第十七話 「剣と剣の間に」
夜明け前。まだ空は夜と朝の境にあり、本陣は濃い夜霧に包まれていた。
伝令兵が駆け込んだのは、マグナス・グレンヴァルドが詰める指揮幕舎だった。
「はっ、筆頭中隊長……報告が、あります!」
荒い息を整える暇もなく、伝令兵はその場に膝をつく。
「南西林方面より、我が陣にくる影を確認! 距離およそ三百メディル。所属不明、護衛なしの単独接近です!」
幕舎内の空気が、一瞬にして張り詰めた。
副官たちがざわめき、誰もが顔を見合わせる。
マグナスが低く問う。
「単独だと?」
「……はい。その魔力反応は……」
伝令兵の喉が、ごくりと鳴る。
「……オリビア・エルフォード中隊長と一致しました」
その名が告げられた瞬間、場の空気が凍りついた。
「……なぜ彼女が本陣に?」
「まさか命令もなく……?」
「状況がわからん……!」
副官たちは次々と囁き合うが、誰一人としてその理由を理解できなかった。
作戦行動の報告もなければ、伝令もない。
そもそも中隊長が単独で本陣に来ること自体が、ありえない。
マグナスは一度目を伏せ、深く息を吐くと立ち上がった。
「……俺が行く」
炎のような魔力が、彼の体内で静かにうねる。
「理由は、彼女の口から聞くしかあるまい」
⸻
夜霧の外。
前線警備の兵士たちはすでに、目に見えぬ魔力の圧力に息を呑んでいた。
霧の向こうから、ゆっくりと、一人の女が歩いてくる。
銀色の髪が風に揺れ、夜霧がその歩みを避けるように割れた。
オリビア・エルフォード。
護衛もなく、ただ一人で。
その理由は、誰にもわからない。
ただ、圧倒的な魔力が夜霧を切り裂いていることだけが、全員に伝わっていた。
マグナスはその姿を見据える。
炎の魔力をわずかに解放する。
彼の周囲の空気が熱で震え、地面の草がぱちぱちと音を立てて焦げた。
火属性の上位互換——炎魔法を扱う数少ない男。
その一歩だけで、夜の空気が灼けていく。
対するオリビアは、進化魔法こそ持たない。
だがその魔力は圧倒的で、踏み込むたびに空気が震え、風と水が混ざり合って霧を切り裂いていく。
まるで大気そのものが彼女の味方をしているかのようだった。
炎と風。熱と冷。
——それだけで空気がぶつかり、戦場が震える。
周囲の兵士たちは、理由も知らないまま、その場から自然と下がっていた。
2人の魔力圧が周りの音をかき消していくように静まり返っていく。
誰もが“この場に踏み込めば死ぬ”と本能で理解していた。
⸻
「お前がここに来たこと自体が、すでに“常識の外”なんだよ」
マグナスの声は低く、炎と共に地を震わせる。
「……なぜ一人でここに来た? 何のつもりだ、オリビア・エルフォード」
「……」
オリビアは即答しない。
まっすぐに彼の目だけを見ていた。
「お前がこうして現れた時点で、全てがただ事ではない。……だが、何を考えているのか、俺にはわからん」
マグナスの声に、兵士たちはざわめく。
「理由もなくここに来たなんて、ありえない……」
「戦線離脱か? いや、彼女がそんなことを?……」
オリビアは静かに口を開いた。
「……理由は、ここで話すわ」
「……ならば、聞かせてもらおう」
マグナスが一歩踏み出す。炎の波動が空気を揺らす。
「王国軍の象徴とも言えるお前が、本陣に単身乗り込んだ理由をな」
風と炎が激しくぶつかり合う。
夜霧が完全に吹き飛び、戦場全体が二人の力の中心に吸い込まれていくようだった。
⸻
「まず、確認しておく。お前は命令を受けてここに来たわけではないな」
「そう。私の意思で来た」
「なぜだ」
「……見過ごせないことがあるから」
短い応酬。だが十分だった。マグナスは目を細め、言葉を継ぐ。
「本陣を前に単騎で現れた指揮官。ありえない手だ。——それでも来たというなら、ただの抗議や直訴ではない。ここで俺を止めたいのだろう」
「“ここ”で止まってもらう必要があるのは確かね」
「理由を言え」
「言っても、納得はしない。……だから、戦って決める」
剣を抜く前から、周囲の空気は灼熱と烈風の縒り合わせになっていた。
兵たちは二重三重に下がる。幕舎の布が焚き火の炎を吸ってはためき、杭に結ばれた縄が悲鳴のように軋む。
「ふむ、で、あるなら刃を交えるほかあるまい」
マグナス、オリビアは両者ともゆっくり武器を構えた。
「では——始めよう」
「来い」
二人の足裏が同時に大地を踏み、同時に光が走った。
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