殺し、柄尻の衝撃を腰で逃がす。
足裏が滑り、膝に熱が走る。
肺が焼け、視界の端が白く跳ねる。
(——まだ、届く)
彼女は呼吸を刻んだ。
吸い、吐く。
風を内に通し、水を外に薄く出す。
皮膚の表面に水の皮膜が生まれ、炎の乾きを一瞬遅らせる。
その一瞬で、体勢が再び前になる。
マグナスは炎域を二枚に割った。
外周は視界を歪め、内核は直進の圧だけを孕む。
歪んだ外周に反射的に視線が揺れ、そこへ“真っ直ぐ”が刺し込まれる。
——槍穂が喉に来る。
オリビアは顎を引き、半足ずらし、風で角度を撫で、双剣の片方で槍穂の肩を内へ押し込んだ。
軌道が半指、心臓から外れる。
同時に、左の刃が走る。
胸甲の中央、鳩尾の上。
刃は触れない。紙一重。
動けば切れる。動かなければ切らない。
ハルバードの鉤が下から掬い上げる。
双剣の刃に絡み、引く。
摩擦を殺す水の膜が、ぎりぎりで持ちこたえる。
柄が肩に食い、呼吸が詰まる。
(まだ負けてない——)
足元で、露が弾ける。
地面のひびに染み込んだ水が、彼女の足首を冷やした。
戦場のど真ん中で、港の風と、焚き火の夜と、雨の屋根が、一瞬、重なる。
「——来い」
マグナスの声が、刃の向こうから落ちてくる。
炎の唸りと重なり、音が低く沈む。
オリビアは前に出る。
双剣が交差し、風が薄い刃の列になる。
マグナスは正面から受けない。
斧刃をわずかに寝かせ、刃の線を“面”へ変え、力を斜め下へ落としていく。
長柄の利——受けを“流す”余白。
そこに炎の層が加わり、風の列が一枚ずつ焦げては削がれていく。
(このままでは削り負ける)
——それでも、退かない。
足音が一つ、二つ、土を叩き、風が背を押す。
肺が震え、喉が砂を吸うように痛む。
耳鳴りが海の遠鳴りに似てくる。
視界の外縁。
ラウニィーの矢羽が震え、サンドの盾が前に出かけ、エルドゥの斧が肩で鳴り、セレナの瞳がわずかに細くなる。
四人は境界を越えない。
越えればいける、と知りながら、越えない。
その選択に、戦場の空気がさらに静かになった。
*
最後の一撃は、前触れがなかった。
マグナスは熱をさらに圧縮し、ハルバードの刃の芯を“白”に変えた。
赤が包み、白が貫く。
外の熱は柔らかく、内の熱は硬い。
——刃に触れず、断熱の“芯”だけが通る構造。
オリビアは風を一段、深く沈めた。
渦が薄く重なり、双剣の周囲に“流れの谷”ができる。
膨張と収縮が半拍ずらされ、入ってくる力の角度だけが変わる。
切断ではない。滑走だ。
世界が細くなる。
音が削れ、光が糸になる。
同時に踏み込む。
ハルバードの穂先が喉元へ、双剣の片刃が鎖骨の下へ。
残るもう一方の刃は心臓へ。
紙一重。
どちらが半指、早いか。
オリビアは見た。刃ではなく、足。
右踵。土の沈み。体重の乗り方。
炎域の厚みが、右に重い。
なら、半指だけ、左へずらす。
風が舌の上を通り、空気の味が鉄の味に変わる。
刃が触れない距離で、軌道だけが交差した。
ハルバードの穂先は鎖骨を狙う軌道にずれ、そこは風膜が最も厚い層。
割れない。滑る。落ちる。
双剣の左は喉へ、右は胸甲の中央へ。
こちらも、紙一重。
踏み込めば、互いに倒れる。
踏み込まなければ、互いに立ったまま。
——だが、この場には四人がいる。
踏み込んだその瞬間、四人の刃がマグナスに届く。
彼はそれを、理解している。
盤面はすでに、固まっていた。
ラウニィーの弓弦が鳴りかけて止まり、サンドの盾が一歩だけ出かけて止まり、エルドゥの斧が肩で息をし、セレナの刃が淡い闇を吸うように沈む。
「チェックメイトよ」
オリビアは静かに終わりを告げる。
マグナスは、ほんの一拍、瞼を伏せた。
炎の気配が弱まり、ハルバードの穂先が下がる。
白が赤に戻り、赤が暗へ消える。
「……よく、ここまで運んだ」
呟きは誰にも届かないほど小さい。
しかし、意思は明確だった。
彼は半歩退き、武器を引いた。
炎が消える。空気が急速に冷える。
兵たちの喉が一斉に鳴り、張られていた弦がようやく緩んだように、陣の空気が落ちた。
マグナスは振り返らない。
副官たちが息を呑み、旗手が命を待つ。
彼は短く言った。
「——全軍、撤収」
が連鎖し、本陣が一斉にほどける。
布の影が揺れ、杭が抜かれ、馬のいななきが低く長い尾を引く。
マグナスは誰にも背を見せず、誰も見ず、ただ踵を返した。
オリビアは追わない。
礼も、言葉も、向けない。
ここは名乗りの場ではない。
ただ“戦場の一点”だったに過ぎないから。
炎の残り香が風に攫われる。
陽が昇り、影が長く伸びる。
ラウニィーがゆっくりと近づき、視線で問い、オリビアは小さく首を振る——大丈夫、という合図。
サンドが盾を地に置き、エルドゥが空を仰いで息を吐き、セレナは袖口の血を指で拭う。
誰も勝鬨を上げない。
誰も敗走を嘲らない。
ただ、戦いは終わった。
風が本陣の布を撫で、杭の影が草に落ちる。
この日のことは、やがて噂となって広がるだろう。
象徴と象徴が刃を交え、最後に立っていたのは二人ともで、勝敗は一見つかなかった、と。
だが——刃の間に覗いた一瞬の盤面を、当事者たちは忘れない。
それは、炎が退き、風が残った、というだけの事実だった。
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